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008

次の日の朝、僕らは遅くに目覚めた。目を覚まして穴ぐらの外に行くと、空を眺めながら、腰に手を当てて広田さんが歯を磨いていた。太陽に向けて身体をくねらせている。身体のどこかに陽の当たり残しが出ることを恐れているかのようだ。僕が側に行くと「太陽は山にいる間に、一つの指針となるんだ。時間や方角を知るのに便利なだけじゃない。すべての人間の上で輝くいわば神なんだ」と言った。どの分野であろうと、人は何かを神に仕立て上げたがる。登山という宗教ではそれは太陽らしかった。

 はしゃいだ調子で広田さんが崖を登って、口をゆすいでいる間、穴ぐらの奥から森さんが出てきて側にやってきた。不健康そうな青い顔と、乱れた髪があった。

 「夕べ、なかなか眠れなかったよ」

 「とうとう今日で最後ですからね」

 「本当に行くの?」

 「行きますよ」

 「絶対に?」

 「絶対に」

 森さんは、そうかそうかと何度も呟いた。髪を掻きながら俯いて足元の砂をかき分けた。表面の砂を払えば、そこに自分の求めている答えが現れると思っているかのように。

 「どうしたら良い?」と森さんが顔を上げて言った。

 「迷ってるんですか?」

 「わからないんだよ」

 「行きましょうよ」

 「わからないんだよ」と森さんが言った。「もうわからないんだよ、どうしたら良いか。昨日の夜からずっとそうなんだよ。行こうと思ったり、やっぱりやめようと思ったり。お前がそんなふうに、絶対に行くと決めているのを聞くと、俺はなんだかそれに頼りたくなるよ。俺の意志なんか無くなって、ただ頑丈な棒に捕まるみたいに、お前に頼りたくなるよ」

 「行きましょうよ」と僕は言った。「山を降りましょう」

 広田さんは穴ぐらの上で太陽の陽を浴びている。陽の光は何にも遮られることなく降り注いでいる。山や地面や森や葉々が、こっそりと元気になる音が聞こえる。彼らは少しずつ力を蓄え始めている。穴ぐらの上から顔を出して広田さんが叫んだ。

 「川は近いのかい?」

 「遠くも無いです」

 「そこで朝食にしよう!」広田さんはそう叫んだ。

 僕たちは荷物を持って穴ぐらの前に集まり、川への道を下り始めた。道案内のために僕は先頭を歩いていたが、いつの間にか広田さんと入れ替わっていた。彼は水の匂いを嗅ぎ分けるようにずんずん進んでいく。時々、振り返って「こっちで良いのかな?」と嬉しそうに尋ねた。

 僕らの利用している川は森と森の隙間にある。道を降りていくと、突然小さく開けた川沿いに出る。葉々の作る影の世界から、ひんやりとした白い日差しの世界に抜け出る。川の流れは穏やかだが、透明で綺麗だった。幼い女の子のようなおとなしい川だった。

 川にやってくると、広田さんはリュックのホルダーから竿を取り出して釣りを始めた。慣れた手つきと好奇心の喜び。子供が井戸を覗くやり方で広田さんは川の水を見る。「綺麗だなあ」と広田さんが言う。「綺麗な新鮮な水だ。太陽のおかげだよ」広田さんは背中を撫でるみたいにそう言った。

 「釣りはしなかったのかい?」

 釣りを始めた広田さんは首だけこちらに向けて言った。どう答えようか迷っていると、森さんが答えた。

 「あんまり」

 「魚は食べなかったの?何食べて生きてたんだよ」と笑いながら広田さんが言う。僕らは黙った。正直に言う勇気は無かった。

 「え?」

 と広田さんは聞く。

 「……木の実とか」と森さんが答えた。

 「今が季節だもんなあ。あけびも食べた?」

 「食べましたよ!」と慌てて僕。

 「昔一度だけ食べたことがあるよ。父親が山に行くのが好きでね。お土産に持って帰ったんだ。味なんてほとんど憶えてないけどさ。食べたことだけはよく憶えているよ。なんでだろうな。特別嬉しかったわけでもないのにさ」

 話し終えると、広田さんは川の流れに古い記憶を見出したみたいだった。釣り糸の先で一人の静かな世界を味わっている。川は幼い鳴き声を立てて流れている。

 「行くよ」と森さんが言った。

 「なんです?」

 「俺も行くよ」

 「どこに?」

 「街に行くよ、俺も」

 「行きますか」

 「行くよ」と森さんが言った。「お前が行くなら俺も行くよ。そう決めたよ」

 「何が食べたい!」と広田さんが叫んだ。「何が食べたい、ごちそうするよ!」

 広田さんは僕らに顔を向けてそう叫んだ。自信と好奇心に溢れた表情で。彼は街から来たのだ。僕らとは違う。明るい灯りの下で多くの人々の間を生き、彼らの起こす摩擦に揉まれて生きてきたのだ。広田さんが山が好きなのは息抜きのためだ。また街に戻るためにここに来るのだ。彼の身体には活力が溢れている。僕らが目を背けたくなるほどの、眩しい活力が。

 「ここは良い山だ!」

 広田さんがそう叫んだ。誰に言うでもなく。気を使うように流れるささやかな川の音が僕らの間に満ちている。広田さんの叫びはそれを抜けて遠くまで響いた。僕らはそれを聴いていた。体育座りをして、尻に石のぶつぶつを感じながら。










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