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第4話:王太子、下町での屈辱と再会

 王都の夜は更けても、下町の片隅にある「黄金の泡亭」だけは、魔石灯の光と野太い笑い声に包まれていた。

カウンターの特等席には、もはや風景の一部と化した騎士団長カイルの姿がある。彼は鎧を脱ぎ捨て、上質なリネンシャツの袖を捲り上げ、三杯目のラガーを慈しむように喉に流し込んでいた。

「……ふぅ。レオノーラ、今日のホップの配合は、昨日よりわずかにエステル香が強いな。南方の気候の影響か?」

「あら、よくお分かりで。騎士団長様も、ようやく『わたくしの次元』に近づいてこられましたわね」

レオノーラが不敵に微笑みながら、サーバーを磨いていたその時。

店の扉が、おずおずと、それでいて不快な音を立てて開いた。

入ってきたのは、顔を深くフードで隠した男女の二人組。

男は周囲の喧騒に眉を潜め、女はハンカチで鼻を押さえながら、汚物を見るような目で店内を見渡している。

「……ここか。騎士たちがこぞって通い詰めているという、怪しげな店は」

低く、聞き覚えのある声。

レオノーラの動きが止まる。だが、それは驚きからではない。「不純物が混じった」ことへの不快感によるものだった。

「ごめんあそばせ。当店は、香りの違いがわかるお客様のみを歓迎しておりますの。鼻を塞いでいるようなレディには、お冷やさえ勿体ないわ」

「なっ……! 貴女、私を誰だと思って……!」

女がフードを跳ね除けた。現れたのは、男爵令嬢リリア。

そして隣の男もフードを取る。王太子、エリックであった。

店内の空気が一瞬で凍りつく。

人足たちが「王太子殿下!?」と椅子から転げ落ちそうになる中、ただ一人、カイルだけはジョッキを離さず、背中で語った。

「……帰れ、エリック」

「カ、カイル!? 貴様、騎士団長の職務を放り出して、こんな掃き溜めで……!」

エリックが絶句する。王国の盾たる男が、下町の安酒場で、あろうことか追放したはずのレオノーラと親しげに語らっている。その光景は、エリックの理解の範疇を超えていた。

「職務なら果たしている。……ここには、王宮には存在しない『真実』があるからな」

カイルは、エリックを振り返りもしない。

その態度は、上司に対する不敬というより、**「最高の酒を邪魔された常連の怒り」**に近いものだった。

「レオノーラ! 貴様、カイルにまで何か毒を盛ったのか! 貴様のような卑劣な女が作る酒など、どうせ悪臭のする汚水だろう!」

エリックがカウンターを叩く。

レオノーラは、ゆっくりと、優雅に、氷のように冷たい視線をエリックに向けた。

「汚水……。今、そうおっしゃいましたわね? 殿下」

レオノーラの背後に、巨大な「麦の穂のオーラ」が立ち昇る。

彼女にとって、自分の人格を否定されるのはどうでもいい。だが、自分が魂を込めた「黄金」を侮辱されることだけは、万死に値する。

「いいでしょう。そこまでおっしゃるなら、飲ませて差し上げますわ。……ただし、代償は高くつきますことよ?」

レオノーラは無言で、サーバーに向かった。

極限まで冷却されたジョッキ。

完璧に計算された流速。

そして、注ぎ終わる瞬間に、彼女の魔力が「炭酸の粒子」を完璧に整列させる。

「お飲みなさい。わたくしが下町で掴み取った、『本物』の苦味を」

ドン、とカウンターに置かれたジョッキ。

そこには、王宮の銀杯では決して再現できない、暴力的なまでに美しい黄金が揺れていた。

「ふん、飲んでやろう。そして貴様の化けの皮を剥いで……」

エリックは苛立ち紛れにジョッキを掴み、一気に煽った。

「……っ!?」

衝撃が、彼の脳髄を貫いた。

喉を通る瞬間、鋭い冷気が食道を駆け抜け、同時に複雑で重厚なホップの苦味が、彼の舌の細胞一つ一つを覚醒させていく。

甘みはない。だが、麦の圧倒的な「生命力」がそこにある。

今まで飲んでいた酒が、泥水に思えるほどの洗浄感。

(な、なんだ……これは……!? 喉が、喉が歓喜している……!?)

エリックの手が震える。

リリアが淹れる、あの甘ったるい、砂糖を溶かしたような酒。

あれを飲んだ後に感じる、あの不快なベタつきが、この一杯ですべて「無」に帰していく。

「どうした、エリック。声も出ないか?」

カイルが、ようやく振り向いて薄く笑った。

「それが、貴様が捨てたものの『価値』だ。貴様は、王国最高の宝を、自分の無知ゆえに下町へ投げ捨てたのだ」

「ち、違う! これは……これは、魔法か何かの細工だ! 認めん、私は認めんぞ!」

エリックはジョッキを空にしたまま、顔を真っ赤にして叫んだ。

だが、その瞳は潤んでいる。喉が、もっと、もっとその苦味を欲して、卑しくも鳴っている。

「エリック様ぁ! そんな汚いもの、早く置いて帰りましょう! 私がもっと、甘くて素敵なジュースを作ってあげますからぁ!」

リリアが腕を引く。

だが、今のエリックにとって、その「甘さ」という言葉は、呪縛のように重く、不快に響いた。

「……うるさい! 離せ、リリア!」

「えっ……?」

エリックは、自分でも驚くような大声を出した。

彼はレオノーラを睨みつける。だが、その視線はどこか泳いでいた。

「レオノーラ……。貴様、卑怯だぞ。こんな……こんなものを、なぜ王宮にいた時に出さなかった……!」

「出していましたわよ。貴方が、リリア様の鼻につく香水のような酒に現を抜かして、わたくしのグラスを見ようともしなかっただけですわ」

レオノーラは、扇子で口元を隠し、冷徹に告げた。

「殿下。貴方の喉は、もう手遅れですわ。一度『本物』を知った舌は、二度と偽物の甘みでは満足できません。……さあ、お帰りなさい。その『甘い地獄』へ」

「くっ……! 覚えていろ! こんな店、すぐに取り潰して……!」

「……できると思っているのか? 王太子の独断で、騎士団の心の拠り所を」

カイルが低く、脅すように言った。

背後の騎士たちも、静かに立ち上がる。その眼光は、「俺たちの聖域ビヤホールに手を出す奴は、王太子でも許さない」という殺気に満ちていた。

エリックは、屈辱と、そして名残惜しそうに空のジョッキを一瞥し、逃げるように店を飛び出していった。

静寂が戻った店内に、レオノーラのため息が響く。

「……ふぅ。炭酸が抜けるような、騒がしい男ですわね」

「全くだ。……だがレオノーラ、あいつはまた来るぞ。……あの喉の震え方は、中毒者のそれだ」

カイルが予言するように言った。

レオノーラは、新しいジョッキを手に取り、自分用に黄金を注ぐ。

「構いませんわ。わたくしの苦味に屈して、膝をつくなら、客として扱ってあげてもよろしくてよ?」

彼女は、キンキンに冷えたジョッキを掲げた。

その瞳には、すでに次の「標的」が映っている。

「……さて。次は、王宮で泣いているであろう『聖女様』でも、この泡で救済して差し上げましょうかしら?」

悪役令嬢の野望は、麦の香りと共に、夜の街へと広がっていく。

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