パン屋と精霊のお話
あったのかも知れないし、なかったのかも知れない。
真実は、不死の魔神たちのみが知る。
ダイトーの片田舎でパン屋を営んでいたトマスは、その月、店をたたんだ。
ことの起こりは二年前だった。
店に、見たことのないような美しい娘が来た。
透き通るほどに白い肌、光に溶けそうな金の髪。水面が映し出されたかに見える青い瞳。
ほっそりと、いまにも風に乗って飛んでいってしまいそうな、可憐な娘だった。
「いらっしゃい、」
何を話すかも決まらないまま、型通りの挨拶が口をついてしまい、少し後悔する。
もっと気の利いた台詞のひとつも言いたかったのに。
「焼きたてのパンを下さいな。」
娘はにっこりと微笑んで、そう言った。
店に並ぶパンはみな、今朝から仕込んで順に焼いていった、焼きたてばかりだったが、トマスは閃いた。
「ああ。それじゃもうじき、パンが焼き上がるから、少し待っていてくれますか?」
今、かまどに入っているパンが、5分もあれば焼き上がってくることを思い出したのだ。
はい、と渡せばそれで見納めになってしまう美しい娘と、あと5分間も長く居られる。
5分の間に、トマスは天気の話と納屋に住みついた猫の話をした。
猫はこの間、6匹もの子猫を産んで、大変だった。最後の一匹は死にかけていて、色々と手を掛けてやったけれど、結局、その夜に冷たくなってしまった。
ウチで死んだのも何かの縁だろう、と、温かいかまどの中へ入れてやった。
火の精霊が肉を食べて、お礼に、魂を天に送り届けてくれるだろう。
煙突から昇る子猫の煙は、夜の空に紛れてトマスには見えなかったけれど。
「残りの子猫は無事ですか?」
娘は恐ろしげに言った。
かまどに棲みつく火の精霊に、食べられはしないかと心配していた。
「元気ですよ、お客さん達が餌をたらふくやるものだから、もう丸々と太って!」
おどけた調子でトマスが話すと、娘もつられて笑った。
春の訪れを告げる、そよ風のようだった。
トマスはこの娘に一目ボレをした。
そして、半年も経つと、二人は結婚した。
トマスは朝からパンを焼くための準備をしている。
そんな時、初めて、かまどが喋り掛けてきた。
「おい、トマス。
お前の嫁さんは、どうして亭主にばかり働かせて、手伝おうとしないんだ?」
びっくりしてトマスが振りかえると、かまどの口から、真っ赤な色をした火の精霊が半身を出して、こちらを眺めていた。
「ああ、びっくりした・・・。
どうしてって、そりゃあ、彼女も忙しいのさ。朝から洗濯やら掃除やら、お昼の用意もしなくちゃならないんだ。俺は今まで一人でやって来たんだし、これからも一人で頑張れるさ。」
「やれやれ、甘いもんだなぁ。
そんなんじゃ、女房にいつか尻に敷かれるぜ?
他の店の亭主を知ってるか? 皆、女房に手伝わせてから、用事もさせてるんだぞ。」
精霊の言い方に、少しムッとしながらも、トマスは考えた。
・・・確かに、彼女と結婚して半年になるけれど、まだ一度も仕事場へは来ていない。
このかまどの傍の作業台を掃除するくらいは、してくれても良さそうだ、と。
そして、その夜、トマスは女房にそれを命じた。
「朝、作業台の掃除をしてくれるだけでいいよ。
忙しいのは解ってる、他の亭主たちに顔向け出来る程度の事だけでいいんだ。」
妻は渋っていた。
ややあって、一つの条件を付けた。
「・・・解りました・・・。けれど、一つだけ、お願いがあるんです。
かまどの戸は、必ず掛け金をして欲しいんです。わたしがあの場所へ入る前に、必ず。」
トマスは快く承知した。
そうして、朝、トマスはかまどの蓋に掛け金を掛け、妻を呼んで、二人で朝の準備をするようになった。妻は、ここでも変わらず、せっせと働き、トマスを助けた。
二人は幸せだった。
「なぁ、旦那。
あんたの嫁さん、すごい美人だってなぁ?」
ある日、かまどの中の精霊がまた、話し掛けてきた。
トマスは忙しく、パンの種を並べながら、少し頬を緩めた。
「なぁ、旦那。
最近、かまどの戸を閉めちまうだろ? せっかく近くに居るのに、あんたの嫁さんの顔がちっとも見えないんだよ。どんな美人か、って、期待してるのにさ。」
「そうかい? ・・・でも、約束だからなぁ。」
トマスはまんざらでもないので、少し残念そうに言った。
美しい妻を、誰かれ構わず見せびらかしたいと日頃から思っていたのだ。
「なぁなぁ、旦那。俺とあんたの仲じゃないか。
明日、ほんの一日だけでいいから、掛け金を外しといてくれないか?
そおっと、ほんの隙間だけ開けて、あんたの美人な嫁さんを見るだけだからさ。」
精霊に頼み込まれて、トマスは仕方なく承知した。
覗いて見るだけなら、妻も許してくれるだろう、と思っていた。
翌朝、早くに起きてトマスはパンの種を準備する。
かまどの蓋の掛け金を、この日は掛けずに妻を呼んだ。
美しい妻が仕事場に姿を現わした途端・・・かまどの蓋が勢い良く開き、火の精霊が妻の手を引き、あっという間にかまどの中へと引きずり込んで食べてしまった。
妻は、風の精霊だったのだ。
火の精霊は、風の精霊が大好物だという事を、トマスは知らなかった。
妻が、正体を隠して恋した相手に会いに来た精霊だった事さえも。
本性を現わした火の精霊は、今度はトマスに襲いかかった。妻を食べようと思った時から、こうするつもりでいたのだろう。
トマスはパンの種をありったけくれてやった。
それでも足りない分は椅子や机もくれてやり、そして最後に水のいっぱいに詰まった大きな樽を、かまどの中へ突っ込んだ。
じゅうぅぅぅ・・・
火の精霊も、水に食われて死んでしまった。
水の精霊たちは立ち昇り、げらげら笑って逃げ去った。
トマスはがっくりと項垂れ、立ち尽くしていた。
そして、その月の終わりの日に、トマスはここを出ていった。
おわり
発掘品。その2。




