009
穴ぐらへの道を戻りながら、遠くの風景を見ていた。樹々や葉々は景色を霞ませる覆いとなった。幹の隙間に見えるくすんだ光の向こうに街があるはずだった。角度によって、視界に街が現れるのを期待して、僕と森さんはよそ見ばかりしていた。街は不安だった。それから、期待があった。両方を行き来するたびに一瞬、強い緊張を感じた。
「もう終わりだな」
「何がです」
「この生活も」
「もっと楽しくなりますよ」
「不安だよ」
広田さんは離れて向こうを一人で歩いていた。背中から彼の揺るぎない陽気さが感じられる。リュックが陽気に揺れていた。
もう終わるのだ。穴ぐらの生活も、山での毎日も。僕らは山を降り、街に戻り、人々の間の摩擦の中で生きていくのだ。あらゆる楽しい想像が湧き、あらゆる不安な想像が湧いた。僕らが体験する実際は、多分そのどれとも違っているだろう。街で行われる僕らの実際に向かって、僕らは少しずつ近づきつつあるのだ。僕は昔自分が街でそうしていたように、他人の視線を意識して、肩をすくめて歩いた。
急に思い出して、僕は立ち止まった。背中にぶつかりそうになって「おい」と森さんが言う。「どうした?」
「ちょっと離れますね」
「どうした」
「ちょっと見ておきたいものがあって」
「もうすぐ出発だぞ」
「わかってます」
「広田さん!」と森さんが叫ぶ。広田さんは遠くで振り返り、こちらを見ていた。「二時には出発するよ!」と叫んだ。
「二時だぞ」と森さんが言う。
「今何時ですか?」と僕。「時計が無いんですよ」
「あと三時間ぐらい!」と広田さん。
「あと三時間ですね」
そう言って僕は来た道を戻り始めた。
穴ぐらでの不確かな生活の中で、たった一つだけ僕を支えたものがある。
それは穴ぐらでの迫り来る不確かさから僕を守ってくれた。何もしない生活。前進も進歩も積み重ねも無い。昨日と今日の区別は無く、あるのは地盤の無い自分に対する不安だけ。その恐怖を誰も知らないから、みんな楽園に対する間違った空想を抱くのだ。何もしなくて良い楽園に住んで、自分と向き合わずにいられる人間がいるだろうか。そして自分と向きあって不安にならずにいられる人間がいるだろうか。そんなところは楽園じゃない。辛いだけだ。本当の楽園はごまかしの中にある。忙しさや夢中や困難や、考えずに済むあらゆるごまかしこそが、本当の楽園だ。人々の描く楽園に対するイメージと、実際の楽園はまるっきり正反対にある。
僕は穴ぐらから離れたところにある、ある崖のくぼみにやってきた。そこは高い崖に囲まれて、青いシートを被せた屋根がある。屋根の下は堅い灰色の石が祭壇のように高くなっている。いくつもの石がそこに重ねられている。
毎日、暇を見つけては僕はここに石を重ねに来た。川岸の側や山の上で見つけた平らな石を持ってきては、ここに重ねた。平らないくつもの石が重なり、小さな塔を作っている。それが5つある。毎日石を重ねること。たったそれだけで僕は昨日と今日を区別した。たったこれだけの作業に、僕は生きがいさえ見出した。重なった多くの石を見つめて成果に感心した。「こんなにも重なったのだ。来月にはどうなるだろう」そう思って僕はわくわくした。たったこれだけの作業が、僕の生きる糧だった。
街に向かうことにこれだけ実感があると、僕の重ねた石はひどく惨めに見えた。子供の遊び道具か、自分と無関係な宗教の儀式に見えた。一瞬壊してしまいたい衝動に駆られたが、怖くなってやめた。ここでの生活が全て無であったことにされると思うと、急に怖くなったのだ。
重なった石の一つをズボンのポケットに入れて、僕はその場を離れた。
穴ぐらまでの道を歩きながら、僕は陽気になっていた。どこで手に入れたのだったか細い枝を持っていた。久しぶりに何も考えずにいられた。子供が近所の林を歩くみたいに、うきうきとしていた。陽気に揺れる広田さんのリュックを思い出していた。
一体どれくらい時間が経っただろう。二時間は過ぎているように思われた。出発するまでに、あとどれくらいの時間があるのだろう?
急に、三時までに戻らなかったらどうなるのだろうという空想が浮かんだ。それはいたずらっぽい遊びだった。実際には起こさない行動を空想して楽しむつもりだった。自分が死んだらどうなるのだろうと想像して楽しむことによく似ている。実行する気なんて無かったのだ。ところが、その空想を浮かべたとたん、僕の足は急に遅くなった。
本当に遅れて行ってしまおうか、と僕は思った。本当に遅れて、彼らのせいにしながら山に残るのだ。次第に成長する虫のように、その考えは少しずつ僕の中でリアリティを持ち始めた。じわじわと内部から蝕むように、僕の中で広がり始めていた。心臓がどきどきした。そんなことしようなんて、さっきまでちっとも思っていなかったのに、今の僕はすでに悩み始めている。
もしも僕が遅れて行ったらどうなるだろう。森さんたちは先に山を降りてしまうだろうか。広田さんに仕事があることを考えると、その可能性はあるように思えた。山は暗くなると降りられない。三時を過ぎてしまったら、もう一晩過ごすことになるだろう。仕事を持っている広田さんにとって、それは難しいことのように思えた。森さんはそれについて行くだろうか。それとも、僕を待って一人で残るだろうか。
誰もいなかったら、穴ぐらの前に誰もいなかったら、この山に残ろうと僕は思った。彼らが待っていたら、山を降りよう。どちらにしても、僕は最後の決断を自分でないところに委ねた。それは僕がよくやる責任逃れだ。ここからの未来がどうなろうと、僕に責任は無い。決めたのは僕でない誰かだ。そう考えることで未来のまずい結果を人のせいにする余地を残すのだ。僕のせいじゃない。そう思えば、恨みながらでも生きていける。
僕は穴ぐらまでの道をひどくゆっくりと歩いた。家に帰るのを遅らせようとする学校帰りの子供のように、ゆっくりと歩いた。生えている草を楽しみ、樹々を眺め、遠くを見つめ、街を想像した。細く茶色い山の道を横から陽が照らしている。
穴ぐらは人々の思う楽園だ。怠惰さと僕らが少し居ついたくらいでは変わらない静けさがある。怠惰は寂しがり屋の情婦みたいに足に絡みついて居残させようとする。あまりにも古い空気と、岩のゴツゴツした背中と、疲れの取れない床と、どこまでも人をいつかせようとする怠惰。食べ物を供給し、思考を鈍らせ、決断を遅らせ、ぐずぐずと居残させる。二度と取れない怠け。街、憧憬。取れない眠気、重い身体。
穴ぐらの静けさは今さら僕らという異物が混じったところで、少しも失われたりしないのだ。
おわり




