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すごーく詰め込みました。

こんな筈じゃなかったのに……

 1905年8月初旬


「ウチのボスは頭がイカれてるか、世界最高の投資家のどっちかだ」


 ヘンリー・フォードは重役会議にて開口一番そう告げた。

 一応、書類上の最高経営責任者はヴェルナーであったが、実質的にはフォードがそうであった。

 彼からすれば押し付けられた仕事であり、大変に不満であったのだが、自動車レースに楽しさを見出した。


 フィアットやパナール、ダイムラー・ベンツといった様々なメーカーが自動車レースを宣伝と技術のアピールとしていた為、フォードもまたその為に専門のレーシングチームを作り、熱中していた。

 量産技術も既に形になっており、あとは細かい調整だけで済む程度の段階であった為だ。


 そんなときに休暇となったヴェルナーが持ってきた提案は新たに造船業に手を出すというもの。

 自動車と航空機で生産ラインは一杯であり、そこに新たに全く違う分野である造船業に手を出す、というのであるからこそのフォードの言葉であった。


「どういうことだ?」


 重役の1人が尋ねた。


「どうもこうもない。これからウチはフネも造りたいそうだ」


 重役達は目が点になった。

 そして、同時に先ほどのフォードの言葉に納得がいった。


 すぐに彼らからは異を唱える声が続出した。

 ノウハウが全くないという点では飛行機も同じであったが、飛行機を個人で作っていたライト兄弟やヤトーなどがいた。

 しかし、この会社で造船に携わったことがある者など皆無であった。


「だろうな。だから、自分から無理だと断っておいた」


 その言葉に安堵する重役達。

 彼らは現在の事業の拡大こそが利益と国家の発展に繋がると確信していた。


 そして、それは正しかった。

 航空機と自動車という2つに的を絞ったからこそ、他社の追随を許さない程の資本と人手を集中できていたからだ。


 もっともヴェルナーとしては海軍にも繋がりを持ちたかったが故の提案であり、かつあのドイツが大海艦隊を保持したまま20世紀を過ごしていきたいという、幾分ロマン的な考えもあった。


「まあ、もし万が一、ボスがどっかの会社を買収して、これまでの技術を活かしたいとかであるならばウチの会社の一部門とする、と伝えたが」


 フォードの言葉に笑いが漏れた。

 それならば失敗したとき、こちらに被害が無く、うまくいけば会社全体の利益が上がる為だ。



 そんな風に断られたヴェルナーであったが、彼は諦めなかった。

 休暇中であることを生かし、彼はドイツ中の主だった造船会社を回り、資金難であるならば融資すると伝えた。

 とはいっても、どこもかしこも国の補助により、造船所の大拡張や貨物船や客船などの建造で嬉しい悲鳴を上げており、資金難であるところは殆ど無かった。

 そんな中、エムデン市にあるノルトーゼヴェルケ――日本語に訳すと北海製作所――という小さな会社が手を挙げた。

 この会社はエムデン市長の肝入りで1903年に設立された会社であったが、新興会社であり、また会社の規模も小さいことから国の補助金は相対的に少ないものとなってしまった。

 注文は大量にあるのだが、造船所が足りない、その資金も無い、ということでヴェルナーはここの造船所に肩入れすることをただちに決めた。

 すぐに彼はエムデン市へ飛び、ノルトーゼヴェルケの社長やエムデン市の市長らと会談。

 

 ヴェルナーはこのノルトーゼヴェルケという会社の為にシャハトを通じて銀行から大量の融資を取り付けた。

 その額は数千万マルクにも及び、ノルトーゼヴェルケの社長やエムデン市長を驚愕させた。


 2人が驚いている間にも、ヴェルナーは親交のある新聞記者達にノルトーゼヴェルケに関する記事を書かせ、その記事を一面にもってくるよう金をばらまいた。

 同時に造船技師や労働者の募集も大体的に始めたのだが、やってきた造船技師達は揃ってエムデン港の規模に触れた。

 エムデン港はドイツ最古の港であったが、その為に規模も小さく、大型船の建造に向いていないのだ。

 拡張するにしても限度がある為、ヴェルナーはそれならば、と手を打った。

 彼はエムデン市長の了解を取り付けた上でキールやロストクといったバルト海に面した港街に数十エーカーの土地を購入し、そこに新たに造船所を建設することとなった。

 無論、エムデンの造船所は地元雇用の為にそのまま使い、小艦艇専門造船所としてしばらくはやっていくと共に、港の大拡張及び関連する水路の浚渫や拡張工事が決まった。


 これらの一連の拡張ラッシュにより、ヴェルナーはRFR社のフォードに対して建設機械の開発を改めて提案した。

 ブルドーザーをはじめとした一連の建設機械があれば恐ろしい程の利益を上げられると確信していた。

 フォードはこの建設機械というものを以前よりヴェルナーから指摘されてはいたものの、興味が全く無かった。

 しかし、彼はフォードA型をより大規模に量産すべく、更なる工場を建設中であった。

 ダイムラー・ベンツなどの他のメーカーもどんどんその技術やデザインを進歩させている上に、大規模な量産を開始していた為にフォードは早急に工場を稼働状態にさせる必要があった。


 その為、フォードは真剣に建設機械というものに対して検討をし始めていた。

 幸いであったのはヴェルナーのイラストがあったことだ。

 彼のそのイラストはあくまで素人考えのもの、と前書きした上で未来のものが描かれていた。

 未来において誰でも目にしたことがある、一般的な工事車両達。

 それらのイラストがフォードに送りつけられ、彼はキャタピラというヘンテコな機構を研究してみることになった。

 キャタピラ、いわゆる無限軌道を装備した車両に関しては各国で開発が進められ、特許も既に取得されていた。

 だが、やるとなったら徹底的にやるのがフォードであった。

 彼は発明者達に対して多額のライセンス料を支払い、車両製作権を得た上で開発を進めることになった。


 折しも、ヴェルナーに手渡された要望書通り、陸軍から様々な自動車や飛行機の開発依頼がきていたので、ちょうど良かった。

 ヴェルナーは勿論、戦車や飛行機、自走対空砲や自走砲、トラックやら何やらに至るまで工事車両と同じような、イラストにしてフォードに渡してあった。


 見た目が分かれば大雑把な中身を推測することができる。

 何故、そうなっているのかは作っているうちに分かることであり、これまでヴェルナーはそうしてきており、そしてそれで成功を収めていたのですんなりと受け入れられた。

 実は魔法使いなんじゃないか、とそういった意味でフォードやライト兄弟などは思っていたが、彼らはヴェルナーの正体よりも自動車や飛行機を作れればそれで満足であった。

 

 そして、時を同じくしてヴェルナーの下に一通の手紙が届いた。

 それはカールスルーエ大学の研究室で働いているクリスチャン・ヒュールスマイヤーという者からで、彼は電波探知により、船の航海を保障する画期的なものを開発したとのこと。

 彼もまたヴェルナーによる科学技術振興基金の支援を受けていたのだが、その研究発表会で彼の発明品は中々認められず、成果はあるものの極僅かという報告がヴェルナーになされていた。


 しかし、クリスチャンはこの発明は極僅かというものではない、と確信しており、研究室で改良を続け、より多い支援を引き出す為にヴェルナーへと手紙を書いたのだった。

 その手紙を読んだヴェルナーは時間を作って彼の下を訪れ、クリスチャンから詳しい説明を受けるや否や、即決で1000万マルクの支援を約束した。

 そう、クリスチャンの発明したものは初期的な電波探知機であり、それはレーダーへと繋がるものであった。

 ヴェルナーはこの時期に既にレーダーの発想があったことに驚きつつ、資金面でのサポート以外にも、できる限りの支援を約束した。

 彼は知らなかったが、史実においてクリスチャンの発明はその有効性が理解されず、忘れ去られてしまうことになった。


 ともあれ、ヴェルナーはクリスチャンに八木アンテナやパラボラアンテナなど覚えている限りのアンテナのイラストを渡すなど、入れ知恵をした。

 クリスチャンはその奇妙な形のアンテナを不思議に思いながらも、スポンサーの意見を尊重すべく、それらが何かに使えるかどうか、検討してみることとなった。


 







 1905年9月初旬――


「……やれやれだ」


 ベルリン宮殿のとあるバルコニーから庭を眺めながら、ヴィルヘルム2世は溜息を吐いた。

 彼はドイツの対外進出を諦めてはいなかった。

 しかし、参謀本部のモルトケより上がってきた報告書、そして海軍大臣ティルピッツが持ってきた報告書が悩みの種であった。


 参謀本部からはこれからの自動車・航空機需要の増大から陸軍としても大体的にこれを取り入れた新兵器を試作中であり、石油をはじめとした各種天然資源の確保が急務というもの。

 対するティルピッツも同じようなものであり、これからは海軍における艦艇の燃料を石油にしようと考えているとのこと。

 ティルピッツの理由はとても簡単であり、石炭で世界最高の艦艇に適したものといえばイギリス、ウェールズ産のカーディフ炭だ。

 そう、仮想敵国で最高の燃料が産出する。

 これが愉快である筈がなく、最近注目を集めている石油を燃焼させる内燃機関に切り替えた方がまだマシであるのではないか、というもの。


 その石油のアテは比較的友好的なアメリカやロシアなどから輸入するというものだ。


「輸入、輸入か……」


 ヴィルヘルム2世としては自国内でそういった資源は賄いたかった。

 施政者であれば誰もがそう願うのだが、中々そうはいかないのが世の常だ。


 この当時、食糧及び資源の自給は国家にとって必須である、と考えられていた。

 それはいわゆる生存圏構想に繋がり、ドイツだけでなく他の国家においても一般的に考えられていた構想であった。

 ちなみに、この生存圏構想をより大規模に発展させたものが史実におけるナチスの東方生存圏――レーベンスラウム――であったが、この構想も行き着くところは国家を生きさせる為の食糧・資源の自給先の確保であり、国内の余剰労働力の吐き出し口を求めてのことではなかった。


「……ウチの植民地でも出ないものか……」


 ヴィルヘルム2世はそう呟くや否や、部屋の外で待機させていた秘書に命じて海外植民地の資料を持ってこさせる。


 彼は乱雑にテーブルの上に地図を広げ、それぞれの植民地の状況を報告書などから読み取ろうとした。

 しかし、そこに彼の知りたいものはなかった。

 現地での産業は原住民を使った農業程度しか書かれていなかったのだ。


 資源はあるのか? 調べていないだけなのか?

 

 ヴィルヘルム2世はすぐにスケジュールを確認すると、ちょうど植民地への対応会議が数日後に入っていた。

 折しも、東アフリカでの反乱――マジマジの反乱――により、ドイツにおいては植民地政策の見直しが迫られており、その対策会議だ。


 ヴィルヘルム2世は万が一ということもある、と思い、それらの資料を集め、急ぎ足で部屋から出ていった。









 時は過ぎ1905年10月。


「……皇帝陛下はどうしたんだ?」


 ヴェルナーは新聞から顔を上げ、隣にいたマンシュタインへ視線を向けた。

 彼も同じ感想を抱いたらしく、ヴェルナーの顔を見ている。

 グデーリアンは新聞を持ったまま固まっていた。


 新聞のトップに出ていた記事は海外植民地への投資の推奨と開拓団募集のお知らせ、新たに帝国植民地省の設立、そしてイギリスとの関係修復とアメリカとの関係強化というものだった。


 史実とは大違いの方向へ舵を取るヴィルヘルム2世に史実を知っているヴェルナーは勿論、これまでの皇帝とは180度違った対応を取った皇帝にマンシュタインらも驚愕していた。


 とはいえ、これも間接的にはヴェルナーが携わっていた。

 彼のおかげでドイツ国内では猛烈に自動車が普及し始めており、各地では急速に道路整備やガソリンスタンドの整備が進んでいた。

 ガソリン需要は幾何級数的に増大しており、またヴェルナードクトリンにおいても大量に自動車を使うことになる。

 その為に陸軍としても石油の確保が急務となった。


 さて、海外植民地であったが、この当時、ドイツが持っていた植民地は幾つかある。

 ニューギニア、南西アフリカ、東アフリカ、カメルーン、トーゴ、サモア、青島だ。

 このうち、ニューギニアはニューギニア島北東部及び周辺の島嶼、南西アフリカはナミビア、東アフリカはタンザニアの大陸部分であるタンガニーカ、ルワンダ、ブルンジだ。

 これらのうち、アフリカやニューギニアでは未来において原油が出る。

 また、ナミビアではウランやダイヤモンド、タンザニアは金、ニッケル、コバルト、ルワンダには錫やタングステンなどを産出する。


 そう、ドイツが将来必要とする資源のほとんどが手に入るのだ。

 ヴィルヘルム2世の決断は英断としか言いようがなかった。



「ともあれ……問題は山積みだ」


 ヴェルナーは溜息混じりに棚にある書類の束を見つめた。

 その書類達は一応、解決済みとなったこれまでの問題点だ。

 最大の問題であった補給。

 これは軍民問わず、従来の鉄道網の拡充に加え、貨物輸送専用鉄道を複線の広軌でもって敷設、複線の通常道路や高速道路の敷設という形に決まり、モルトケから皇帝陛下へと伝えられる手はずとなっている。

 問題はカネであったが、物流網の拡充は国内産業の発展に寄与する為、何が何でも押し通す、とモルトケが断言していた。


 

「しばらくイギリスとの戦は気にしなくて良いかもしれません」


 グデーリアンが言った。

 彼の言葉にマンシュタインとヴェルナーは頷く。

 新聞によればイギリスもこのことは歓迎しているらしく、イギリス政府のコメントによるとドイツがオイタをしなければ何も手は出さない、というようなことが書かれていた。


 そして、それはドイツが最も警戒すべき相手がただ一国となったことを示していた。

 東にあるロシアは日露戦争以前から続いている国内のゴタゴタでこちらから仕掛けない限りは手を出さないだろう、というのが参謀本部の大方の予想だった。

 故に、一国。

 そう、フランスであった。


 とはいえ、そのフランスもドイツに負けるな、と国内産業の育成に重点をおいている為、こちらから仕掛けなければ戦になることはない。


「平和は次の戦争の為の準備期間とは言い得て妙だ」


 ヴェルナーはまさに今がそのときだ、と確信していた。

 そして、その言葉にマンシュタインとグデーリアンも頷いたのだった。


「しかし……随分と皇帝陛下は鎮圧に乗り気のようですね」


 マンシュタインの言葉にヴェルナーらは頷いた。

 新聞によれば鎮圧の為に10月末に1000名、その翌月には3000名の兵員を送るとのことだった。


 ヴェルナーらは知らなかったが、本来ならば史実通りに1000名のみであった。

 しかし、モルトケが植民地維持の為、現地での戦闘に慣れておく必要がある、と主張した為、追加で3000名となった。






 合計4000名もの正規軍が送られたドイツ領東アフリカでは派遣軍の活動が本格化し始めた12月上旬から反乱軍は一気に劣勢となっていき、翌年の5月頃になると完全に鎮圧されることとなった。

 またこの際、陸軍は現地での補給に加えて、ドイツ本国からも弾薬や食糧などの物資が輸送されたが、港の荷揚げ能力の低さと反乱軍のゲリラ攻撃による兵站路の断続的な切断、そして道路網の貧弱さに悩まされた。

 事態を重くみたモルトケは対策チームを設置し議論を重ねた結果、迅速な港の拡張と道路網の拡充の為に工兵の大幅強化、そして航空機や飛行船での物資輸送という結論に辿り着いた。

 この他にも対ゲリラ戦術が真剣に検討されることとなった。

 

 



 そして、この反乱への対応として設置された植民地省はヴィルヘルム2世の肝入りで徹底的に植民地における腐敗と残虐行為を暴き出し、実行していた者達を逮捕していった。

 その一方で現地の行政改革を行い、原住民とうまく付き合っていく方法が模索された。




 そのような中でヴェルナーには悩みがあった。

 それは黒竜江省の購入――一応、清はまだ存在している為、正確には租借権の売買――に関することであり、日本では必要とされていた国債のほとんど全てを引き受けたヴェルナー及びドイツ系銀行に対して好意的であった。

 これまでの功績からそれなりの地位に就いたシャハトが戦争終結の1ヶ月程前から日本へと飛び、日本政府と交渉を開始し、トントン拍子に話が進んだ。

 元より、日本側は財政が厳しく、とてもではないが満州や朝鮮に進出する余裕は無かった。

 また、同じ時期にはヴェルナーら程ではないが、それでも日露戦争中期の第二次国債発行において500万ドルを引き受けたアメリカの鉄道王ハリマンが来日し、南満州鉄道を日米共同とすべく交渉していた。

 このハリマンもシャハト程ではないが、かなり歓迎され、同じく話はトントン拍子に進んでいった。


 また、ハリマンもシャハトもお互いに会談の場を設け、パイの共有という形で黒竜江省を入手した場合はアメリカ及びドイツ資本で鉄道を張り巡らせるという点で合意した。

 シャハトはヴェルナーの考えた共同統治案は知らなかったが、アメリカの経済力が急速に欧州の列強を追い越す勢いで伸びていることから、将来の禍根の芽を摘み取るべく、動いたのだった。


 そのような中でポーツマスにおける講和会議から日本側の首席全権の小村寿太郎は纏りかけていた協定をご破算にすべく、強烈に反対した。

 彼は新聞に投書し、国内世論を煽ることで政府の動きを封じ込めるという単純だが効果的な策を使った。


 これに対しシャハトもハリマンも仰天した。

 それをして日本にいったいどういうメリットがあるのか、シャハトもハリマンもさっぱり分からなかったからだ。

 さらには日露戦争開戦前、資金調達の名目として満州や朝鮮の門戸開放を謳っていた。

 名目であっても、そういう主張をしていたのは事実であった。


 ハリマンもシャハトも当然、日本がロシアに対する抑えとして自国を使うだろうことは予期できたし、両名ともそれぞれの政府にしっかりと許可を貰っていた。

 いつの間にかヴェルナーの青写真はドイツ政府と皇帝公認のものとなっているが、彼は自分の計画を誰にも喋ったことはなかった。

 ただ単純にドイツ政府や皇帝としては植民地獲得のチャンスを逃すまい、と考えただけであった。

 

 ともあれ、その代価としての黒竜江省であり、南満州鉄道であった。

 日本側も財政的な問題から、運営や統治に自信が無かったからこその、アメリカ・ドイツ資本の誘致。

 新興国であるドイツとアメリカは植民地が少なく、市場を、資源を欲していた。


 そして、このことがドイツとアメリカを結ぶ、小さなきっかけとなった。





 1905年10月下旬――


 ハリマンとシャハトはそれぞれの利益確保の為に会談の場を設けた。

 小村寿太郎による反対からまだ1週間程度しか経っていなかったが、政府内や世論は反対に傾きつつあった。



「ミスター・シャハト。我々は同じ目的を持っているらしい」


 彼は小奇麗なスーツを着ており、如何にもやり手のビジネスマンといった風貌だ。


「そのようですな。我々は新大陸と旧大陸という違いはありますが、今現在、最も欲しているモノについては一致しております」


 対するシャハトも一張羅を着ており、その風格はハリマンに負けていなかった。


「私の祖国とあなたの祖国は成立の経緯をはじめとして、色々と違いますが、新興国という点では一致しております。そう、つい最近国家として成立したばかりでイギリスやフランス、あるいはオランダなどが多く持っているモノを僅かしか持っていません」

 

 ハリマンの言葉にシャハトは頷く。

 だが、シャハトは知っていた。

 ハリマンの所属する金融財閥クーン・ローブ商会とJ・P・モルガングループが熾烈な経済闘争を繰り広げていることを。

 彼はそのことから、モルガン系列が小村寿太郎に入れ知恵したのだろう、と予測していた。


 そして、それはハリマンもそうであった。


「経済的な面から見て、我々は内部争いをしている場合ではありません」


 ハリマンの言葉にシャハトは僅かに驚いた。

 その様子を見つつ、ハリマンは更に告げる。


「アメリカの多くの企業は市場を求めています。これは内部争いをしている者達も例外ではなく、合衆国経済界の総意と言っても良いでしょう」

「……私は外務大臣でもなければ大蔵大臣でも無いのですが」


 シャハトの言葉にハリマンは笑って頷き、個人的な話です、と続ける。


「我が祖国とドイツは手を組むに十分な理由があるのではないでしょうか?」

「それを貴国の国民が望めば、そうなるでしょうな」


 シャハトはまるで自分が外務大臣にでもなっているかのような錯覚に囚われながら、そう答えたのだった。


 この会談後、シャハトもハリマンも本国に連絡し、政府に解決を依頼した。

 ここまできては民間人の力ではどうにもならない、とお互いに限界を感じた為だ。

 ドイツ側は早速日本政府に対して警告を発した。

 債権を盾にし、またその債権購入時のお題目である満州・朝鮮の門戸開放は嘘だったのか、日本という国家は嘘つきであるのか、と強烈に批判した。

 欧州あるいはアメリカが相手であったならばドイツもここまで強くは出なかったが、日本など極東にある黄色人種の国という認識でしかない。

 また、欧米各国の政府レベルでは勿論、国民レベルにおいても日露戦争はロシアが極東の一地域の戦闘で敗北したという認識であった。

 


 対するアメリカ側はモンロー主義の国内世論や日露戦争における日本寄りな国内世論もあり、そこまで大きく動けるものではなかったが、それでもドイツと同じように警告を発した。

 将来における日米関係に多大な影響を及ぼす可能性がある、と。


 この圧力により、日本政府は折れるかと思いきや、日清・日露と戦争に勝ってしまった日本国民が逆上。

 ロシアにも勝った我が国ならば独米何するものぞ、とそういう好戦的な世論が主流となった。

 日本政府は総理以下閣僚が真っ青になり、小村寿太郎は予想外の展開に患っていた病気が悪化してしまい、入院となった。

 

 ヒートアップする国民とは裏腹に政府では閣僚級は勿論、一官僚に至るまでドイツ・アメリカと戦争なんぞしたら国家が滅亡する、と容易に想像がついていた。

 

 しかし、ここでイギリスが動いた。

 彼の国は同盟国として友誼的仲裁に動き、元々纏りかけていた案に表立って反対していたのは小村寿太郎ただ一人であったことを挙げ、民主主義の原則に従って日本政府は判断すべきである、とした。

 

 これでこの問題は解決するかと思いきや、今度はフランスがちゃちゃを入れてきた。

 フランスは日本は自らの信念に基いて動くべきであり、万が一の場合は勇敢な日本政府を援助をする用意がある、と声明を発表した。


 フランスとしては敵の敵は味方という理論に従い、動いていた。

 1904年4月に結ばれた英仏協商であったが、ドイツの艦隊法破棄からのイギリスとの関係改善やアメリカとの関係強化により、英仏協商はほとんど形骸化していた。

 英仏両国における植民地政策の対立解消という意味ではこの協定は有効であったが、ドイツがイギリスへの挑戦を諦めた今、イギリスはフランスを支援し続ける意味を失っていた。

 また、歴史的にも英仏の対立は根強い為、協定一つで国民レベルまでその関係が改善されるわけでもない。

 そして、ドイツがイギリスとの友好的関係の構築を望み始めた。

 これはフランスにとって危機的状況であった。

 気がついたときにはビスマルク体制の再来、世界での孤立になりかねない。

 

 故に、1国でも自分の味方をフランスは求めた。 

 例えそれが黄色人種の、極東の国であっても、弾除け程度にはなるだろう、という意味合いを込めて。


 これに対し、日本政府の判断は真っ二つに割れたが、最終的に黒竜江省の販売と南満州鉄道の共同経営を承認する、という当初の案に基づいたものとなった。

 その代償として桂総理以下内閣は総辞職し、日本の世論は反独・反米、親仏へと傾くこととなった。


 このニュースを聞いたヴェルナーは自分の案が大幅な歴史改変にまたもや繋がったことに対し、驚きはなかった。

 しかし、日本が敵に回るのは拙いと彼は考えた。

 前世での祖国ということも勿論あるが、何より日本人は戦争になると、特に負け戦になればなるほど恐ろしい。

 

 ヴェルナーはただちにシャハトに連絡し、自らの案――かつて考えた案から若干変更したもの――を伝え、うまいこと纏めてくれるよう頼んだ。

 黒竜江省を購入した後に提案という形にしたかったヴェルナーは自分が最初からシャハトに伝えておけばよかった、と後悔したが、後の祭りであった。


 とはいえ、その提案にシャハトは驚きもなく、さも当然といった風に受け止めた。

 また、その提案を彼はドイツ政府に対して話さなかった。

 元々、黒竜江省はヴェルナーが個人で購入という形になっており、あくまでドイツ政府は購入までの補助であった。

 購入後、どうしようとヴェルナーの勝手なのだ。


 そして、シャハト経由でヴェルナーの提案を聞いた日本政府――西園寺内閣――は驚愕しつつも、その提案を受けた。

 同じく、イギリスとアメリカにも伝えられ、両国はヴェルナー・フォン・ルントシュテット氏の英断を称える、とメディアで報じた。

 これにより、黒竜江省は所有者はドイツ人のヴェルナーであり、行政権も彼が持つこととなった。

 表向きには貴族の領地であったが、その内部での経済活動はイギリス人もアメリカ人も日本人も自由にできる、というものであった。

 


 黒竜江省を手に入れたヴェルナーは早速、シャハトを通じて多額の資金を借り、油田探しに奔走した。

 無論、彼はドイツにおり、実際に探したのは雇われた技術者達であった。

 

  





 時間は一気に飛び、1906年の12月頃になるとヴェルナーが投資していたノルトーゼヴェルケのキール、ロストクの造船所が順次完成していき、その折に彼はノルトーゼヴェルケとRFR社の技術提携を持ちかけ、これを結ばせた。

 ただちに彼はノルトーゼヴェルケを自社の傘下としてしまうべく、あれこれと暗躍し、翌年の4月にはRFR社の造船部門となってしまった。

 エムデン市の市長はエムデンの会社ではなくなってしまったことを当初は嘆いたものの、RFR社との提携により企業収益が大幅に上がり、ノルトーゼヴェルケの本社があるエムデン市への税収も増えた為にほくほく顔であった。


 そんなノルトーゼヴェルケはヴェルナーの肝入で数千トンクラスの油槽船や貨物船から漁船、タグボートといった小艦艇の建造を行なっていた。

 しかし、他の造船会社とその性能は似たようなレベルであった。

 フネというものは様々な技術の集大成である為、ある分野だけが突出していても意味がない。

 

 ともあれ、ヴェルナーは軍人と経営者というよりか、投資家として二足の草鞋を履いているのだが、その副作用は彼の休暇に表れた。

 参謀本部での仕事も落ち着き、彼は1週間に2日の休日を手に入れたが、休日になると彼はベルリンからそのままエムデンやキール、ロストクあるいはRFR社の本社へと足を運ぶ一方で家に戻って女達と怠惰に過ごすということが殆ど無くなった。


 彼の心境としてはあまりにもやることが忙しすぎて、そしてどんどんと発展していく様が面白すぎてやめられなかった。

 彼には産まれた娘や息子達が大勢いたが、稀に実家に帰ったときに相手をする程度であった。 


 放置された女達はヴェルナーから朝昼晩の食事と部屋を与えられていたが、小遣いなどもほとんど貰っていなかった。

 しかし、安定した生活というのは得難いものであり、娼婦達は歓迎していた。


 そんな最中、マルガレータは時折、ヴェルナー宛に少額の小遣いを催促しては適当な酒場へと赴き、交渉してダンスを披露した。

 それはストリップであったが、彼女はあくまで見せるだけに徹して客を取らなかった。

 彼女がダンスをやったのはヴェルナーに放置されて暇であったことと踊ることが意外と楽しかった為であり、娼婦として活動する気はなかった。

 マタ・ハリは風変わりな踊り子としてライプツィヒから徐々にその名が知られていくことになった。






 1907年7月――

 ベルリン近郊にあるクンマースドルフに設けられた小規模な陸軍実験場ではとある実験が行われようとしていた。

 それは日露戦争における戦闘で日本軍が使用した、塹壕に篭った敵兵に対して打ち上げ花火の要領で垂直に手榴弾などを打ち上げて落としたという事例が報告されていた。

 そして、それはヴェルナー論文にあった迫撃砲である、とモルトケらは直感した。


 彼らはただちに陸軍の技術部門にて研究を開始し、1年半程の時間を掛けて試験へとこぎ着けた。

 とはいえ、原理としては非常に簡単なものであり、軽量小型で大量生産に向いている上、塹壕にこもった敵を殺傷できる、とモルトケらは高い期待を掛けていた。


 幾つかの方式が考案されたが、最も簡単に作ることができ、最も少数の兵員で、最も狭い場所で発射できる、という3点が考慮された結果、史実でいうところのストークス・モーターとほとんど同じ迫撃砲が選定されることとなった。

 迫撃砲の所属については砲兵所属とするには余りにも射程が短すぎるという判断に基いて、歩兵携行火器となっていた。



 やがて準備が全て整ったのか、実験責任者のとある少佐が実験開始を宣言した。

 それから数秒後、兵士が砲弾を迫撃砲の砲身へと入れるとそこからポン、という軽い音と共に発射された。

 その砲弾は放物線を描き、やがて着弾した。

 着弾と同時に土煙と破片が舞うが、目標とした塹壕内ではなく、塹壕の手前であった。


 その様子に少佐は恐る恐る視察しているモルトケら、軍高官へと視線を向けたが、彼の予想に反してモルトケ達は満足そうであった。


「これは1分のうちに何発撃てるかね?」


 モルトケの問いに士官はすぐに頭に叩き込んだ性能表を思い浮かべた。


「10発以上です、閣下」


 うむ、とモルトケは鷹揚に頷きつつ、さらに問いかける。


「これの口径は確か、76ミリだったかな?」

「そうであります」

「将来的にはもっと大口径化し、やがて自動車に搭載される程になるだろう」


 モルトケの言葉に呆気に取られた少佐であった。




 その後、実験場を後にしたモルトケらは参謀本部へととんぼ返りし、すぐにこれまでの成果とこれからの計画についての報告会をすることとなった。


 ヴェルナードクトリンにより、戦場において必要なものは高性能で高価な兵器ではなく、平凡な性能であっても、実用的かつ安価な兵器であり、それはすでに参謀本部の全員が承知していた。


 これまでドイツにおいて兵器などは重要な項目に対して指示をするだけ――射程や威力など――であり、その目標を達成できるならば値段や生産性、整備性といったものに対しては全く無頓着であった。

 故に、兵器体系は複雑化し、さらに無意味に派生型を生み出すという問題点があったのだが、それらはほぼ全て解決されていた。


 例えばコストがかかり過ぎる割には単位時間辺りの投射量が少ない超重列車砲はクルップ社が幾つかの設計案を提出していたが、ほとんど全てキャンセルされ、大口径火砲における弾道学上の経験を積むという名目で僅かな数だけが陸軍においては製造が決定された。

 他方、海軍においては戦艦をはじめとした各種艦艇用の大口径火砲が必要であり、また陸軍が口出しできる問題でもない為、クルップやラインメタルといったメーカーに発注されていた。


 しかし、最近の陸軍の改革を目の当たりにし、陸軍と共有できるものはした方が予算に優しいのではないか、という意見が海軍内で多数にのぼった。

 装備品が安くなればその分、予算は浮き、より多くの艦艇を建造できると彼らは考えた。

 この意見を受け、ティルピッツはモルトケと協議した上で陸海軍で統一の規格を作り、共有できる装備は共有することが先月に決定していた。

 


 


「火砲の統一はどうか?」


 開口一番、モルトケが問いかけた。

 彼以外にも陸軍の重鎮達が列席しており、報告する担当者達は幾分緊張気味であった。


「砲兵に関しては88ミリ、105ミリ、155ミリに統一することに決定しました。これらは先の海軍との協定に基づき、海軍における副砲や巡洋艦などの艦艇の主砲としても砲身が使えるよう、メーカー側に求めます」


 砲兵担当者の言葉に頷き、モルトケは更に歩兵の携行火器について尋ねた。


「歩兵に関しましてはマウザー社などから提示された数種類の短機関銃を試験していき、最もバランスが良いものを採用し、順次、従来の小銃から置き換えていきますが、一部は狙撃専用として残していきます」


 別の担当者の報告にモルトケは鷹揚に頷いた。


 短機関銃の全面的な採用に踏み切った原因は日露戦争にあった。

 小銃は短機関銃と比べて射程距離が長いが、日露戦争においてその小銃の射程の長さが生かされる場面はほとんど無く、特に旅順攻略戦においては長い射程よりも、短時間で大量の弾丸をばら撒く必要があった。

 これはヴェルナードクトリンにある火力集中にも当てはまった。

 モルトケは日露戦争を観戦武官の報告などから詳細に分析し、将来の戦争がかつてあったような、華々しい一大会戦などではなく、地味な局地的戦闘の繰り返しであり、機関銃などの登場により守備側が常に攻撃側よりも圧倒的優位に立つ、と予想していた。

 


 その様子を見、担当者は更に言葉を続ける。


「また、トーチカなどの防御火点破壊用として、大口径弾を発射できるようにした専門のライフルもまたマウザー社などに開発させています」


 史実においては対戦車ライフルというものが出てくる。

 しかし、人間が受け止められる反動には限界があり、すぐに戦車の装甲強化に追いつかなくなる。

 この対戦車ライフルはそれにより、一気に陳腐化したが、後々にトーチカや機関銃座破壊、軽装甲車の破壊に用いられる対物ライフルとして返り咲くことになる。


 モルトケは日露戦争における旅順攻略戦から歩兵の火力を強化せねば将来の戦争に耐えられないと感じていたのだ。

 旅順戦においてはたった1つの堡塁に攻め入るだけで中隊単位で壊滅しており、これではすぐに兵士がいなくなってしまう。

 事実、旅順攻略戦で日本軍が出した損害は恐ろしいものであった。


 そして、この対物ライフルはヴェルナーが提出した論文には入っていない、モルトケが独自に進めたものであった。


 歩兵関連の担当者はさらに機関銃や手榴弾、地雷と様々な分野について触れていった。

 ひと通りの報告事項を聞き終えたモルトケは問いかける。




「件のロケット兵器はどうか?」


 モルトケの問いに砲兵担当者がすぐさま答える。


「無煙火薬を用いた推進剤などのロケット弾の基礎研究を進めていますが、発射装置は非常に安くできます」


 そこで言葉を切り、居並ぶ高官達を前に彼は言った。


「しかし、肝心のロケット弾の費用がかかってしまい、モノにするにはそれなりの年月を必要とします」


 その言葉にモルトケは告げた。


「我が国は現在、国内の発展や植民地の発展に手一杯で戦争をする余裕も暇も、する必要性もない。故に、じっくりと技術的成熟に努めて欲しい」


 担当者は僅かに頷いた。

 モルトケはそれを見、これからの要となる新兵器に話題を移すことにした。

 ロケット弾や迫撃砲なども十分に新兵器であるが、劇的なものではない。


「さて、それでは自動車と飛行機に移ろう。RFR社やダイムラー・ベンツなどでの進捗状況はどうか?」


 モルトケの言葉に自動車及び航空機の担当者が頷いた。

 彼は手元の資料を捲り、やがて口を開いた。


「現在、RFRやダイムラー・ベンツをはじめとし、多くのメーカーで戦車や装甲車などが盛んに研究され始めております。特に最有力はRFRで数年以内に37ミリ砲を搭載し、時速30km程で動く戦車を完成させると意気込んでおります」


 やはりか、というように頷くモルトケ達。

 ヴェルナーの会社はドイツでも押しも押されぬ巨大メーカーとなっており、自動車市場はダイムラー・ベンツと二大シェアを誇っており、また航空機市場はRFR社の独壇場で9割以上のシェアを占めている。


 その一方で最近では造船業に手を出していることから、海軍とも繋がりを持ちたいという魂胆が見え見えであった。


「航空機に関しては?」


 モルトケの問いに担当者が告げる。


「同じくRFRです。最近、RFRに入社したアントニー・フォッカーなる青年が指揮を取るチームとライト兄弟らの開発チームを社内で競わせているとのことで、こちらも数年以内により実用的な航空機を製造するとのことです」


 そこまで言い、担当者は言葉を切り、モルトケらの反応を窺いつつ、更に続けた。


「RFRの最高経営責任者であるルントシュテット氏によれば30年以内に高度1万mを時速500km台後半で飛行し、ドイツ本土から地球の裏側に5トンの爆弾を運搬できる4発から6発の爆撃機を製造するとのことです」


 その完成予想図がこれです、と担当者はヴェルナーから預かっていた2枚のイラストを提示した。

 そこには史実におけるアメリカのB29とB36が描かれていた。


「……ルントシュテット少尉は軍人よりも商人の方が向いているのではないか?」


 モルトケの言葉に報告した担当者も含めて一同頷いた。

 軍としては民間人なのか、それとも軍人なのか、いまいち判断に困る存在だった。

 軍人としては少尉であり、下っ端。

 しかし、民間人としてはRFR社の最高経営責任者。

 何とも扱いにくいヴェルナーであったが、軍人が会社経営をしてはならない、という規定は無かった。

 というより、ユンカーが多数を占める将校の中には農園を経営している者もそれなりにいる。

 規定を作ってしまうとそういった者達に損害を与えてしまう為、軍務に支障がなければ黙認されているのが実情だった。

 そして、ヴェルナーは自らの仕事を完璧にこなしており、モルトケらは感心していた。

 

「ともあれ、これから先、多数の軍用機を保有するとなればヴェルナードクトリンにあるように、空軍を設立すべきであろう……特に、その爆撃機が造られたとしたら、完全に陸軍の範疇を超えているし、また軍用機に求められる任務は非常に多種多様となるだろう」


 モルトケの発言は確認であった。

 既に空軍を第三の軍として設立することは陸海軍で協議の上、合意に達しており、また皇帝の許可も貰っていた。

 しかし、その準備に必要な時間は多く、空軍という名称が公になるのは1910年代とされていた。


 空軍の人選は既に始まっており、モルトケは提唱者であるヴェルナーを当然、空軍に入れるつもりであった。

 






 報告会が参謀本部でなされていた頃、ヴェルナーは休日であり、実家にいた。

 彼は自分の子供達と久しぶりに遊んだりしたのだが、彼が実家にいる最大の理由はそれだけではなかった。

 フォードらとの協議もあったが、それよりももっと重要な話はヴェルナーの結婚であった。

 彼も既に適齢期であり、父であるゲルトのもとには見合い話が多数やってきていたのだ。


 書斎にてヴェルナーは父と対面していた。

 2人の間にあるテーブルの上には無数の写真が置かれており、それはこれまでにお見合いを申し込んできた貴族の令嬢達であった。


「……ヴェルナーよ、これだけいればお前の好みの相手がいるだろう?」

「実物を見ないことには何とも……」


 ヴェルナーの言葉をゲルトは予想していたらしく、ゆっくりと告げた。


「10月にベルリン宮殿にて開催される皇帝陛下主催のパーティーに全員来るよう返事をしておいた。そこで決めろ」

「ちなみに何人ですか?」

「数えた限りでは38名だ。正妻でなくても構わない、と言ってきているところが多い。お前の好きにするが良い」


 はぁ、とヴェルナーは曖昧な返事をした。

 彼は数年前と比べ、ストレスが大幅に少なくなった結果、非常に充実した毎日を過ごしており、女という自分が好きにできる存在を前にしても、そこまでがっつくことが無くなっていた。

 もっとも、一度火がつくとこの時代では非常に倒錯的なことをやらせたりするのだが。


「自分はただの少尉であり、経営者というよりか、投資家なのですが……」


 それって公妾でしょ、と言いたげなヴェルナーに対し、ゲルトは笑ってみせる。


「お前は何よりも金があり、貴族であり、欧米で広く名が知られている。お前と繋がりを持ちたい連中は掃いて捨てる程いるのだ」


 ヴェルナーはその言葉に自分は腹上死するかもしれない、と思ったのだった。


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