加速現象
独自設定・解釈アリ。
何か説明文になった不具合。
ヴェルナーは父親への直談判から2週間後、アメリカにいた。
とはいっても、彼単身でやってきたわけではない。
彼はただの民間人ではなく、貴族の次男坊なのだ。
ぞろぞろと護衛やら執事、メイドを引き連れ総勢30人におよぶ集団であった。
そんなヴェルナーが自分の足で人探しをするわけがなく、彼はこの時代のアメリカ観光に没頭し、ヘンリー・フォードがどこにいるか探したのは執事やメイドであった。
そして、彼はヘンリー・フォードと直談判し、引き抜くことにあっさりと成功した。
30万マルクはドル換算でおよそ7万ドルであり、金本位制では4.2マルク≒0.35gで1ドルとなった。
1ドル≒1.5gの金と兌換でき、およそ同じ時期に日本円は1円≒0.75g。
故に1ドル≒2円であり、この当時の日本円換算で約14万円だ。
そして、東京府知事の年収が4000円であり、21世紀の日本の47都道府県知事の平均年収が2100万円であることからおよそ5000倍の価値がある。
故にこの14万円を21世紀日本の円に換算すると約7億円にもなる。
どれだけルントシュテット家が儲かっているか、よく分かる証拠だ。
彼の家は今では数少なくなった大領地を持ったユンカーであった。
ともあれ、ヘンリー・フォードは会社の経営に携わるというよりか、自動車そのものの改良に熱中し、その設計思想から高級車志向のヘンリー・リーランドなどの他の共同起業者達から疎まれつつあった。
そんな最中に今回のヴェルナーの話。
ドイツに来てくれたら7万ドル使って会社作って自分の好きな自動車を作って良い、という破格の条件だ。
フォードは快諾し、すぐに妻に連絡しつつ、荷物を纏めてリーランドらに辞表を叩きつけるという豪快さであった。
そんなわけでヴェルナーは当初の目的を達成したわけであったが、どうせならばとライト兄弟を引き抜くことにした。
彼は父親から軍資金としてもらった30万マルクは使いきってしまったが、小遣いとしてもらった1万マルクは健在であった。
故に、執事やメイドらにあやふやな記憶を頼りにオハイオ州を隈なく探してもらい、飛行機械を作っている変わり者の自転車屋を探し出した。
そろそろ学校が始まる時期だが、そこは父親にどうにかしてもらいつつ、ヴェルナーはライト兄弟に支度金として小遣いの1万マルク≒2400ドルを渡し、ドイツに来るならば追加資金を与えるという条件を出した。
ライト兄弟は自転車屋をやっていたが、それはそもそも飛行機械を作る為の資金集めの側面があり、スポンサーがあるのならばその必要はなかった。
渡りに船とばかりにライト兄弟は快諾し、荷物を纏めてドイツへと引っ越すことになった。
ヴェルナーはアメリカでの目的があっさりと成功したことにあることを痛感した。
それは社会的地位と金の力はかくも凄まじいものなのか、と。
ただの民間人ならば胡散臭いと思われておしまいだが、ぞろぞろと何人も引き連れてやってくるヴェルナーは誰がどう見ても只者には見えない。
また、この時代のパスポートは査証としてのものであり、一枚の紙面であった。
そこには国籍と所有者の身分が書かれており、ヴェルナーの場合は国籍ドイツ帝国、身分はプロイセン王国高級幼年士官学校在籍というような感じである。
どんな学校かは知らなくとも、名前を見れば軍の、それも未来の将校候補であるというのがイヤでも分かるだろう。
ともあれ、ヴェルナーはライト兄弟を引き抜いた後、ドイツへと帰国し、ゲルトに再び頭を下げて交渉の末、資金と土地を融通してもらった。
ゲルトは渋い顔であったものの、今更後に引くこともできない、としてヴェルナーにこれで最後だ、という通告の後に40万マルクと農場の一部、2エーカーの土地をヴェルナーに契約書を作成した上で譲った。
ヴェルナーは色々な意味で失敗できないこと、また自分が歴史を変える第一歩を踏み出したことを実感しつつ、早速行動に移した。
父親に頭を下げて1週間程交渉していた際、実家に客として滞在させていたヘンリー・フォードとライト兄弟。
お互いにその滞在中に色々と情報交換をしたらしく、フォードはライト兄弟の飛行機に大きな興味を示していた。
ライト兄弟もライト兄弟でフォードが持つ自動車屋としての経験を飛行機に生かせることを期待していた。
そして、ヴェルナーはそんな彼らと共に1901年10月15日付けで40万マルクを資金として会社を立ち上げた。
社名はRFR機械製作所。
名前の由来はそれぞれのファミリーネームの頭文字であった。
とはいえ、設立はどうにかなっても会社経営のノウハウなんぞヴェルナーもライト兄弟も持っていない。
故に、本来ならさっさと自動車を作りたいフォードが渋々――とはいえ、ある程度軌道に乗れば好きなだけ自動車を弄り回せると思って――取り組んだ。
もっとも、フォードの仕事は取引や販売あるいは事務などでは無く、もっぱら社屋の建設や実験施設の建設などであった。
そして12月になってようやくフォードやライト兄弟が満足できる施設や機材が整い、彼らは研究に没頭し始めた。
当のヴェルナーはというと、会社を設立した2週間後には実家を後にし、リヒターフェルデの士官学校へと戻っていた。
いくら優秀生徒であり、父親が将官でもさすがに長いこと学業をサボるわけにはいかない。
リヒターフェルデの士官学校に戻ったヴェルナーは長期休暇を超えた休みを取ったことから、教師や教官から白い目で見られたものの、定期考査で優れた成績を示してみせ、彼らを黙らせた。
そんな中、ヴェルナーは戦術関連授業において出されたとある宿題に目をつけた。
その宿題とは何でもいいから戦術を自分で作ってみせろ、とそういうもの。
戦場における柔軟な思考を養う、といえば聞こえは良いが、そもそも士官学校では高度に専門的な授業はやっておらず、陸軍大学へ進まねば学ぶことはできない。
要するに現場指揮官として必要最低限なレベルに達しているかどうかのテストであった。
ヴェルナーは駄目で元々に加えて、たまにはハメを外しても良いだろう、という楽観的思考から空陸協同の立体攻撃及び大規模縦深突破を書いてみた。
早い話がアメリカ式エアランドバトルとソ連式大規模縦深突破であった。
どっちも時代を先取りしすぎたものであるが、ヴェルナーとしてはこの時代で恐ろしく劣化しているが再現できるところはある……かもしれない、と思ったのだ。
ヴェルナーが提出した宿題によると、その戦術の鍵は飛行船の大量運用と砲兵の運用にあった。
飛行機はまだモノになっていない、ならば代替手段としての飛行船。
飛行船ならば今はまだ恐ろしく重く巨大な無線機も積めるし、航続距離も長い。
命中精度はともかくとして、爆弾もそれなりに積める、と妥協できるレベルにあった。
ただ、敵の攻撃が当たったとき――というよりか飛行船自体が非常に巨大な為、当たりやすい――は非常に悲惨なことになるが。
ともあれ、飛行船と砲兵を使い、事前攻撃として前線陣地と共に敵砲兵を叩く。
これを察知し、後方から増援としてやってくる敵軍や橋梁、司令部などは飛行船でもって叩く。
その後、分隊規模の少数兵力でもって敵の抵抗の弱い地点を突破、この際に砲兵は必要に応じて歩兵部隊から連絡を受けた地点に対して火力を集中し、敵を弱体化させる。
更に後続の味方部隊は突破口の拡大に尽力し、最後に自動車に搭乗した歩兵と自動車に牽引させた砲兵、騎兵でもって一気に陣地を突破していく。
それを一箇所だけでなく、同時多発的に行う。
問題点山積み、突っ込みどころ満載のシロモノだが、一学生の妄想という形でなら許されるだろう、とヴェルナーは勝手に納得していた。
彼の予想通りに教官にはヴェルナーらしくない、熱でもあるのか、と言われたりしたが、その理論に目をつけた者達がいた。
「失礼ですが、あなたがフォン・ルントシュテット先輩ですか?」
士官学校内の食堂にてそう声を掛けてきた者がいた。
ヴェルナーは学校内で孤立している――などということはなく、家柄もあってかそれなりに友人は多い。
だが、このときヴェルナーはちょうど1人であった。
「如何にも私がそうだが、君は誰か?」
「私はエーリッヒ・フォン・マンシュタインと申します」
ヴェルナーはその名前をじっくりと1分程かけて脳に浸透させ、マジマジと目の前にいるマンシュタインの顔を見つめた。
「……私の顔に何か?」
「い、いや、失礼しました。マンシュタイン殿」
ヴェルナーはただちに立ち上がって直立不動となった。
マンシュタインの義父であるゲオルクは中将であり、礼を払っておかねば拙い。
そして、マンシュタインの実父はエドゥアルト・フォン・レヴィンスキー大将であり、彼の母の妹はヒンデンブルク中将――後の元帥――の妻でもあった。
何よりも、あのマンシュタインとこうして会ったからには礼を払わずにはいられなかった。
しかし、マンシュタイン本人はそれが自分の出生にあると悟り、苦笑いを浮かべた。
「私が凄いのではなく、父母が凄いのです。私自身はただの1年生ですよ」
いやアンタも30年後にとんでもない活躍するから、とヴェルナーは非常にツッコミを入れたかったが自重し、変わりに深呼吸した。
そして、問いかけた。
「それで私に何か?」
「ええ、あなたの書いた戦術論文について詳しく聞きたく思いまして……極めて斬新であり、理にかなった戦術であると私は思います」
「それは光栄です。ですが、欠点も多い」
「普仏戦争の話より退屈ではないでしょう?」
そう言って笑うマンシュタインにヴェルナーは確かに、と頷く。
最近の大規模な対外戦争といえば30年も前の普仏戦争なのである。
戦史の授業は最も退屈な授業なのだった。
「幸いにも、校内には図書館もあり、資料には事欠きません。欠点を埋めていきませんか? それと私の他にもう1人、あなたの論文に興味を持っている者がいます」
「その人物の名前は?」
「私と同じ学級のグデーリアンです」
ヴェルナーは目が点になった。
同じような年代に生まれているのだから、当然いてもおかしくはない。
「えーと……マンシュタイン殿……」
「私の方が年下ですので呼び捨てで結構です」
「それじゃマンシュタイン。グデーリアンと共に私と戦争の研究会でも開くかね?」
「喜んで。彼も快く応じるでしょう」
こうしてヴェルナーはマンシュタイン、グデーリアンと共に戦争研究会なるものを作った。
そこで議論されたのは当初こそヴェルナーの論文であったが、徐々にその戦術を達成させるには何が必要か、という戦略レベルの話へと推移していき、やがては政治・外交へと発展していく。
そして、優秀生徒として有名なヴェルナーが作った研究会ということで興味本位に加入する者が徐々に増加していき、最終的には放課後、講堂を一つ借りきるレベルにまで達した。
教師や教官らも自主学習ということで内容はともあれ、大いに推奨したことが研究会にとって追い風となった。
これによりヴェルナーの思想が浸透していくこととなった。
その思想とは空陸協同戦術であり、個々の戦場における分隊レベルでの浸透強襲戦術、そしてそれらを同時多発的に行い、戦線全てを飲み込んでしまう大規模縦深突破戦術であった。
その為に必要な大量の自動車や飛行船と騎兵、強力で機動力に優れた砲兵、潤沢な補給と濃密かつ精密な偵察、緊密な情報伝達及び共有など多岐に渡る分野についても盛んに議論された末、研究会はある結論に辿り着いた。
戦闘そのものよりも事前にどれだけ物資、兵力、情報を戦場に用意できたか、それこそが勝敗を握る鍵である、と。
ヴェルナーからすれば当たり前であるが、それはヴェルナーが未来を知っているからこそ知り得ていたものだ。
この研究会はヴェルナー、マンシュタイン、グデーリアンが卒業した後も残り、新入生達は上級生達の勧めにより半ば強制的に研究会に加入させられていった。
そして、時は過ぎ1903年5月24日のことであった。
ヴェルナーは士官学校の卒業を控えつつ、また陸軍大学への進学が決まっており、大学で学ぶことの予習として軍務に就いている兄のカールから教えを請いつつ、実家でそれなりに楽しくやっているときであった。
しかし、その日は特別であった。
本来なら学校にいる筈のマンシュタインやグデーリアンを含めた呼べるだけの士官学校の同輩や後輩を父のコネを使って実家に前日から招き、盛大にパーティーをしていた。
兄のカールや父のゲルト、従弟にあたるゴットハルト・ハインリツィなど呼べるだけの親族も呼んでいた。
他にもその生徒達の父母も招けるだけ招いたが、マンシュタインの義父と実父がそれぞれ奥さんを連れてやってくるという事態にまで発展した。
一応、ヴェルナーはマンシュタインを通じて義父や実父を招待してもらったのだが、まさか本当に来るとはヴェルナー自身も思ってもみなかった。
それに加え、マンシュタインの母親と関係のあるヒンデンブルク中将までもが駆けつける始末であった。
ヴェルナーはどうしてレヴィンスキー大将らが来たのかと問いかけたが、それによれば士官学校で名を馳せている自分に一度会ってみたかったとのことらしい。
無論、ヴェルナーはこの機会を逃さずに顔を覚えてもらう為にコネ作りに奔走しつつ、研究会で纏めた論文を複写して大将らに直接提出した。
ともあれ、何が起きるのか、とマンシュタインやグデーリアンを含め、集まった生徒達は興味津々であったが、ヴェルナーは24日になるまで何も明かさなかった。
また、彼は24日当日、多くの新聞記者や工学関連の大学教授などもできる限り招き、さらにはドイツでの航空機研究家のカール・ヤトーもはるばるハノーファーから招いていた。
そして、24日の午前11時ちょうど。
強い風が吹いていた日であった。
「いつでもいいよ、兄さん!」
弟オーヴィルの言葉に兄のウィルバーは僅かに頷き、居並ぶ観客達へと視線を向ける。
その観客達は好奇の視線をこちらに送っており、その数は200を超えていた。
「……何だか恥ずかしいな」
そう言うウィルバーの背中をばん、と叩いた者がいた。
振り返ればそこにはフォードが、自信に満ちた顔で立っていた。
「俺とお前達で作った飛行機だ。実験もほとんど毎日やった。ウチのボスも素人にしては妙に具体的にちょこちょこと機体について口出しした。これで失敗したらボスの責任だ」
その強気とも後ろ向きともとれる発言に勇気をもらったウィルバーは大きく頷き、エンジンを起動させた。
たちまちに鳴り響く轟音。
これまでに聞いたことがない音に多くの観客達は目を白黒させるが、それを物ともせず、ウィルバーは飛行機械、ライトフライヤー号を静止させていた全ての留め具を取り払った。
オーヴィルは1899年からこれまでの間に身につけた飛行技術の全てを駆使し、ゆっくりと機体を風に向かって進ませる。
ぎしぎしと機体のあちこちで音がするが、それらは想定済みだ。
数分、いや数秒でも空を飛んでくれれば良い――
オーヴィルもウィルバーもフォードも、そして観客を大量に集め、後に引けないヴェルナーも祈った。
やがて揚力を得たライトフライヤー号はゆっくりと、しかし確実に浮かんでいき――
「飛んだ……」
誰かが呟いたものがプロペラ音があるというのに妙に響いた。
ライトフライヤー号は地面から1m程の高さを数十m飛び、やがて着陸した。
「成功! 成功だ!」
フォードが叫んだ。
ウィルバーは駆け出し、ライトフライヤー号へと近づくとオーヴィルと抱き合った。
観客達、とりわけ新聞記者達は一番早く反応した。
彼らはこの大スクープに一斉にメモやカメラ片手にライト兄弟の下へと走っていく。
大学教授達はどうしてあのようなシロモノで飛んだのか、と議論し出す中、カール・ヤトーはわなわなと震えた。
彼の中では嫉妬よりも空への渇望がより一層強くなるのを感じた。
彼はある人物を探した。
彼をこの場に呼んだ張本人であり、RFRの出資者。
「ルントシュテット殿、是非とも私をRFRに入れていただきたい!」
鬼気迫る表情のヤトーにヴェルナーは気圧されながらも了承し、そそくさとその場を離れ、マンシュタインとグデーリアンの下へと逃げる。
逃げた先では両名を含めた士官学校の生徒達が早くもこの飛行機をどう有効に使うか、そもそもどれだけの数を揃えられるかの議論を地面に座り込んで始めていた。
どんだけ勤勉なんだ、とヴェルナーは思いつつ、彼は彼らの前で宣言した。
「諸君、私は近い未来においてこの飛行機の質と量及びそれを操る操縦士の質と量が戦争の行方を左右するものになると確信する!」
その言葉に士官学校の面々は勿論、ゲルトやカール、ゴットハルトらの親族もまた注目する。
「今でこそこのような簡素なものだが、将来的にはあの回っているプロペラの無い飛行機が音よりも速く飛び、人類は月まで辿り着くことになるだろうことを私は此処に宣言する!」
その根拠は、という問いかけがレヴィンスキー大将より出された。
その問いにヴェルナーは素早く答えた。
「我々の扱う銃砲は普仏戦争の時と全く同じであるか否か、それが答えの全てです」
これには大将も沈黙せざるを得なかった。
ヴェルナーはこれだけ宣伝しておけば問題ないだろう、と内心安堵していたのだった。
史実よりもおよそ半年早い飛行機の発明であった。
さて、この日からヴェルナーをはじめとしたRFR社の面々は一躍有名人となった。
飛行実験を見ていない者達からは疑惑を向けられたが、それは立ち会った大学教授達や新聞記者、そしてレヴィンスキー大将、マンシュタイン中将、ヒンデンブルク中将、ルントシュテット少将その他多くの軍人達により否定された。
そして、軍人達にとって飛行機は兵器として使えるものである、という認識が芽生えることになったが、その時点においては偵察程度には使えるのではないか、という程度のものであった。
しかし、それはヴェルナーが大将らに提出した論文により一気に改められることになる。
レヴィンスキー大将らは飛行実験後、帰路の暇つぶしの読み物としてヴェルナーから提出された分厚い論文を読んだが、それは大将らが想像していた以上に多岐に渡り、かつ論理的であり、緻密であり、何よりもイラストが交えてあり、分かり易かった。
また、実践できるかどうかは別として、戦術案は理論的には穴の無いものに仕上がっている筈であった。
そして、論文の最後にはドイツの地政学的な位置についても触れられており、ドイツは西部にのみ注力すべきであり、ロシアに侵攻した場合、ナポレオンの二の舞となる。また万が一東西両方に同時に戦線を作った場合は物量により、最終的に敗北するだろうとまで書いてあった。
レヴィンスキー大将らは飛行実験から1ヶ月以内に各々の任地あるいは自宅に戻るとこの論文を参考の価値がある、として参謀本部に持って行き、複写して同輩や部下に配った。
本来なら一生徒が書いた空論として扱われるべきシロモノであったが、飛行実験の衝撃もあり、彼らは本当にそれが実現できる理論ではないか、と感じたのだ。
また、大モルトケ以来、短期決戦が教条化していた参謀本部において、このドクトリンは事前準備をしっかりとしておけば短期決戦に最適なものであった。
ヴェルナーのドクトリンは成功すれば敵陣を一挙に幾つも同時多発的に突破することができ、敵に対応する暇を与えないという点で極めて優れていた。
まあ、ドイツ軍との地獄の戦いから導き出したソ連の究極的ドクトリンであるからそれも当然といえば当然であった。
無論欠点もあり、兵力の都合上、幾つか不利な戦場を抱えてしまうのだが、最終的に勝利できれば問題はないと言えなくもなかった。
そして、その論文は飛行実験から3ヶ月後、参謀総長であるシュリーフェンの目にも触れることとなった。
彼は軍司令官というよりも、理論家であった。
プロイセンの伝統である参謀本部は開戦後は何もすることがない、ということを信じていた。
それは過去の戦争が全てそうであったからだ。
しかし、彼が理論家であることがここでは幸いした。
要するに現場がどうなっているかよりも、机の上で理論をこね、その理論通りに作戦を遂行することに全力を注ぐのである。
ヴェルナーの戦術案は実践できるかどうかは別として、理論としては穴の無いものに仕上がっていた。
最大の問題点は個々の装備や兵士の練度というよりも補給であった。
一説によると1個歩兵師団が1日に消費する物資はおよそ300トン、それが1ヶ月=30日と考えればたった1個師団を1ヶ月維持するだけで9000トンの各種物資が必要となる。
鉄道を利用するのは自国の領土内ならば良いが、敵地へ侵攻した場合、敵の鉄道がそのまま使えるわけがない。
そもそも鉄道を使ったところでちゃんと補給が間に合うかどうか不安であった。
ヴェルナーの論文では普仏戦争や普墺戦争のことまで引っ張り出し、鉄道では実際の要求量を満たせず、兵站面で大モルトケが苦労していたことについてもキチンと触れられており、自軍の補給どうするの、とそういう問題が常に書かれていた。
シュリーフェンはヴェルナーの論文を重く受け止めることができた。
幾ら彼とて、士官学校の蔵書を情報源として引き合いに出され、それを基にされたこれまでの戦略・戦術面での不備を指摘されては感情的面での反発も起こりようがなかった。
もし反論すれば士官学校の蔵書が偽物あるいは捏造されたものである、ということに繋がりかねず、陸軍の信用問題に発展しかねない。
また、持ってきた相手が自分よりも年上のレヴィンスキー大将であったことも幸いした。
シュリーフェンはヴェルナーの論文を熟読し、彼が密かに考案している対仏対露作戦計画に大幅な変更を加えることとなった。
基本としてフランスの後に返す刀でロシアを倒すのは変わらない。
だが、西部戦線においてはベルギー・オランダの中立を犯すようなことはしない。
ヴェルナードクトリンはとにかく火力と兵力が必要であり、限られた兵力をあちこちに分散させるのは好ましくない、と判断した為だ。
故に戦場を限定し、局所的に短時間であっても敵よりも多い兵力、火力を、とシュリーフェンは考えた。
彼はエルザス・ロートリンゲン地方に予めそれなりの兵力を置いておき、それを餌にフランス軍をこの地方に引き込んでドイツ領内に待機させた主力を持って、一気に殲滅する策を取った。
一見、短期決戦とは逆行するような策であったが、全体で見た場合、この時間的なロスは取り戻せるとシュリーフェンは考えた。
敵兵力を殲滅した後は時計回りにエルザス・ロートリンゲンより進軍し、海を壁として使い、フランス軍を追い詰めていく。
シュリーフェンが当初想定していたものが反時計回りにフランス軍を包囲していくのに対し、彼が新たに考えたのは時計回りに自軍を進軍させ、遊兵と化したフランス軍を包囲していくものであった。
その想定では開戦当初におけるエルザス・ロートリンゲン地方における戦闘でフランス軍主力は壊滅しているというものであった。
故に強力なフランス軍の予備部隊が別に存在した場合の想定がすっぽりと抜け落ちていた。
また、東部戦線においては東プロイセンの放棄は当初と変わらず、ヴィスワ川沿いに防御線を敷く。
フランスを叩き潰した後に西部戦線から部隊を移動させ、万全を期して反撃するが、あくまでロシア領内に侵攻はせず、防御に徹して敵に出血を強要し、降伏を促すものとなった。
そして最後に、彼は鉄道や馬車における輸送量と師団の物資消費量に着目し、参謀本部内に専門のチームを設け、現在及び過去の戦争において補給がどうなっているのか、その把握に努めた。
ヴェルナーがあずかり知らぬところでとんでもない歴史の大改変が進んでいたが、シュリーフェンやレヴィンスキーら多くの参謀本部の将官達は一学生の理論に頼ったというのはメンツ的に拙く、こっそりとドイツ軍のドクトリン改革は進められることになった。
さて、飛行実験後、ヴェルナーはただちに特許の申請を行った。
特許の申請に際しては多くの新聞記者達――アメリカやイギリス、フランスなどの海外記者達も――が詰めかけていた為にヴェルナーは宣伝にちょうど良いと考えていた。
彼は大勢の記者達の見守る中で飛行機関連の特許やそのエンジンについてはライト兄弟やフォードが開発したものだから、と特許料の分け前を取るようなことはせず、むしろこれからも頑張って欲しい、と追加の資金として40万マルクを渡した。
その追加資金は父親ではなく、銀行から借りたものであった。
勿論、融資を受ける際に父親に付き添ってもらったが、そこは致し方ないだろう。
これにはライト兄弟やフォード、付き添いとしてきていたヤトーも驚愕し、新聞記者達はヴェルナーの真意を問い詰めることに躍起になった。
そんな彼らにヴェルナーは不敵な笑みを浮かべて告げたのだ。
「誇り高いドイツ貴族の一員である私は他者の成功を横取りするような、盗人の如き恥知らずな行いはしない」
これによりヴェルナーの名前は一気に欧米に広がり、同時にRFR社への入社を希望する者達が殺到した。
応募者はドイツ国内に留まらず、欧州諸国やアメリカ、ロシアと幅広いところからやってきており、またその職種も様々で大学教授から機械工まで様々であった。
またこの宣伝効果により、RFR社へ融資したい、という銀行・投資家達が多く集まり、ヴェルナーは父の協力の下、1000万マルクという莫大な資金を集めることに成功した。
人材・機材共にこの時代にあっては最高の環境を与えられたライト兄弟と新たに加わったヤトーは採用された多くの技術者達と共にヴェルナーが幾つか書いてみせたイラスト――単葉引き込み脚、牽引式飛行機と同じく単葉引き込み脚、推進式飛行機の研究に取り掛かった。
風洞実験が行われ、機体のサイズやその材料など非常に多岐に渡る項目が連日連夜テストされ、最適なものの模索された。
その一方でフォードもまた自分の目的に基づき、動き始めた。
彼は飛行機用エンジンを開発し、それをそのまま自動車に搭載すれば良いのでは、と考えた。
そうすれば何も飛行機と自動車で別々のエンジンを搭載する必要は無く、生産も管理も楽になるのだ。
彼は早速、採用された技術者達と共に飛行機用エンジン兼自動車用エンジンの開発に取り組むことになった。
こちらもまた最高の人材と機材を与えられており、フォードはエンジンの大きさやその素材については勿論、飛行機にも使う為に大馬力で少ない燃料でも長く動く必要がある、と考えた。
フォードはそれだけで終わらず、車体についてもライト兄弟らの実験を見学し、彼らと議論を重ね、最適な車体の割り出しに入った。
驚くべきことにフォードは航空力学を取り入れた高速でありながら、廉価で量産性に優れた大衆車を求めたのだ。
史実のフォードでは考えられない変化であり、これもまたヴェルナーの行動の結果であった。
そのような技術加速現象が起きる中、ヴェルナーは1903年の10月に陸軍大学に入学しつつ、休日においてはRFR社の業務もこなすという中々にハードな日々を送っていた。
またヴェルナーは歴史を知っていて儲けのチャンスを逃す程に愚かではない。
彼は日本における軍需関連企業の株を銀行から個人的に資金を借り受け、大量に購入していた。
他にも彼はベルリンにある駐独日本大使館へ赴き、一個人として万が一の事態において日本国債を購入する用意がある、と通達していた。
応対した職員は時の人であるヴェルナーとその申し出に目を白黒させていたが、本国へそのメッセージを送ることを確約してくれた。
そして、とある人物がヴェルナーを訪ねてきたのは1904年の1月下旬のことであった。
日本とロシアの関係はいよいよ怪しくなり、イギリスやフランスも不穏な動きを見せる中、やってきた人物はドレスナー銀行の経済室長であった。
「日本とロシアについて、どう思われますか?」
彼は自己紹介の後にヴェルナーにそう問いかけた。
対するヴェルナーはもう驚かなかった。
マンシュタインに出会ったときの衝撃は今でも忘れていない。
そう、例え目の前にいるのはあのヒャルマー・シャハトであったとしても、もう驚かなかったのだ。
「近いうちに開戦するでしょう」
「あなたは日本企業の株を購入していますが、それは日本が勝利すると予測しているからですか?」
シャハトの問いかけはいきなり核心を突いたものであった。
ヴェルナーは嘘を言っても仕方がない、と素直に頷いた。
「私は軍事に関しては素人なので全く分かりませんが、勝てるのですか?」
「外面だけでは分からないものが日本に限らずどこの国にもあります。我々が資金を融通すれば彼の国は余裕を持って極東での戦いにおいては勝利できるでしょう」
ヴェルナーは勿論、素人のシャハトも日本軍がはるばるロシアの首都まで地球を半周してやってくるとは考えていなかった。
「しかし、ロシアと日本では総兵力に差がありすぎるのでは?」
「ロシアは残念ながら外部の敵ではなく、内部の敵によって崩壊するでしょう」
暗に革命を示唆したヴェルナーにシャハトは僅かに頷いた。
「我々としては投資をしたならば確実に対価を得たい。もし、あなたの言うように事態が推移するのであるならば……」
「私が失敗したときの損失はこれから容易く取り返せるでしょう。そして、それはあなた方も同じでは?」
ヴェルナーの言葉にシャハトは苦笑した。
彼の所属するドレスナー銀行もRFR社に融資していた。
「あなたはこれまでの実績がある。故に、今回はあなたの実績に賭けてみましょう」
シャハトの言葉にヴェルナーは笑みを浮かべたのだった。
そして、1904年2月8日。
ついに日露戦争が始まったのだった。