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002

湿気た匂いがする。衣服が湿っているあの匂いの中に、食べ物の卑猥なな匂いが流れている。


食べ残しの入った弁当が辺りにいくつか置いてある。その横に衣類が数枚重ねてある。


森さんは靴底に詰まった泥を、木の棒でさっきから掘っている。しぶとい小石がどうしても取れない、いい加減新しい靴が欲しい、しかしサイズが……というようなことを一人で何度もつぶやいている。


僕らの間には青いバケツがある。このバケツを見ると、僕はいつも自分の生命の残りを見るような気分になる。バケツの中には憂鬱なほど水がたっぷりと入っている。


「昨日、川のそばに焚き木の跡があっただろ?」


森さんが作業しながら僕に聞く。


「ええ、ありましたね」


「今日行ったら新しいのは無かったよ。多分、誰かが少し休憩して行っただけなんだろう。長く滞在するような感じじゃないらしい」


「ああ、そうですか」


僕は安心してそう言う。


「紛らわしいことするなよな」


森さんはそこが笑うところだと示すために笑い声をたてた。


僕らは自分たちのいるこの穴ぐらのそばに、たった一つの焚き木の跡があっただけで、驚くほど不安を感じる。その人物がまるで侵入者かのように感じる。


「けど、陽は重なってたよ」


笑った顔のまま言う。


「へえ、久しぶりですね」


ここから川に向かう獣道の途中に、木の枝が2本、先端で歪んで丸みを帯びているところがある。時間によってはそこから山の向こうにある陽の光が、ちょうどその輪の中に収まる。単に時間の問題なのだけど、僕らは正確な時間を知るすべを持たない。だから川に水を汲みに行く往復の間に、その重なりを見ると幸運だと思う。


初めは冗談だった。その重なりを見ると、何か良いことがあるらしいよ、と、森さんが言った。「そんなおまじないが本当にありそうですね」と僕は笑って返した。それからその道を通るたびに、陽が輪に収まるか確かめた。女の背中みたいなしっとりした土の上で、遠くに見える雑然と群がった街並みと、その向こうに見える陽を眺めた。まだ夜明けの薄靄を底に残し、不協和音の破片を寄せ集めたような街は、小さいながらも、手の届かない一つの憧憬そのもののように見えた。まるで街が本当は存在しないかのような、単に僕の願望が朝露の海の上で身を寄せて揺れているかのような――。


たった一つ残った小石に、森さんは苦心しているらしい。渦を巻いた靴の底の溝に、何度も木の枝を差し込んでいる。そのたびに枝は表面をかすめ、力は別のところへ逃げていく。まるで勝手に動き回る枝に遊ばれる喜劇人を演じているみたいだ。それから、いつの間にか小石を取るという目的を忘れて、枝を溝に挟む感触を楽しみ始めた。うつむいてあぐらをかき、力をさして込めずに、指先でつまんだ枝を娼婦の指先に似たやり方で、表面を這わせている。靴の裏の溝を辿っているうちに、探していた考えごとにぶつかるとでも思っているみたいだ。やがてそれにも飽きたらしく、枝の先で靴底のゴムを叩き始めた。ポオン、ポオン、という不気味な音――脳みその無い空洞の頭をした人間を叩いているような音――が鳴った。


「本当に、大雨が降ったら出ていくの?」


森さんは別の枝を探しながら言った。まるでそのことが僕らにとってそれほど重要ではないかのように。


「ええ、はい……、そうですね、出ていきますよ」


「そうかあー……」


こちらを見ずにそう言ったっきり、森さんは枝探しに没頭してしまった。あるいはそのフリをした。辺りにある暗闇に手を這わしている。しばらくして、一本の細い枝を見つけると顔に近づけた。


「これは細いな、良い枝だ、良い枝だよ」


そう言って森さんは僕に笑顔を向けた。僕も笑ってみせた。


森さんはしばらくうつむいて枝を見つめた。両手でその枝を繊細に持って、それが本当に良い枝なのか吟味しているかのように。


「いやあー、偉いよ、お前は。お前は偉い、本当に」


森さんは顔を上げてそう言った。また枝で靴を叩いている。さっきよりも強い力で、ほんの少し速いリズムで。ボオン、ボオン、とあの不気味な音が鳴る。


「いえいえ、そんなことな――」


「いやいや、これは本当!」


枝を持っていた手で森さんは僕の言葉を遮る。


「お前は偉いよ、それは本当。俺は出て行くと考えることもなかなか出来ない。いや、普通は出来ないよ。ここは居心地が驚くほど良いし、街に降りるまでの道は危険だし……。お前は偉いよ、それは本当」


「いや……そんなこと無いですよ」


浮いてはゴムに戻る、森さんの指先の枝を見ていた。ポオン、ポオン、と音が鳴り、何度も枝はゴムへ戻る。まるで宿命みたいだ。


「森さんも、一緒に行かないですか?」


僕が言う。


「大雨が降ったら、一緒に行って、街に降りましょうよ。次に大雨が降ったら、そうしましょう。でないと……僕らずっとここに居ることになりますよ。ずっとここに残ることになりますよ」


「うん……」と一言呻いて森さんは、僕とバケツの間ぐらいの地面に、視線を残して黙っている。片方の手を地面に張って、少し胸を張った姿勢でいる。足は適当なあぐらの風でいる。ポオン、ポオン、と音が鳴っている。あの不気味な音が。


「一生ここに居ることなんて出来ないですからね。ねえ、森さん、一緒に行きましょうよ。一緒に行って、街に行きましょう。駄目になりますよ、ずっとこんなところにいたら」


森さんは何も言わない。ただうつむいている。


何の反応もないことに苛立って、僕は次第に興奮し始めた。


「森さん、聞いてます?」


「聞いてるよ!」


森さんは慌てて顔を上げて言った。


「もう半年以上ですよ。このままだと、僕たち、本当に出れなくなっちゃいますよ。いい加減降りましょうよ、このままだと僕ら本当に……」


森さんはまたもうつむいている。


「森さん、焦らないですか?僕は焦りますよ。時々、すごい怖くなるんですよ。このままずっとここから出られなくなって、ここに居続けることになるんじゃないかって……。食べ物とか、寒さとか、そういうんじゃないんですよ、そういう肉体的な部分じゃないんですよ、もっとずっと重要な、根源的な部分で、不安なんですよ。時々、全然寝れなく――」


「俺もだよ!」


また顔を上げて森さんが言う。


「それは俺もだよ……。なんていうか、怖いんだよな?そうそう、俺もそうだよ。焦りっていうか、なんかうまく言葉に出来ないけど、わかるよ、それは、わかるよ……」


「でしょ?だったら一緒に行きましょうよ、次に大雨が降ったら、ねえ、森さん、一緒に行きましょうよ」


「うん、うん、そう、そうだよな、うん……」


照れたような、焦ったような調子で、困惑しながら森さんは言う。


「そうそう、そうだよな、いや、俺もさ、そうそう、そう思っていたよ、もちろんね。そう、次の雨ね、そうそう、よし、そしたら行こうか……。うん、もちろんだよ……」


「森さんがやる気になったら、僕はどんなことでも手伝いますよ。街に行ってからも助けますし、もちろん、辿りつくまでも助けますよ。後は森さん次第ですよ、その気になったら、僕が助けますから」


僕は、ひどく自分が熱っぽく語っているのを感じた。下半身が走るのを止められない人間のように、僕は説得するのをやめられない気がした。時々、こんな風に熱っぽくなるのだ。


「もしも、森さんが一緒に行くっていうなら、僕は助けますよ。手伝いますよ。だから、森さん、一緒に行きましょう、ねっ」


「うん、そうそう、そう!そうだね……」


僕を見ていた森さんは、またもうつむいてそう言った。それから、首の裏を爪でガリガリ掻いて、またあの音をたてはじめた。ポオン、ポオン、と、あの不気味な音を。


森さんはきっと行かないだろう。僕はそう思った。森さんは始めから、多分……いや、無理はないのだ、ここは穴ぐらで、そう、無理はないと僕は思う……。この会話も一度や二度では無いのだ…。


停滞と静けさがこの穴ぐらを支配している。その二つが堕落の根源にある。僕らはこの会話が何度も何度も、繰り返し行われているということを知っている。その間に、何度も、本当に何度も、大雨が降ったということも。こんなことは狂人のやることだ。何度も何度も、同じ会話を、同じ説得を僕らは繰り返している。大雨が過ぎるたびに、僕らはそのことが無かったかのように振舞う。記憶を隅に追いやる。一体何度この説得を繰り返したのだろう?あと何回繰り返すのだろう。まるで喜劇だ。


静けさがやってきた。静けさは歌だ。穴ぐらは偉大な静けさを歌う。偉大な、人間にとってはあまりにも偉大な静けさを。


何度だろう、何度この静けさを体感しただろう。僕らの生きる世界の基本は平面なのだと思い知らされる。あらゆる行動は音となり、それらは確かな証拠として僕らの耳を満足させる。ところが、どれほど努力したところで、必死になったところで、音は消える。その後はこの偉大な静けさがやってくる。圧倒的に膨大な、巨大な静けさが。世界は平面へと戻る。圧倒的な、透明な、涙を誘う、冷たい新鮮な水のような静けさがやってきて、世界は平面へ戻る。僕らが何をしたところで人生は無駄でその後には平面がやってくるのだ、と思い知らされることは辛い。けどそれよりももっと辛いのは、僕らにそうした冷酷な暴力を与えるこの静けさというものに、僕らが無力にも感動せざるを得ないということだ。加害者に対して無知な賞賛を与える僕らは、まるで陽気な精神異常者のようだ。入り口に立つナイフを持った男に、はしゃぎながら拍手を送るのだ。狂人だ。そして、静寂によって僕らは停滞を強いられる――。


「次こそ、次こそ……」


僕は心のなかでそう想った。


猫のように姿勢を伸ばして、青いプラスチック製のマグカップでバケツの水をすくう。神聖な愛撫のような音が糸を引くように鳴る。マグカップの口元は舌に触れると嫌にざらついた。後は、森さんが再び鳴らし始めた、あの音だけが鳴っている。木の枝でゴムを叩くあの音だけが。


「お前は偉いよ、偉い、それは本当だよ……」


森さんがそう呟いた。

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