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001

そうそう……なんてことはない……心配は波だ……気にしなくて良い、行ったり来たりしているに過ぎない……そうそう……楽天家になることを恐れるな……彼等が……楽天家が、楽観を幸福に感じるのと同じように……そうそう……憂鬱に陥りがちな者はそこにある快楽が好きだからに違いない……同じことだ……単に好みの問題だ……不幸には優越感があるから……だから誰もが憂鬱を選ぶんだ……きっとそうだ……楽天家になることを恐れるな……そうそう……不安の誘いに乗るな……不安は波だ……そうそう……それで良い……ようやく落ち着いて来たな……。

サナギ型をした暗闇に、意地の悪い憂鬱が潜んでいる。ふう、息苦しいのは空気が通らないからだ。静かだ。静けさもまた鮮度を持った物質なのだと知った。長い間、何者にも疎外されずにきたここの静けさは今更僕らという異物が混じったところで、どうにかなるものでは無い。液体に似た、透明な滴、静けさ、まるで滴だ、透明な、そして光沢が胸を惹きつける。


遠くに、艶めかしい滑らかな男の背中のような天井がぼんやりと見えている。眺めていると次第に鮮明さを増し、茶色いでこぼことした表面が滲んだように広がって見える。起伏が縦に伸びていくつもの小さな線となり、床に伸びている。うなじから性器の匂いをさせる、傷んだ長い女の髪のようだ。床の真ん中辺りに、僕の好きな青いバケツがある。どんなに手で擦っても落ちなかった擦り傷が表面を覆っている。たっぷりとした冷たい水がその中でくすくすと笑っている。バケツと壁の間に、2枚の毛布に包まれた森さんが眠っている。


赤と黒が交差するモンドリアンの絵画のような模様をした毛布から、長い髪をした森さんの顔が見えている。伸びた眉の下で、うす茶色い希薄な瞳を包むまぶたが閉じている。形の良い印象の少ない鼻の下で、枕にした腕に皮膚を引っ張られて、唇が笑っているみたいに見えた。どうして森さんの顔を見ると苛立つのか僕はわかっている。あまりにも二人きりで居すぎたからだ。


意識にも重力があると思っている。何を考えていても必ずそこに行き着くというある一点がある。僕はまたもその一点に向かって意識の中を流れている。僕は巡る、何度離れても必ず落ちるあの地点へ。


強い黄金色の日差しの中で、小さな清潔感のあるコテージと、すぐ脇にある痩せた木の並ぶ林と、足元の駐車場の砂利に取り囲まれて、僕らは濃い艶めかしい影をそれぞれ側に寄せて立っている。Tシャツと短パンとサンダルを履き、足を露出させた男女が話している。夏だ。確か山梨だった。僕のすぐ隣で友人が後輩の女たちと話している。ここに集まった20人ぐらいの人間は、大学の合宿を終えてそれぞれが家に帰り始めようとしている。


砂利が足の裏で転がる音が心地良かったのを憶えている。地面を見つめながら足の裏を前後に揺する。そうしていると、遠い子供の頃を思い出す。どこだったかで、こうして砂利を足で転がして夢中になった日があった。強い日差しによって作られたくっきりとした濃い影は、重ね集まる砂利の奥にまで浸透している。


砂利に夢中になりながら――いや、それは単にフリだったかも知れないが――僕は隣にいる友達と女たちの会話に耳を澄ませていた。同じように砂利に夢中になった子供時代を思い出しながら、あの時のようには夢中になれなかったのだ。


せんぱいたちってえ、がっこうでみるとお、こわいんですよお、みんないってますよお、ほんとうですよお、みんなあ、こわがってますよお、ほんとうですよお、だってえ、ひげはえてるしい、なんかあ、こわいひとがおおいじゃないですかあ。


それから、僕の友達が言った言葉で彼女たちは笑う。


ひどおい、そんなこというからあ、こわがられるんですよお。おんなにはあ、やさしくしないといけないってえ、せんせいにい、おそわらなかったんですかあ。せんぱいたちってえ、こわがられてるんですからあ、じかくしたほうがいいですよお。


――それから、また僕の友達が何かを言う。


ひどおい、せんぱあい、そんなこというとお、おんなのこにい、きらわれますよお、ほんとうですよお、おんなのこにはあ、やさしくしなきゃだめですよお、せんせいにい――。


3人いる彼女たちとは、この合宿の間に数回話した。3人とも髪の色や服装の良く似た女の子たちだった。かなり明るい髪の色をして、滑らかな白い耳を隠している。流行りの服装――よく見ると無難な、基準よりは少し卑猥な――をして、それから3人とも青い淫靡な血管を浮かべた白い手首に、同じアクセサリーをしている。黒い菱形の連なったキラキラした輪。ほかのアクセサリーに触れてチャラチャラと喜びのような音を立てる。それは絶えず連なって行動する彼女たちを暗示している。


せんぱあい、おねがいがあるんですけどお、しゃしんとってもお、いいですかあ。ひとりずつとってえ、あとでおもいでにしたいんですけどお、あのお、いいですかあ。


視線を反対に移すと、小さくて脂肪のたっぷりした魔女のような先生が遠くに見える。白く輝いて濡れる先生の車の前で、生徒と別れようとして最後に簡単なおしゃべりをしている。さっきまでユーモラスだった先生の細く乾燥した唇は、急に真面目な調子になって生徒を励ましている。その緩急に、先生の目の前に立つ生徒の心は感激で溢れている。


しゃしんをとってもお、いいですかあ、あのお、だってえ、たぶんきねんにいなるんですよお、せんぱあい、いいじゃないですかあ、なんでそんなこというんですかあ、ひどおい。


きっと――と僕は思っている――僕がここにいたら彼女たちも辛いだろう。彼女たちが写真を撮りたいのは僕の友達であって、僕じゃない。そのことはよく分かっている。


じゃあ、こっちからあ、ひとりずつとりますからねえ、ねえ、ちゃんとおこっちむいてくださいよお、ねえ、せんぱあい、こっちむいてくださいってばあ、おこりますよお。


彼女たちは一人目の写真を撮った。


遠くにいる先生は丸い身体を車のほうに向けて、生徒の方を見ながら何度も頷いている。生徒は若者らしい情熱で、お礼を言っている。二人の間には不気味なほどの興奮がある。セックスの時によく起きる、湧き上がる感涙だ。


彼女たちが僕のすぐ隣にいる、二人目の写真を撮った時、僕はあたかも、”まるでさっきから気になっていることがあって、ようやく今まさに行動に移したかのような”態度を装った。急にその場から離れた。ふっと、袖を引かれたみたいに、突然、急に、その場から離れたのだ。その方が良いのだ。彼女たちにとっても、僕にとっても。


――ところが、僕がそこから離れるその瞬間に盗み見た彼女たちの表情は、僕の予想と全然違っていた。彼女たちは眉を上げて、口を小さく開け、驚いていた。驚き?どうして?――僕はそう思った。彼女たちの表情は、疑問を浮かべて、そしてわずかにだけど、悲しげだった。


もしかしたら、僕のことも撮るつもりだったのかも知れない。


”それは自惚れだろう”と僕の心は言う。


いや、きっと僕のことなどやっぱり眼中になくて、いなくなってほっとしていたんだ。


”いや、それは考えすぎだ、いつものやつだ。事実、彼女たちは驚いていたじゃないか。”


――じゃあ答えはなんなんだ?


結局、本当のところ彼女たちが何を想っていたか、今となってはわかりようも無い。僕は心を痛めながら、足を止めることは出来なかったし、誰も止めなかった。”今となってはわからない”という事実が、何度も僕をこの思い出に呼び寄せる。本当のところどうだったのか?恐ろしいことに、もしも彼女たちに再会したところで、多分彼女たちはこれっぽちもこのことを覚えていない。3人のうちの一人でさえも。こうして事実は永久にわからなくなった。誰も覚えてさえいない過去のある体験を、僕は今だにくよくよと思い返しているのだ。”ありもしないもの”に嘆いているなんて狂人だ。誰も覚えてさえおらず、永遠に解決することの出来ない問題。この思い出はいわば不可能でパッケージされた手の届かない憂鬱だ。遠くに霞む、透明な憂鬱。宙に浮かぶ、磨りガラス模様の――。


いつもそうだ、思索が世界と僕をずれさせる。


森さんはまだ眠っている。頭のすぐ側に置いてある、とっくに電池の切れた携帯電話は二度と鳴らない。あたかもそこで、沈黙を鳴らせているみたいだ。


暗い中に開いた、いびな形をした円の向こうで、青白い外が広がっている。木々が交差し、その奥に塗ったような空がある。夜の間降り続けていた小雨は止んだらしい。湿っぽい景色だ――。


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