第3話:騎士団長、喉越しに屈する
下町の酒場「黄金の泡亭」に、金属の擦れる音が冷たく響いた。
扉の前に立つのは、王国騎士団の最高責任者カイル・フォン・ブラウベルト。その威圧感に、先ほどまで騒いでいた人足たちが一瞬で静まり返る。
だが、カウンターの中でジョッキを磨くレオノーラは、眉一つ動かさなかった。
「……あら、鋼鉄の騎士様。ここは迷子を保護する施設ではなくてよ?」
「冗談はやめろ、レオノーラ。……いや、今は店主だったか」
カイルは無駄のない動作でカウンターに歩み寄り、空いている椅子に腰を下ろした。鎧の重みが椅子を軋ませる。
「王宮では、貴女が『毒』を振る舞い、男たちを洗脳しているという噂まで出ている。治安維持の責任者として、その中身を確認させてもらう」
「毒? 心外ですわね」
レオノーラは、磨き上げたばかりのジョッキを光にかざした。
「わたくしが供しているのは『救済』ですわ。騎士団長様、貴方も喉を焼くような虚偽の礼儀作法に、お疲れではありませんこと?」
「理屈はいい。……まずは一杯出せ。貴女の言う『救済』とやらを検分してやろう」
カイルの目は、レオノーラを試すような鋭さを秘めていた。
レオノーラは不敵に微笑むと、淀みのない動作でサーバーのレバーを倒した。
シュワァ……ッ。
繊細な音。泡が雪のように降り積もり、その下で黄金色の液体が美しい渦を描く。
彼女は、カイルの目の前にジョッキを「置く」のではない。「差し出した」のだ。最短距離で、最高に輝く角度で。
カイルはそれを一瞥し、鼻を近づけた。
「……ホップの苦味が強すぎる。香りは華やかだが、これでは一般の客には受けまい。刺激が強すぎて、料理の味を殺す」
カイルの冷静な分析。それは、王宮で長年「無難で優雅な酒」を嗜んできた者の正論だった。
「お言葉ですが、騎士団長様。それは未熟な舌への配慮ではなく、単なる『妥協』ですわ」
レオノーラはカウンター越しに身を乗り出し、カイルの瞳を至近距離で覗き込んだ。
「民を甘やかすのが騎士の務めとおっしゃるの? 真の強者は、この苦味の先にある『透明な静寂』を理解するはずです。貴方のその鋼鉄の鎧、中身まで錆びついているわけではありませんでしょう?」
「……。挑発か」
「テイスティングですわ。……さあ、どうぞ。騎士の誇りに賭けて、正当な評価を」
カイルは黙ってジョッキを掴んだ。
指先から伝わる、魔力冷却による「完璧な零度」。
彼は迷いなく、その液体を喉に流し込んだ。
——爆発。
口に含んだ瞬間、柑橘類を思わせる鋭い香りが鼻腔を突き抜け、直後に暴力的なまでの苦味が舌の上を支配した。
だが、その苦味は不快ではない。重厚な麦の旨味がそれを下支えし、喉を通る瞬間に、すべてが「消えた」のだ。
後味がない。
ただ、冷涼な風が駆け抜けたような清涼感だけが残る。
(なんだ、これは……!?)
カイルの脳裏に、かつて戦場で見た「暁の雪原」が浮かんだ。
凍てつくような冷たさの中に、確かな生の息吹がある。
王宮の酒が「飾られた花」だとしたら、これは「剥き出しの刃」だ。
「……っ、ふぅ……」
カイルはジョッキを置いた。
その表情は、先ほどの厳格なものとは一変し、どこか憑き物が落ちたような呆然としたものになっていた。
「どうかしら? 騎士団長様の高潔な喉には、少々刺激が強すぎまして?」
レオノーラの勝ち誇ったような声。
だが、彼女は気づいた。カイルがジョッキを持つ手が、微かに震えていることに。
カイルはゆっくりと顔を上げた。その瞳には、レオノーラへの敵意も疑念も消えていた。
「……負けだ」
「あら、意外に早いですのね」
「認めざるを得ない。……私は今まで、酒を『喉を潤す道具』としか思っていなかった。だが、これは違う。……これは、『規律』だ。一滴の乱れもない温度管理、計算し尽くされた泡の比率。……レオノーラ、貴女はただ下町で酒を売っているのではない。戦っているのだな」
カイルは椅子から立ち上がると、衆人環視の中で、静かに右手を胸に当て、頭を垂れた。それは騎士が、主君や尊敬すべき強者に対してのみ行う礼だった。
「このカイル・フォン・ブラウベルト、貴殿の技術に敬意を表する。……そして、願わくば」
カイルの声が、少しだけ低くなる。
「……もう一杯、頼めるだろうか。今度は『客』として」
その瞬間、レオノーラはいつもの「悪役令嬢スマイル」ではなく、一瞬だけ、職人としての誇りに満ちた、少女のような本気の笑みを浮かべた。
「ええ、喜んで。……ただし、ツケ払いは厳禁ですわよ。騎士団長様?」
背後では、その光景を見ていた下町の男たちが「団長が落ちたぞー!」と野次を飛ばし、再び宴が始まった。
こうして、レオノーラの元に、王国最強の「用心棒(兼・重課金常連客)」が加わったのである。




