栄誉
独自設定・解釈あり。
ヴェルナーが堤康次郎を超えたようです。
1907年7月下旬――
ヴェルナーは陸軍大学の講義後、いつも通りに参謀本部に詰めていた。
彼の最近の仕事はヴェルナードクトリンの問題点解決から、陸軍の組織上の問題点、そして創設されるべき空軍の運用など尉官風情が関わるべきではないことに関わっていた。
彼は未来において、参謀総長などの総司令官に必須とされるのは戦場で英雄的な指揮をとることではなく、軍部を纏めあげた上で自国の生産体制や工業技術・科学技術など戦力を強化しつつ、政治と関わりながら、戦略的勝利を目指す、とそういった極めて文官的なことであることを知っていた。
故に、彼は個人の私的利益――ヴェルナーはRFR社の一応トップである――に使用しない、ということを神と皇帝陛下に宣誓した上でドイツ全土における様々な企業の生産量や生産体制、工業・科学技術のレベルなどの把握に努めていた。
そこから彼は最先端を突っ走り、大量生産を行う企業は大手のところばかりであり、中小企業は資金・人手不足から下請けに甘んじるしかない、という現状を目の当たりにした。
本来ならば政治の分野に足を突っ込むことではあるが、ヴェルナーは敢えて提案書を提出した。
ドイツにはマイスターと呼ばれる熟練職人が職業として存在する。
有名どころではマイセン陶磁器のマイスター、マイナーどころでは煙突掃除のマイスターなどだ。
彼らはこの時代の工作機械では到底実現できないような精度でもって自らの仕事を完遂する。
そういったマイスター達は例外なく頑固であり、大企業に囲われることを嫌う。
故に、彼らが所属するのは小さな町工場だ。
だが、技術力があっても小さければ大企業の物量で押し潰されるのは明白だ。
そこでヴェルナーが提案したのはこの頑固な親方連中に工業の根源となるマザーマシンを作ってもらう、というもの。
無論、企業の圧力に晒されぬよう国家レベルでの保護の下で。
この提案を受けたモルトケはマザーマシン――工作機械を作る工作機械――を怪訝に思った。
彼をはじめとした将官達はヴェルナーをジョーカーのようなものだ、と捉えていた。
企業の経営者でありながら下っ端の軍人。
その立場は極めて複雑であり、機嫌を損ねるとどういった反動があるか分からなかった。
とはいえ、モルトケらはヴェルナーが軍人にはない視点を持っていることに関しては高く評価していた。
ヴェルナードクトリンも既存の知識からはとても生まれてくるようなシロモノではないことは明白だ。
また、ヴェルナーがこれまで全て実績でもって返してきたことから、今回のことも確固としたものがあるのだろう、とモルトケは皇帝にヴェルナーからの提案書として原文をそのまま提出した。
色々と貢献してきたヴェルナーからの提案ということでヴィルヘルム2世はただちに検討するよう指示し、その結果は8月初旬におまけがついて返ってきた。
マザーマシンやその他工業に関わらず特に精密なものを創りだした者や創りだそうとする者に補助金が出るようになり、また国家レベルでの統一規格の策定が決まった。
前者に関してはヴェルナーの後押しがあったが、後者に関しては主に経済界からの要請であった。
ダイムラー・ベンツもRFRもその他多くの企業は一応メートル法で製品を製造しているが、そのメートル法も企業によってまちまちであり、1メートルが1メートル5センチであったり、90センチであったりした。
これまではどのような製品であっても、総じて少量であった為に、それでも問題は無かった。
しかし、RFR社による大規模大量生産により、各メーカーは争ってRFRの大量生産技術を真似し始めた。
それにより出てきたのは下請け、孫請けとの間で部品互換が無いことであった。
多くのメーカーは下請けや孫請けなどが存在し、21世紀日本での産業構造とほとんど同じであった。
また、メーカーは違うが同じ自動車であるのに使われているネジに互換性が無い、などと最近になって多く立ち上がった自動車修理専門の会社からそういった要請が届いていた。
結構な勢いで国家予算をばら撒いているのだが、9月ともなれば既に来年度の予算が決まり始め、また今年度の予算も少なくなっている。
言ってしまえば給料日前のサラリーマンのような金欠状況だが、統一規格策定に関する必要な予算は経済界が負担することとなった。
そして、9月初旬になると念願のものが中国の黒竜江省において発見された。
そう、史実において大慶油田と呼ばれる油田群であった。
この発見の報は全世界を駆け巡り、アメリカもイギリスも日本も我先に、とこの油田の調査に乗り出した。
ヴェルナーはそのような各国政府や企業の動きの中、余裕の笑みを浮かべて提携したければどうぞ、と門戸を開きつつ、新たに探査にあたった技術者達を中心としてルントシュテット石油会社を立ち上げた。
そして、いざ各国の技術者達が調べてみると、この油田は極めて特殊であった。
常温では固体化してしまい、油として使うには24時間加熱しなければならず、また重質気味で硫黄分が多かった。
これでは自動車用のガソリンどころか、艦艇の燃料として使うこともできなかった。
採取して実験した結果、精製コストがかかりすぎるという観点から各国政府や企業は落胆し、次々と手を引いていった。
万年資源不足の日本ですら、そんなところにカネを回す余裕がないと手を引いた。
この油田――ドイツ初の油田ということで大慶油田ではなくカイザー油田と名付けられた――を開発したければ好きにどうぞ、と各国はそういう反応であった。
無論、各国は抜け目なく、サンプルを持ち帰り精製実験を行うことに専念しつつ、ヴェルナーに対していつでも参入できるよう常に門戸開放をするよう求めた。
開発を完全に諦めたというわけではなく、彼らは精製コストが下がったらすぐにでも参入するつもりだった。
この反応はヴェルナーにとって予想通りであった。
彼は大慶油田の油質がそうであることを知っていたのだから。
そして、そういう抜け目がないところも。
ともあれ、技術とは必要に応じて開発されるものであった。
ヴェルナーはこの難物の油を自動車や艦艇燃料として使えるよう、技術者や研究者達に指示し、多額の資金を渡した。
彼はこれを契機とし、ドイツにおける石油精製技術の大幅な向上を狙っていた。
1930年代までにオクタン価100のガソリンをドイツ国内における航空機の標準燃料としたい、と彼は考えていたのだ。
ヴェルナーは立ち上げた石油会社だけでなく、RFR社における基礎研究部門の研究者達もこの問題解決に取り組ませた。
また、皇帝であるヴィルヘルム2世をはじめとしたドイツ政府の面々や陸海の高官達もこれを後押しすることとなった。
彼らは地球の裏側に等しい場所であっても、自国の領土で石油が出ることに狂喜したのだ。
かくして、国家プロジェクトとしてカイザー油田の原油の有効化が図られることとなり、そこに投入された人手と金額は他国の比ではなかった。
また、この発見が発破をかけたのか、1905年から開始されていた探査――皇帝の肝入りであったということもあり土地という土地を全て掘り返す勢いで行われた――ドイツの海外植民地において、油田や鉱山などが相次いで発見され始めた。
なお、前後して黒竜江省で史実における吉林油田が発見され、こちらは大慶油田程の難物な油ではなかったが、沼沢地などが多く、掘削にやはりコストがかかりすぎるという点が他国に大規模に手を入れるのを躊躇させた。
しかし、コストがかかっても、油が必要なドイツからすれば開発しない手は無かった。
そんなドイツの動きに追従する形で日本、アメリカ、イギリスが参入し、結局、ドイツ主導の下、他国が協力するということとなった。
ドイツもまた日本程ではないが、慢性的な資源不足に悩まされており、それが解消できるならば、と官民一体で恐ろしい速さで関連する技術――精製技術や掘削技術が発展し、鉱石などからより高純度のものを取り出そう、と冶金技術もこれまでよりも大規模に研究され始め、将来における技術向上のきっかけとなった。
これらの動きに対し、どこの国も文句を言えなかった。
何しろ、自国の植民地内で見つかったのだから、文句の言いようがなかった。
ともあれ、アメリカやイギリスはドイツとの一層の関係強化を目標とし始めた。
そして、フランスはドイツを見習って自国の海外植民地の発展に努めることとなった。
しかし、ドイツの動きは各国の予想を超えていた。
ドイツは資源を自給できることになったことで、各国からの各種資源の輸入割合を大幅に低下させ、反対により大規模に様々な工業製品を輸出するようになった。
これにより、外貨収入が大幅に増え、ドイツの外貨準備高は急激に増加した。
折しも、フォードによって確立された大量生産技術は大企業においてはほぼ確実に、中小規模の企業であっても徐々に浸透しはじめており、この時代で見た場合、恐ろしい数の製品が、一定の品質を保って工場から吐き出されていた。
それ故、他国の同種製品と比較した場合、性能では多少劣る部分があっても、品質にほとんどバラつきがなく、何よりも安価であった。
故に、ドイツ製品は諸国で広く受け入れられた。
一番の仮想敵国であるフランスであってもそれは例外ではなく、各国は慌ててドイツ製品に対し高い関税をかけることとなった。
だが、その対策を取れたのは一部の列強のみであった。
オーストリア・ハンガリーや日本といった列強の末席にかろうじて名を連ねている国家やそれ以外の国家は安価で性能も良いドイツ製品を輸入せざるを得なかった。
特に日本では黒竜江省の一件があり、国民レベルでは感情的にドイツ製品を輸入したくはないのだが、それを使った方が財布に優しいということで日本企業はこぞってドイツ製品を輸入した。
ともあれ、作れば作った分だけ売れるというドイツ企業にとっては非常に美味しい状況であった。
この為、どこの企業も国家レベルでの統一規格策定を強力に推進しつつ、生産ラインの拡充とより効率的な生産体制の開発に努め、やがてそれは原料・燃料・工場施設を有機的に結びつけた、いわゆるコンビナートというものになって現れることとなった。
なお、コンビナートという名称に関してはこの世界のドイツではビンドゥンクと呼ばれることとなった。
元々、コンビナートはロシア語で結合を示し、それがドイツ語の場合はビンドゥンクとなった為だ。
さて、このコンビナートを作ることができる企業は限られている。
言うまでもなく、複数の施設を大規模に構築する必要がある為、初期投資にとんでもない資金が必要となるのだが、ここで経済界が動いた。
彼らはパイの独占ではなく、パイの共有を選び、コンビナート建設に参入しやすいよう、自発的に基金を作った。
この場合、パイが何を指すかというと、ドイツ国内市場ではなく、世界市場だ。
また、この基金と連動してRFRを含め、様々な企業間で技術的な提携が結ばれることとなった。
RFRとダイムラー・ベンツは互いにライバルである、と見ていたのだが、それも将来の膨大な利益の為に一時休戦となった。
そう、世界という超広大な市場の為だ。
その市場を占領する為には常に他国企業よりも最先端なものを、安価で、大量に提供し続けなければならなかった。
何やらドイツ一国だけが20世紀ではなく21世紀レベルの経済的産業的構造へと転換し始めているが、元々工業レベル――国力の指標の一つである粗鋼生産量ではイギリス・フランス・ロシアを合計してもなおドイツが若干上回る――イギリスを上回り、文盲率は欧州で最も低い。
明確な辿るべき道を示せば、自ずと結果はついてくる国であった。
1907年10月初旬
ヴェルナーはそわそわとしていた。
彼はつい1週間程前、中尉に昇進していた。
部隊経験がほとんどないまま、ここまで昇進した彼は例外であり、破格の待遇であった。
しかし、来年の陸軍大学卒業と同時に近衛連隊に配属されることが決まっており、そこでこき使われることが確定している。
そんな新米中尉な彼は現在、馬車に揺られてベルリン宮殿へと向かう途上であった。
陸軍の高官連中に対し、今では一歩も退かずに議論できる彼であっても、社交界は初めての体験であり、緊張しっぱなしであった。
もっとも、20時までには参謀本部に戻り、空軍における機材の調達に関して担当者と協議しなければならなかった。
参謀本部の将官や佐官達も多数出席するのでヴェルナーは彼らについていこうとしたが、何故かモルトケから、18時きっかりにベルリン宮殿に到着するよう言われていた。
ヴェルナーは懐にある懐中時計を見た。
現在、予定時刻の10分前であり、宮殿への入り口はもはや目前であった。
他の参加者がいてもおかしくはないのだが、誰もおらず、警備の近衛兵くらいなものであった。
ヴェルナーは不思議に思いながらも、近衛兵に案内され、パーティー会場へと通された。
大きく、荘厳な扉がゆっくりと開いていく。
それと同時にヴェルナーは自身が多数の視線に晒されていることを感じた。
そして、彼は悟った。
道中、出席者と出会わなかったのは既に出席者がパーティー会場にいたからだ、と。
しかし、彼の歩みはまだ止まらなかった。
近衛兵に促され、ヴェルナーは多くの参列者達の間を通り、前へ前へと進んでいく。
やがてヴェルナーは壇上へと上がった。
その壇上には綺羅びやかな軍服や燕尾服を纏った男達がいた。
ヴェルナーにとってお馴染みのモルトケ、顔写真でしか知らないティルピッツとドイツ帝国宰相ベルンハルト・ビューロー、そして同じく顔写真でしか知らない皇帝ヴィルヘルム2世であった。
「君が、ヴェルナー・フォン・ルントシュテットかね?」
ヴィルヘルム2世が問い、その問いにヴェルナーは最敬礼でもって凛とした声で肯定した。
「まさか軍人でもある君がこの勲章を受章することになるとは……制定した父祖も、予想しなかっただろう」
その言葉と共にヴィルヘルム2世の下へ近衛兵が小箱を持ち、ゆっくりと歩いてきた。
やがて傍まできた近衛兵は小箱を開ける。
ヴィルヘルム2世はその小箱の中身を慎重に持ち、それを掲げた。
「ドイツ帝国皇帝フリードリヒ・ヴィルヘルム・ヴィクトル・アルベルト・フォン・プロイセンの名において、プール・ル・メリット科学芸術勲章を授与する」
その宣言と共にヴィルヘルム2世はヴェルナーの首に勲章をかけ、ヴィルヘルム2世はその厳つい顔に笑みを浮かべた。
プール・ル・メリット科学芸術勲章はプール・ル・メリット勲章が戦功章であるのに対し、人文科学・自然科学・ファインアートに功績があった者に対して贈られる平和勲章だ。
ヴェルナーの場合、ドイツ帝国における科学の発展という功績が該当する。
直接的にはライト兄弟やヘンリー・フォードなどに贈られるべきものであるが、その彼らも、ヴェルナーが誘致しなければそうはならなかったという点が評価された。
もっとも、そのライト兄弟やヘンリー・フォードらにも、この勲章は贈られることが決まっていた。
敢えてヴェルナーに一番に授与されたのはひとえに、政治的なパフォーマンスであった。
ともあれ、当のヴェルナーは展開に全くついていけなかったが、事態は彼を放置してどんどん進む。
モルトケやティルピッツ、ビューローがヴェルナーの行ったドイツ帝国への功績を高々と述べ、パーティーに出席している者達は感嘆の声を上げる。
出席者も相当なもので、ドイツ貴族≒高級軍人達やヴェルナーとも顔見知りの経済界の大物達、高名な医者や学者は勿論、周辺諸国の貴族など、様々な者達がいた。
そして、ヴェルナーがようやく自分の立ち位置を理解したときはヴィルヘルム2世から何か一言と、コメントを求められたときであった。
ヴェルナーはどう言ったものか、と戸惑ったが、やがて彼はゆっくりと言葉を紡ぎ始めた。
「ドイツは周辺諸国に戦争を行う必要性は全くありません」
その第一声にどよめきの声が広がる。
まさか軍人であるヴェルナーからそのような言葉が出るとは思ってもみなかったのだ。
しかし、ヴィルヘルム2世らをはじめとしたドイツ人は余裕の表情であった。
ヴェルナーの言葉は現状を確認した程度に過ぎないのだ。
「これからのドイツが戦争を行うとなった場合、それは貿易における経済的な摩擦に端を発するものとなるでしょう」
そして、とヴェルナーは言葉は続ける。
「ドイツは常に戦争を仕掛けられる側となります。そして、そうなったときが、戦争を仕掛けた相手国の最後となるでしょう」
気負う様子もなく、ただ平然とヴェルナーは言った。
しかし、彼は釘を刺すことを忘れなかった。
「我々ドイツ帝国軍は平時においては少数精鋭ですが、戦時においては国家を挙げた総力戦体制を可及的速やかに構築せねばなりません。一国民、老若男女の別なく、戦争を勝利する為に、軍は多数精鋭の必要があり、万全の補給を常に受けられる状態でなくてはならないのです」
ヴェルナーは更に続ける。
「次の戦争において、最も重要となるのはどれだけの兵器を前線へ送り込み、送り込んだ数のうち、どれだけの兵器が前線で使用できるか、これにかかってくるでしょう」
陸海問わず、補給と生産体制が何よりも重要であるというのは既に浸透しているが、全くの素人はとかく書類上の数字に目がいきやすい。
たとえ量産したとしても、それを前線まで運び、どれだけの数が使用できるかが問題なのだ。
同じように、徴兵すればすぐに彼らが兵士として戦えるわけではない。
ヴェルナーの言葉を受け、ヴィルヘルム2世は告げる。
「余はより一層の帝国発展を目指すことをここに宣言しよう。帝国軍については困難は要求しても、不可能は要求しないことをここに誓おう」
ヴィルヘルム2世の言葉により、モルトケ、ティルピッツを含め多くの軍人達は内心安堵した。
ドイツ軍は未だに発展途上であることがよく理解できていた為であった。
迫撃砲やら短機関銃などは完全な量産に移るには時間が掛かり、その扱い方も生み出していかなくてはならない。
新兵器は新兵器であるからこそ、運用を試行錯誤しなくてはならないのだ。
ヴェルナーの論文には具体的な部分も多少はあるが、ほとんどは概念的なものでしかない。
故に、戦力化に時間が掛かるのは当然であった。
ましてや、個々の兵士に対して高い練度を要求する伝統を持つのがプロイセン陸軍。
殊更、兵士の訓練というものに対しては時間が掛かった。
「では諸君、パーティーを楽しんでくれ給え」
ヴィルヘルム2世の言葉が実質的な締めの言葉となった。
ヴェルナーは壇上から下りた後、大勢の貴族達に取り囲まれ、言葉を交わすこととなった。
実は彼、一度もパーティーに出たことがなく、ドイツ貴族は無論、各国の貴族達も繋がりを持とうと躍起になっていた。
故に、社交界デビューであると同時に勲章を授与された彼は常に話題の中心であった。
ひと通り貴族達との会話が済むと今度は経済界の大物達とヴェルナーは言葉を交わすこととなった。
少数に貴族達がその話題に入ろうとヴェルナーの傍にいたが、彼らは交わされる言葉を理解できなかった。
ハンブルクのビンドゥンクが云々や財務健全性が、日本国債が云々……
そのような感じで貴族達を置いてけぼりにした会話も終わったとき、ヴェルナーを待っていたのは10代前半から20代前半までの貴族の令嬢達であった。
それぞれが見目麗しいドレス姿であり、ヴェルナーが渇望した金髪碧眼で巨乳の子も多かった。
ヴェルナーは察知していた。
ここにいるのは嫁候補となった38人である、と。
囲まれた彼は逃げるなどというヘタレなことはせずに極めて堂々と、ドイツ軍将校らしく振舞った。
勿論、内心ではあの子もいいな、この子もいいな、と目移りし、最終的には全員纏めて面倒みてやるぜ、とそういう気持ちになりつつあったのだが。
ヴェルナーには明確な建前があった。
ドイツに唯一足りないのは人口であるからして、その人口増加に少しでも貢献したいというもの。
言い分は立派だが、結局のところ男の言い訳である。
しかし、ヴェルナーはゲルトから厳命されていた。
38人の中から嫁を選べ、と。
彼は女の子達と会話しながら、誰を自分の嫁にするか悩んだ。
内心はどうあれ、どの子も満面の笑みを浮かべ、こちらに気に入られようとする意思がひしひしと伝わってくる。
そんな中、ヴェルナーは1人の子に目をつけた。
大抵の子には既に自己紹介され、僅かだが会話をしたが、その子はきっかけが掴めないらしかった。
彼女もまた金髪碧眼であり、巨乳にして長身――ヴェルナーの背丈より僅かに低い程度であった。
彼女は碧いドレスを纏っており、肌の白さとあいまって非常によく似合っていた。
ヴェルナーはその子の傍へと寄り、問いかけた。
「君は?」
「私はエリカ・フォン・エーヴァーハルトと申します」
フォン・エーヴァーハルト、と聞いてもヴェルナーにはピンとこなかった。
貴族同士の繋がりとか貴族の情報などそういったことに関してはてんで疎い彼であり、このフォン・エーヴァーハルト家がどういう貴族なのかさっぱり知らなかった。
そのエーヴァーハルト家はユンカーであったが、軍人の家系ではなく、商人の家系であり、小さな工場を経営していた。
しかし、そこまで財産があるというわけでもなく、他の37人の女の子の家と同じように、小規模な屋敷しか持たなかった。
あるものといえば家柄程度だったのだ。
さて、そんなエリカであったが、ヴェルナーは中々にそそられた。
内面重視という言葉が21世紀の日本では叫ばれていたが、その内面を評価してもらう為の予選として外面がある程度整っている必要があった。
何が言いたいかというと、エリカは他の女の子達と比べてもより大きな胸をしており、それでいてアンバランスにならない程度に体つきも良かった。
そして、外見に釣られるのが男の悲しい性であった。
「知っての通り、ヴェルナー・フォン・ルントシュテットだ。で、君も?」
期待を込めたヴェルナーの問いにエリカは頷いた。
しかし、彼女はそれだけに終わらなかった。
「もし宜しければ、静かなところでお話がしたいのですが……」
そう言い、伏し目がちに問いかけるエリカ。
他の令嬢達が注目する中、ヴェルナーはゆっくりと言葉を紡ぐ。
「何分、私も忙しいので10分だけならば」
ヴェルナーの言葉にエリカは満面の笑みを見せたのだった。
ヴェルナーとエリカは連れ立ってパーティー会場を出、近衛兵に静かな場所へ行きたいと告げると庭園へと案内された。
ベルリン宮殿の庭園は広く、それでいて月明かりが降り注いで幻想的な雰囲気であった。
「月が綺麗だ」
ヴェルナーの言葉にエリカは僅かに頷く。
そんな彼女にもっとも、とさらに彼は言葉を続ける。
「私は貴女の方が綺麗であると思う」
そんな、と彼女は照れたように首を横に振る。
それからしばらく、2人は月に見入った。
「ルントシュテット様は……私を妻にしてくださいますか?」
単刀直入の問いにヴェルナーは即座に答えた。
「君が3つのことを我慢できるのならば」
「3つのこと……?」
「愛人を作ること、戦死するかもしれないこと、事業につまずくかもしれないこと……この3つだ」
エリカはその条件に素直に驚いた。
ヴェルナーの一番目の条件を除き、残る2つは神でなければ分からない不確定なものであった。
そして、愛人を作ることはどこの男もやっていることであり、別に不思議なことでもない。
驚くほどに緩い条件であった。
「勿論です」
エリカはすぐに答えた。
そんな彼女にヴェルナーは問いかける。
「君は何か……例えば家庭的な事情を抱えていたりはしないのか?」
問いにエリカは黙って俯いた。
その様子でヴェルナーには十分過ぎた。
カマをかけた彼であったが、まさか本当にあるとは思いもしなかったが、その事情が借金などのそういったものであることは容易に想像がついた。
「借金か?」
問いにエリカは首を横に振った。
ふむ、とヴェルナーは腕を組んだ。
この様子からすると、借金などでは済まされないとんでもないウラがありそうだった。
「私の父は後ろ暗いことのある貴族の令嬢を自分の息子の嫁としてもってくる筈がないのだが?」
ヴェルナーはもしや、父も知らないこと、重大な秘密があるのではないか、と。
例えばエリカが実は男だった、とかそういう意味で。
ここまで問うても、エリカは口を開かない。
かくなる上は、とヴェルナーは告げた。
「神と皇帝陛下に誓い、この場で君が話してくれるだろう秘密を洩らさない、と」
その言葉を受けたエリカであったが、すぐには話さなかった。
しかし、ヴェルナーはただ待った。
「……私は私生児です」
10分程の時間を置き、彼女が小さな声で――ヴェルナーに聞こえるか聞こえないか程度の――そう答えた。
ヴェルナーはすぐに父が気づけなかったのも無理はない、と感じた。
私生児、すなわち今の夫との間にできた子供ではない。
母親の連れ子で、父親に認知されなかったのだろう。
私生児という存在に対し、欧州というのは殊更差別が酷い。
そんなに重大な秘密を知っている者は彼女の母親と今の父親だけなのだろう。
そして、このエリカを送り込んだ理由がヴェルナーにはよく理解できた。
何事もなくエリカと結婚していたのならば、私生児と結婚したとしてこちらを脅迫してくるに違いなかった。
「やれやれ、どうやら自分は外部の敵と戦う前に内部の敵と戦わねばならないようだ」
エリカは顔を上げた。
彼女はその内部の敵というのを自分の排除という風に捉えた。
しかし、その心配は杞憂だった。
「で、そういった非嫡出子に対してよくあると言われるが……君もまた両親に虐待されたのかね?」
エリカは小さく頷いた。
「ところで軍隊において規律としてもっとも重視されるのは何だと思う?」
ヴェルナーは懐中時計で時刻を確認しながら問いかけた。
唐突な問いにエリカは首を傾げる。
そんな彼女にヴェルナーは笑う。
「決められた時間内に、完璧に完全に物事をこなすことさ。私は20時までに参謀本部に戻らねばならない。今の時間は19時05分。ここから参謀本部までの時間を考慮し、全ての問題を20分以内に処理しよう」
そう言い、ヴェルナーは立ち上がった。
軍帽をかぶり直し、衣服の乱れを整える。
その際、彼の襟が極僅かだが乱れていた。
エリカは半ば無意識的にその乱れを直した。
ヴェルナーは間近にあるエリカの顔にキスしようか迷った。
故に、彼は問いかけた。
「これから私は戦に赴く。戦勝祈願のお守りが欲しいのだが?」
そのまどろっこしい問いかけにエリカは自分のキスが欲しいのだ、と直感した。
しかし、彼女としては元々仕組まれた政略結婚。
ヴェルナーを愛しているどころか好きという感情もないし、そもそも会ったのがつい先程。
だが、何かしらの決断をした様子の彼に、その行動が自分にとって良いものであると彼女の勘は囁いた。
どちらにせよ、自分がヴェルナーと結婚もしくは愛人にならなければ自分は破滅であるとエリカは確信していた。
待っているのは両親による躾と称した虐待。
その地獄から抜け出せるならば、とエリカは意を決し、ヴェルナーの頬にキスをした。
「……これで勝利は確実なものとなった。ちょっと慣習に喧嘩売ってくる」
最後はえらく軽い口調でそう言い、ヴェルナーは庭園を後にした。
そして、ヴェルナーが向かった先はパーティー会場であった。
彼が会場に現れると再び令嬢達が近寄り、自らをアピールしてきたが、ヴェルナーは笑顔でそれらをやんわりと断り、ヴィルヘルム2世らを探した。
すぐに彼らは見つかった。
奥まったところで椅子に座り、何やら歓談している。
ヴェルナーはずんずんと彼らへと歩み寄った。
そんな彼に気がついたヴィルヘルム2世らはヴェルナーの雰囲気がまるで戦争に赴く兵士のような、精悍さと悲壮さが同居しているのを見た。
「ルントシュテット中尉、どうした? 我が国は戦争なんぞしておらんぞ」
赤ら顔のモルトケが問いかけた。
中々に飲んでいるらしい。
そんな彼にヴェルナーは告げた。
「事態は一刻を争います。つい先程、恐るべき陰謀が明らかになりました」
恐るべき陰謀と聞いてヴィルヘルム2世らは顔を見合わせた。
そんな彼らに対し、ヴェルナーは言い放った。
「フォン・エーヴァーハルト家の令嬢である、エリカが明かしたところによりますと、フォン・エーヴァーハルトは『実の娘』たるエリカを使い、私の弱みを握り、脅迫しようとしていたとのこと」
ヴィルヘルム2世らの顔色が瞬時に変わった。
ヴェルナーはつい先程、勲章まで授与されたドイツにとって必要な人材であった。
そんな彼に誰とも知れぬ貴族が横槍を入れるなどあってはならないことだった。
そして、もしそんなことを許してしまえば皇帝としての威厳に関わる。
また、報告者がヴェルナー自らであったこともヴィルヘルム2世らを信じさせるには十分であった。
彼らも先ほど、エリカとヴェルナーが2人でパーティー会場を抜け出すのを目撃していたからだ。
口説く中でその情報を引き出したのだろう、と想像するに容易かった。
「速やかに処理しよう。報告ご苦労」
ヴィルヘルム2世は努めて冷静にそう答えたが、その内心は烈火の如く怒り狂っていた。
その言葉を聞き、ヴェルナーは答礼してその場を後にする。
その一方でヴィルヘルム2世は既に指示を下していた。
「警察と同時に軍も派遣せよ」
「ただちに……ですが、陛下、証拠が必要では?」
ビューローの問いにヴィルヘルム2世が逆に問いかけた。
「ルントシュテット中尉がフォン・エーヴァーハルトという貴族を没落させる必要があるのか?」
ビューローは答えられなかった。
そうする理由が全く見当たらないのだ。
答えないビューローに対し、ヴィルヘルム2世は重ねて告げた。
「警察と軍を派遣せよ。これは勅命である」
庭園へと戻ったヴェルナーはベンチに腰掛けて待っていたエリカに微笑んだ。
その様子にエリカは彼の言う、戦が勝利に終わったことを確信した。
ヴェルナーはエリカの隣に座り、告げた。
「君は明日から英雄となる。君の秘密は私と共有しよう。だが、それ以外の者に洩らす必要は全くない。私と共に墓まで持って行こう」
それは実質的なプロポーズであった。
エリカはその言葉から、自分がもはや両親に怯える必要がないことを悟った。
「……私は何の取り柄もありません。ルントシュテット様には私よりも良い方がいると思います。それでも、よろしいですか?」
ヴェルナーは自分が雰囲気に流されていることをここで理解した。
目の前にいる可哀想な少女を悲劇から救い出した英雄気取り、よくあるお伽話のように。
だが、それでも彼は構わなかった。
どちらにせよ、38人から選ばなければならなかったのだ。
それならば多少でも自分に心から好意を向けてくれる存在の方が有りがたかった。
「構わない。ただ、先に言った3つの条件は我慢して欲しい」
愛人が欲しい、という本音にエリカは声を出して笑ってしまった。
この人は隠し事ができない、と彼女は直感した。
「別に構いません……ただ、妻としてあなたが満足できるよう、できる限りの努力はさせていただきます」
ヴェルナーはエリカの肩を抱き、そのまま顔を近づける。
エリカも抵抗することなく、彼へと顔を近づけ……やがて2人の距離はゼロとなった。
結果から言えば、姑息な手を使おうとしたフォン・エーヴァーハルト家は取り潰しとなった。
首謀者である両親からすればどうしてそうなったのか、さっぱりであった。
まさかヴェルナーが自分の立場を利用してヴィルヘルム2世以下、ドイツの首脳部を動かしたとは想像の外であった。
両親は苦し紛れにエリカが私生児である、と主張したが、罪人の戯言として誰もまともに取り合わなかった。
その一方でエリカは翌日の新聞のトップに載ることになった。
ヴェルナーが懇意にしている新聞記者達に頼んで色々と書いてもらったのだ。
エリカは勇敢にも自らの両親の企みをヴェルナーに告げ云々と美談化された。
そして、エリカとヴェルナーの婚約が決まったことも同時に報じられ、ドイツは祝福の声で溢れることとなった。
結婚式は速やかに行われ、1907年12月24日のクリスマスイヴに2人は正式に夫婦となった。
ヴェルナー23歳、エリカは17歳であった。
余談だが、ヴェルナーはパーティーの後、遅刻寸前の時刻に参謀本部に到着し、担当者に女を口説いていて遅れたんだろう、とからかわれた。
そして、翌日に会ったその担当者は素直におめでとう、と言った。
また、あるとき、エリカが何故パーティー会場で自分に話しかけたのか、とヴェルナーに問いかけた。
そのときの彼の答えはなんとなく目についたから、というものだった。
なお、残った37人の令嬢達も揃ってヴェルナーが囲い込むことになった。
彼が調べてみると、借金があったりエリカ程ではないが何かしらの家庭内問題を抱えていたりする者達が大半であった。
ヴェルナーはどうしてそういう問題のある子ばかりを集めたのか、と父のゲルトに問いかけたら、お前が女好きだからだ、と返された。
要は恩を売ってモノにしろ、とそういう意味であったのだ。
また、エリカの件についてゲルトは借金と聞いているだけで、そんなことを考えていたとは思いもしなかった、とヴェルナーに言った。
このようにして1907年は過ぎ、翌年の年末には早くもヴェルナーとエリカの間に第一子である娘、ゾフィーが生まれ、以後、ほとんど時間を置くことなく2人は子供を作っていった。
また、37人の愛人や元々囲っていたマルガレータ達娼婦や、クララ、あるいはメイド達との間にも子供ができていくこととなった。
その様子にヴィルヘルム2世はヴェルナーをこう評すこととなった
「彼は3つの面でドイツに貢献している。軍事で、経済で、そして人口で」
そんなわけで1910年という結婚してから3年程度で正妻であるエリカや他の愛人や妾を含めると彼の子供は100人を超えていた。
その中で正式な嫡子はエリカが産んだ3人だけであった。
そして、そんな女性関係の派手さはドイツだけでなく、周辺諸国、そして日本にまで届くこととなった。
しかし、どこの国でもネガティブに捉えるものはなく、驚嘆と同時に羨ましがられることとなった。
それだけの女性と子供を養うのは経済力が無くてはならず、ヴェルナーの凄さをただ広めるだけとなった。
そんな中、日本では堤康次郎という人物がヴェルナーに対してひどく憧れを抱くこととなった。
彼は後にピストル堤と異名を取る西武グループの創業者であり、政治家であった。
史実での彼の女性関係の派手さも相当なものであったが、この世界においても同じくらいに派手になりそうであった。