第2話:王太子、初めて知る「本物の苦味」
レオノーラ・フォン・グランツェルが追放されてから、一週間。
王立宮殿の食堂には、どんよりとした空気が停滞していた。
「……何だ、これは」
王太子エリックが、目の前の銀杯を睨みつけて唸った。
中に入っているのは、彼が愛してやまないはずの、リリアが淹れた「特製フルーツ麦酒」である。
「エリック様ぁ、元気がないみたいでしたので、イチゴと蜂蜜をたっぷり入れて甘くしておきましたわ! 苦いのはお薬みたいで嫌いですものね?」
リリアが可憐に微笑む。だが、エリックの顔は引き攣っていた。
一口飲めば、喉が焼けるような甘さが襲いかかってくる。麦の香りは死に絶え、ホップの苦味は見る影もない。それはもはや酒ではなく、ただの「温いシロップの炭酸割り」だった。
「リリア……。彩りは綺麗だが、これは……その、炭酸が完全に抜けているのではないか?」
「ええっ? 泡がパチパチすると、お口が痛いですわ。だから、よくかき混ぜておきましたの!」
「…………」
エリックは絶句した。
かつてレオノーラがいた頃、王宮の酒は常に完璧だった。
彼女は「公爵令嬢の嗜み」と称して、魔導冷却装置の魔石を自ら調整し、グラスの表面に結露が一点つくか付かないかの絶妙な温度を維持していた。
彼女が注ぐ麦酒には、常に指二本分の、きめ細やかで弾力のある泡が乗っていた。それはまるで、黄金の海に浮かぶ純白の雲のようだった。
『殿下、泡は蓋ですわ。これがない麦酒は、魂の抜けた肉体と同じ。……あ、失礼。殿下には少し難しい話でしたかしら?』
あの頃は、その傲岸不遜な態度が鼻についた。だが今、エリックの喉は、砂漠のように乾いている。あの「喉を洗うような鋭い苦味」が、どうしようもなく恋しい。
「……っ。もういい、下がれ! 私は公務に戻る!」
エリックは席を立ち、逃げるように食堂を後にした。
一方、王宮の治安維持を担う騎士団の屯所でも、深刻な事態が発生していた。
「隊長……やってられませんぜ。昨日の夜会で出された酒、見ましたか?」
一人の騎士が、溜息をつきながら言った。
騎士団長カイル・フォン・ブラウベルトは、鋭い眼光で部下を見据える。彼は「鋼鉄の規律」と呼ばれるほど厳格な男であり、同時に王宮一の酒通としても知られていた。
「ああ。レオノーラ嬢が去ってからというもの、給仕たちの気が緩みすぎている」
「緩むどころじゃありませんよ。樽の洗浄も適当、温度は常温。あんな『腐った麦の水』を飲まされたんじゃ、魔物討伐の士気に関わります。レオノーラ嬢がいた時は……彼女、夜会の裏側で給仕を怒鳴り散らしてましたからね。『このグラスの油膜は何!? 泡を殺す気!? 貴方の首を飛ばす前に、この気泡を整えなさい!』って。……正直、怖かったですけど、あの人が管理してた酒は……最高だった」
カイルは黙って、自分の手元の杯を見つめた。
空だ。飲む気が起きないのだ。
「……最近、王都の地下街で奇妙な噂が流れているのを知っているか?」
カイルが低い声で切り出した。
「地下街? いえ、詳しくは……」
「『氷の女神』が降臨した、という噂だ。潰れかけの酒場を根城にし、傲慢な態度で客を罵倒しながら、神の如き麦酒を振る舞う女がいるらしい。その女がジョッキを掲げると、安酒場の古びた樽から、王宮のそれよりも美しい黄金が溢れ出すのだと」
「まさか……」
「その女は、客が温い酒を飲もうとすると、ジョッキを奪い取って床にぶちまけ、『温度を引き出せない無能は、泥水でもすすっていなさい!』と叫ぶそうだ」
騎士たちの間に、戦慄と、そして奇妙な期待が走った。
その過激な作法。その異常なまでのこだわり。
心当たりがありすぎる。
「隊長。……調査が必要ですね」
一人の騎士が、真剣な顔で言った。
「ああ。治安維持の観点から、その『氷の女神』の正体を突き止める必要がある。……今夜、非番の者を数名連れて、その酒場へ向かう」
カイルは立ち上がり、腰の剣を整えた。その目は、獲物を追う猛獣のそれではなく、極上の喉越しを追い求める求道者の輝きを宿していた。
その頃。下町の酒場「黄金の泡亭」。
「ちょっと、そこの貴方! その喉の鳴らし方は何!? 飲み込む瞬間に鼻から抜ける香りを、もっと意識なさい! 貴方の鼻は飾りですの!?」
レオノーラは、カウンターに座る屈強な人足の胸ぐらを掴んでいた。
「ひ、ひえぇ! すんません姐さん! でもこれ、旨すぎて一気にいっちゃうんです!」
「言い訳は不要ですわ! 麦酒との対話は、一期一会。さあ、もう一杯注いで差し上げますから、次はホップの苦味が舌の奥を愛撫する感覚を、詩的に表現なさい!」
レオノーラが完璧なフォームでサーバーのレバーを引く。
そこには、王宮で出されていたものとは一線を画す、彼女が下町で見つけた「野生の酵母」と「魔力冷却」を融合させた、究極のラガーが輝いていた。
「……ああ、ホップが。ホップの精霊が、わたくしの脳内でワルツを踊っていますわ……」
頬を赤らめ、うっとりと自らの作品を見つめるレオノーラ。
その後ろでは、すっかり「洗脳」された下町の男たちが、完璧な角度でジョッキを傾け、一糸乱れぬ動きで喉を鳴らしていた。
「「「ぷはーっ! 姐さん、最高っす!!」」」
その怒号のような歓声が響く店内に、重厚な足音が近づいてくる。
扉が開いた。
そこに立っていたのは、フル装備の騎士団長、カイルであった。
「……ここか。鼻をつくホップの香りが、表まで漏れ出しているぞ」
レオノーラは、ジョッキを片手に持ったまま、優雅に振り返った。
「あら。迷子の騎士様かしら? それとも……わたくしの『黄金』に、魂を売りに来たのかしら?」
レオノーラとカイル。
視線がぶつかり、火花が散る。……いや、散ったのは、ジョッキから溢れた冷たい飛沫だった。
執筆してて楽しいですね。




