疑似親子旅行
なんで俺はここにいるんだろう。新幹線の中で、ぼうっと考える。隣には雑誌をアイマスク代わりにしながら眠る連れの姿があった。この人も眠るのか……などと、睡眠は生物として当然の欲求のはずなのに思ってしまう。この人も人の子なんだなあ。
旅行に行こうか、とリン子の父親から誘われたのはつい一週間前のことだった。どうやら、ちょうど一週間後、リン子は山岳部の合宿で八ヶ岳に挑むらしい。それ、聞いてない。一応、恋人同士なのだから教えて欲しかった。
「あれがいない間、さぞかし寂しいかと思ってね。それにどうせ暇だろ?」
「でも、お仕事があるのでは……」
「僕の大学も冬休みだよ」
そうだった。大学の先生なんだった。旅行の件をリン子に話したところ、行きたいなら行けばいいじゃないですか、と適当な返事をされた。嫌がって止めてくれると思っていたのに、あんまりだ。これじゃあ、断りづらいじゃないか。
以前からぼんやりとは察してはいたものの、この父娘の間の複雑な家庭事情を知ったのは、この人と初めて出会ったときのことだった。母親はいない。そのため、リン子と父親であるこの人は二人暮らしだ。付き合い始めてからは、ほぼ俺の家に入り浸っているが。恐らくあまり帰りたくないのだろう。
リン子はこの人を『父』あるいは『あの人』としか呼ばない。この人もリン子を『あれ』としか呼ばなかった。
そんな父娘がどのような共同生活を送っているのかは謎だが、きっと冷め切った関係に違いなかった。この人とリン子が食卓を一緒に囲むイメージが湧かない。リン子の作った味噌汁だとかを二人が口にするのを想像すると、なんだか滑稽に思えて、笑いすらこみ上げてくる。というのも、いつもブロック状やらゼリー状やらの栄養調整食品ばかりリン子は食しており、食に対する情熱は微塵も感じられなかった。できれば点滴で生きていきたい、などとのたまう始末である。だから、リン子の作る料理の味は決して不味くはないが、決して美味くもない。食べられさえすればいい、というポリシーを反映した、美食の追求とは程遠い代物だ。
そんな味気ない料理の数々を、文句一つ言わず、淡々とこの人は食しているのだろうか? いや、この人はこの人で食に関心があるとは到底思えない。食卓でお互い向かい合いながら、黙々と二人して栄養調整食品を口にしているとでも言うのだろうか? そんな、ふざけた光景も「あり得ない」とは言い切れなかった。
衣食住の気配を感じさせない、サイボーグじみた父娘である。
今、目の前で普通の人間のように眠るこの人の姿は奇妙な感じがした。
「……何かな」
突如、いつの間にか顔面から少し退けられた雑誌の隙間から、問いかけが発せられる。驚きのあまり、思わず間抜けな声が漏れてしまう。
「お、起きてるなら言ってくださいよ」
「目を閉じていただけだよ。寝るなんて一言も言ってないじゃないか」
新幹線に揺られながら早一時間ほどが経過していた。目的地まではさらに特急電車に乗り継いで二時間半ばかりかかるらしい。憂鬱だ。出来れば本当に寝ていてくれればよかったものを。話すことなんて何もない。いや、あるにはあるが、俺から触れていい内容なのかがわからない。この人もただ、窓の外の景色をぼんやりと眺めているだけだった。
こうして見ると、本当に顔がリン子と似ている。作り物のような無機質さすら感じさせる整った顔立ちだ。若かりし頃はさぞモテたのだろうが、鈍色に光る瞳と下に刻まれたクマのせいか、その美貌はくたびれて見える。
座席には長い脚が窮屈そうに収められていた。俺と同じく、一般的な日本人に合わせたサイズではやや狭苦しさを感じているに違いなかった。自分で言うのもなんだが、俺は背がべらぼうに高いのだ。この人も数センチ低いだけで長躯だと言っていいだろう。何が悲しくて、大男二人がサシで旅行に行っているんだろうか。
目的地に到着すると、そこは、ずらりと着物姿の仲居さんが出迎える大きな老舗旅館だった。このように丁重にもてなされると、こちらまでペコペコお辞儀をしてしまうのは日本人の性なのか。これはもしかして、いやもしかしなくても、高級なところじゃないか。知らなかったから、ダウンジャケットの下はスカジャンのうえにピアスもつけたままだ。どう考えても、こんな出で立ちの若造は場違いだった。当たり前だが、周りは金持ちっぽいシニア層ばかりである。
ちなみにこの旅行の費用は全てあちらが持つことになっている。借りを作りたくなかったので多少の金の持ち合わせはあるが、これでは恐らく足りないだろう。俺の不安をよそに、この人はさっさとチェックインを済ませていた。そういえば、俺はこの人の名前すらよく知らない。そっと宿泊者カードを覗き見ると、上の名前まではリン子と同じことが確認できたが、下の名前は達筆な筆記体で読めなかった。
宿泊する客室はオーシャンビューであった。しかも玄関つきで、襖を開けるといくつか部屋があった。……ますます高そうだな。ご丁寧に抹茶と和菓子のサービスまである。もちろん部屋に備え付けのものではなく、仲居さんが運んできたものだ。
「吸ってもいいかい?」
「……どうぞ」
一息ついてからの第一声が、それか。よく考えたら、新幹線も特急電車も禁煙だったので乗り換えのときに一服していたきりだったっけ。煙草を吸わないからよくわからないが、喫煙者にはなかなか堪えるのだろう。広縁の窓を開けて、リクライニングチェアに腰かけながら、この人は煙草を吸い始めた。紫煙とともに、ひんやりとした空気が室内に流れ込む。窓の外には青々とした海が見える。なんて、静謐な景色だろう。
──気まずい。長い移動時間でもお互いほぼ無言だった。まだ時刻は十六時を少し過ぎたくらいである。どこかに観光に向かうには中途半端だが、やることも既に何もない。これから夜までどう過ごせばいい?
「……あの」
「ん?」
「なんで俺と旅行なんか……リン子と行きましょうよ、こういうのは」
「あれと? 面白いことを言うね」
乾いた笑いとともに絞り出された声色には侮蔑が込められていた。しかしながら、人様の家庭事情に関して口出しする権利は誰にもないのだ。わかっている。
「僕はね、真壁君の時間を金で買ったんだよ」
……俺の時間を、買った? 一体、どういうことなんだ? 意図が不明で非常に不気味である。まだ義理の家族でもあるまいし、親睦を深めるには早いんじゃないか?
「親父さんはこれからどうするんですか」
「君に父親呼ばわりされる筋合いはないんじゃないかなあ」
じゃあ、なんて呼べばいいんだよ。上の名前で呼ぶのもなんか変だし、まして下の名前で呼んだらもっと変ではないか。
「リン子のという意味合いです!」
「まあ、どうでもいいけどね」
どうでもいいなら、いちいち突っかかるのはやめて欲しい。
「さては君、手持無沙汰なんだな」
「はあ……」
その通りだが、あんたも暇なんじゃないのか、と言いたい気持ちを飲み込む。
「何もしない時間というのも、なかなかよいものだよ」
そうきたか。確かに、日常から離れて、何もしないというのも悪くないことかもしれない。この人さえいなければの話だが。
「俺はちょっと外に行ってきます」
「……そう。ご自由に」
この人は興味もなさそうに、そっぽを向いたままだった。部屋から出ると、一気に解放感が押し寄せる。一緒に行くと言われなくてよかった。なんでこんな緊迫の中で旅行しなきゃならないんだ。
それにしても、この旅館の作りは豪華絢爛なことこの上ない。まだ自分が生まれてもいなかったバブル時代の香りを感じる。壁や床には和の装飾がふんだんにあしらわれていた。さり気なく置かれた調度品や生け花の数々もゴージャスな雰囲気だ。吹き抜けの高い天井を見上げると、ガラス張りの壁を、きらきらと灯りの点いたシースルーのエレベーターが行き来するのが見えた。
客室に案内される途中で通ったときから気になっていたのだが、旅館の中に小さな温泉街のようなスペースがあるではないか。どうやら土産屋が連なっているようだ。石川の土産って何だ? よくわからなかったので、種類が沢山あった金平糖をリン子に買って行くことにする。リン子は興味ないだろうけども。時刻は十七時半に差し掛かっている。もう戻ろう。
「おかえり」
この人は本当に何もしていなかったのか、灰皿にはたくさんの吸い殻があった。
「あの、そろそろ風呂行きませんか?」
「いや、僕はいいよ」
温泉宿に来たのに温泉に入らないなんて、正気か? もしかしたら、欧米育ちだから他人と風呂に入るのは野蛮な風習だと認識しているとか? さして一緒に入浴したい訳ではないのだが、旅行の費用を全額負担してもらっている手前、自分だけ楽しむのは気が引けた。半ば強引に脱衣所までこの人を連れて行ったあと、すぐに俺は後悔することとなったのだった。
「ほら、だからいいって言ったじゃないか」
「……すいません」
夜の海が一望出来る露天風呂には俺たちの他に客は誰もいない。率直に言うと、避けられているのだ。この人の身体は傷だらけだった。それも、服の上からは巧妙に見えない部分だけである。紛れもなく、痛ましい暴力の痕跡だ。
「でも、こんな大きな風呂に入るのは久しぶりだよ」
俺は何も言えなくて、ただ黙ってしまった。
「君が気に病むようなことじゃない」
この人なりの気遣いが情けなさを増幅させた。これらの傷は誰にどのような目的で付けられたものなのか、なんて聞ける訳がない。
娘に対する態度は褒められたものではないが、彼もかつて愛情を欠いた子供の一人だったのだろう。結局のところ、少し聞き齧った程度で、俺はこの人の人生を知った気になっていたのだ。
はらり、と白いものが目の前を舞い降りる。
「あ……雪……ですね」
「綺麗だね」
雪花は湯の中に落ちると、そのままじんわりと溶けていった。
客室に戻ると、知らぬ間に室内用のスリッパが履きやすいように揃えて置いてあるではないか。なるほど、これが老舗旅館のもてなしか。
風呂上りに浴衣に着替えたため、身体がだらっと脱力してしまう。俺も人のことは言えないかもしれないが、親父さんの浴衣姿は似合っていなかった。猫背気味の後ろ姿にはどこか哀愁が漂っている。修学旅行の写真の中のリン子の浴衣姿は可愛くて似合っていたはずなのに、何故だろう。
どうして一つ下の学年の修学旅行の写真を持っているのかと言うと、後輩に頼み込んで代理で買わせたからである。無論、それなりの金は払った。高校時代にリン子と同学年じゃなかったことが悔やまれるエピソードの一つだ。
うだうだしながら、スマホにリン子からのメッセージがないかチェックする。俺のメッセージに対する返事はまだない。それどころか既読にもなっていない。そうか、山って電波が届かないか。リン子からの返事が遅いのはいつものことなので気にしない。
さて、この旅行で唯一の楽しみだった食事の時間である。部屋に次々とご馳走が運ばれてくる。担当の仲居さんによって、にこやかによどみなく、それぞれの料理の説明がされた。
俺たちはどういう関係だと思われているのだろうか。妙なことを勘繰られていたらどうしよう。仲居さんはあくまで懇切丁寧に対応してくれているが、そこはプロだからな。内心どう思っているかはわからない。
とりあえず、ただ食べることに専念することにする。どの料理も贅を凝らした逸品だ。味が美味いだけでなく、見た目にも華やかである。こんなご馳走は滅多に食べられるものではない。この瞬間だけは、来てよかったと思った。
ふと、お膳を見ると、なんだか量が増えている気がする。俺の皿の上に料理が追加で盛られているのが、視界の端でちらりと捉えられた。
「あっ、ちょっと! 勝手に乗せないでくださいよ!」
「いいじゃないか、若いんだからさ」
孫にたくさん食べさせたいお爺ちゃんかよ! まあ、貰ったからには食べるのだが。思った通り、親父さんは食に関心がないようだ。
そんなところまででリン子にそっくりなんだな。さっきから「美味しい」という一言すら聞いていない。無表情かつ機械的に、ひたすら咀嚼を続けている。なんて、ご馳走の食べ甲斐がない人なんだろう。
いよいよ、お待ちかねの蟹の登場だ。丸ごと一杯出てくるとテンションが上がってしまう。カニスプーンで身をほぐして、一口食べた。脳内が蟹の美味さで支配されていく。
俺が感激している一方で、表情こそ変わらないものの、親父さんはなんか不機嫌になっている。どうやら蟹が上手く食えないらしい。
「あー、もう! 俺がやりますから!」
親父さんの皿を奪い取って、俺はひたすら蟹の身をほぐしまくった。なかなか骨の折れる作業だ。
「しょーもないことでイラつかないでください」
「こんな労力を割いてまで食べるものなのかね、これは」
また、そんなことを言って拗ねる……。親父さんにはこういう子供っぽいところがあるのだ。
少し時間は掛かったが、身だけを甲羅の上に集めて渡した。まさか、人の分までやることになるとは。
「どうぞ」
「ありがとう」
ありがとう、か。むしろお礼を言わなきゃいけないのはこちらの方なのかもしれない。この蟹だって親父さんのお陰で食えてるんだ。ゆっくりと、蟹の身が親父さんの口に運ばれる。俺の中に謎の緊張が走った。審査員のジャッジを待つ料理人の心持ちである。
「へえ、なかなか美味いね」
「でしょう」
蟹の美味さは俺の手柄でもではないのだが、まるで俺が採った蟹かのように、少し得意になってしまった。でも、よかった。
「なあ、一杯付き合ってくれないか。二十歳になったんだろ」
夕食も食べ終わって一段落したと思ったら、館内のバーに行きたいらしい。さっきは、俺が飲まないと言ったら親父さんも飲まなかったけど、やっぱり気を遣われていたのか。
「えっ、でも俺そんなに飲めませんよ」
「構わないよ」
俺は酒に強くない。二十歳になったその日、喜び勇んでビールを飲んでみたら、すぐに酔っ払ってしまった。しかし、そう言われてしまったら行くしかないな。
館内の吹き抜けの中央に位置するバーからは他のフロアの様子がよく見渡せた。こういうところはあまり行ったことがないのでドキドキする。なんというか、大人の空間だ。俺ももう大人だけど。
ノンアルコールカクテルもあったが、最初の一杯くらいはアルコールで付き合うことにする。乾杯して、恐る恐る飲んでみた。一応、弱い酒にしてもらったが、自分のアルコールの許容量がまだわからない。
「どう?」
「……美味しい……です」
「はは、無理するなよ」
……バレている。正直に言うと、酒の美味さがよくわかっていない俺である。味はともかく香りは結構好きかもしれない。ツマミを食べてお茶を濁す。こういうところってツマミまで洒落ているんだなあ。よくわからんナッツが出てきた。
隣を見ると、親父さんのペースは異様に早い。もう二杯目を飲んでいる。そのうえ、うわばみなんだよな。
煙草も吸うようだったので、俺はライターを準備した。せめてこれくらいはした方がよいだろう。
「それ、持っててくれたんだ」
このライターは親父さんから貰ったものだ。何故か俺が未成年だったときにくれたのである。
「使ってる?」
「あ、いや……煙草はやらないんで」
「おいおい、酒も煙草もやらないんじゃ、二十歳になった意味がないじゃないか」
実は、煙草を吸ったことはある。大人になって、吸えたらちょっとカッコいいな、とひそかに思っていたからだ。いざ吸ってみると、口から喉にかけて煙たい空気がいっぱいに広がる感覚は、どうにも不快だった。まるきり吸えない訳じゃなかったが、その一回きりで、煙草は二度とやっていない。
俺がライターの火を点けると、親父さんは煙草を咥えたまま、こちら側に顔を寄せた。ライターから煙草に、ゆっくりと炎が移動していく。
なんか、前にもこんなことあったな。そう、親父さんとどこかに行くのは、今回の旅行が初めてではない。初めて出会ったときから、どういう訳だか、俺にちょくちょく絡んでくるのだ。それなのに、自分の娘とはまったく関わろうとしないんだ、この人は。
──ぼけっと思いを巡らせていたら、だんだん眠くなってきた。まずい。ここで寝るわけにはいかない。眠気を紛らわせなくては……。
──気付くと俺は布団で寝ていた。昨夜の記憶が曖昧だ。バーに行ったところまでは覚えているのだが。その後、どうやって部屋まで帰ったのだろうか?
「おはよう」
「えっ」
信じられないことに、もう朝らしい。親父さんはとっくに起きていたみたいだ。優雅に新聞を読んでいる。……というか、だんだん思い出してきたぞ。バーに行って、酒を飲んで、眠くなってきて、寝ちゃいけないと思って、それで、変なことを口走ったような……。
「あの……俺、昨日の夜なんか変なこと言ってませんでした?」
「……ああ、別に。大したことじゃないよ」
恐々と聞いてみると、にまにまと笑いながら含みのある返事をされた。……おぼろげにしか思い出せないが、変なことを言ってしまった事実だけはハッキリした。
普段は無表情の癖に! きっと俺の反応を見て楽しんでいるに違いない。なんて意地が悪いんだ。恥ずかしくて、言葉にならない叫び声が出る。我ながら惨めである。
「すいません、忘れてくださいお願いします」
「何を?」
すっとぼけるな! 最悪だ。俺は何を口走ってしまったんだろうか? とにかく、この件は永久に闇に葬り去ることに決めた。
朝食が部屋に用意される前に簡単に身支度を整える。浴衣で就寝すると毎回着崩してしまうのだが、どうやったら綺麗な状態を保つことができるのだろうか。
そして今、目の前には絵に描いたような純和風の朝食が並べられている。白米、汁物、魚の干物、菜っ葉のお浸し、納豆、漬物などなど。白米はおかわりも自由らしい。朝っぱらからなかなかの量だ。親父さんが納豆を抑揚のない箸捌きで混ぜている。納豆とか、食うんだ……。半分は日本の血が流れているのだし、なんら不思議ではないはずなのだが。
男の俺から見ても、親父さんは美しい生き物ではある。美しい生き物が生活臭丸出しの物体を口に運んでいる様はシュールだ。リン子に限って言えば、そのギャップも好ましく思えるのになあ。
一泊だけだったので、この旅館ともお別れだ。なんだかんだ名残惜しい気すらする。チェックアウトするとき、手持ちの金を親父さんに渡そうとしたら断られた。やはりな。でも、一応は払う素振りだけでも見せるのが礼儀というものだろう。
昨夜の雪は一瞬のことで交通状況に支障はないようだ。帰りの新幹線に乗るまでにはまだ少し時間がある。それまでの間、親父さんの提案で、美術館に行くことになった。
美術館には主に現代美術作品がコレクションされているようだ。館内だけでなく館外にも意味不明なオブジェが展示されていた。現代美術ってのは、どうしてこう前衛的なのだろうか? 俺は美術に知見がある訳じゃないが、いわゆる古典美術の方がまだ理解できる気がする。
親父さんの手前、神妙な面持ちで鑑賞するのだが、内心では退屈であった。いつもと変わらないポーカーフェイスで黙ったまま、親父さんは作品をじっと見つめている。やはり教養のある人にはわかるものなのだろうか? などと思っているところに、親父さんは一言こう呟いた。
「……さっぱりわからんな」
「やっぱ、そう思います?」
俺だけじゃなかったのか、ホッとする。
とはいえ、せっかく来たので俺たちは館内を見て回った。なんで中庭にプールがあるんだろうと思っていたら、作品だった。館内から作品の中に入ると、一面が水色の壁だ。ガラス張りの天井に水が入っていて、外から見るとプールに見えるという仕掛けらしい。プール用のタラップや排水溝までついている。中から見ても、光の波が反射して、まるでプールの底にいるかのような不思議な空間になっていた。この作品だけ人が妙に集まっているような気がする。確かに、この作品はちょっと面白いと思う。
「写真、撮ろうか? なんとか映えってやつ」
ああ、若い女子が多いのはそのせいか。何故か、雰囲気に流されて、撮ってもらうことになってしまった。というか男一人で撮るやつなのか、これ。親父さんが撮ってくれた写真の中には微妙な半笑いで写る俺の姿があった。うわあ、酷いな。しかも、俺がデカいせいで頭をぶつけかねなかったので、ただタラップに両手を添えただけで、カメラ目線で棒立ち状態である。全くプールの底にいる感じが出ていない。
「よく撮れてるよ」
嘘つけ。と思ったけど、この写真はしばらく俺のSNSのアイコンになった。この写り映えのなさが逆にウケたからだ。俺たちは早々に芸術鑑賞を切り上げて、館内のレストランで適当に過ごすことにした。
そんなこんなで、もう新幹線に乗る時間も近づいて、金沢駅に向かう。最後に駅構内の土産屋で家族や友人の土産を買った。例によって、親父さんは何も買わなかった。リン子にくらい買ったらどうなんだとも思うのだが……。また、長い移動時間の始まりだ。しかし、帰りの移動時間というのは行きの時間より早く感じるのはどうしてなんだろう。もう長野じゃないか。
隣には寝息を立てる親父さんの姿があった。疲れているのだろう。そういえば、狸寝入りじゃなく、この人が寝ているのを見るのはこれが初めてだ。本当に、この人も人の子なんだなあ。俺は親父さんのことを人間だと思っていない節がある。だから、こっそり写真を撮っておいた。(終)




