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第1話:温い断罪と、完璧なる泡

 グランツェル公爵家の長女、レオノーラ・フォン・グランツェルは、その美しさゆえに「氷の薔薇」と称えられていた。

夜会のシャンデリアが放つ光を、プラチナブロンドの髪が繊細に跳ね返す。扇子を口元に添え、伏せられた睫毛の先には、近寄りがたいほどの気品が宿っていた。

だが、彼女の脳内は今、別の「黄金」で占められていた。

(……この会場の空気、炭酸ガスの内圧を感じますわ。不穏な気配……いいえ、これは発酵の予感かしら?)

レオノーラの視線は、王太子エリックと、その隣でか弱く震える男爵令嬢リリアに注がれている。

周囲の貴族たちは息を呑み、これから始まるであろう「悲劇」を予感して身を固くしていた。レオノーラによるリリアへの嫌がらせ——という、ありもしない噂に終止符が打たれる瞬間だ。

「レオノーラ・フォン・グランツェル!」

会場に響き渡る、王太子の怒声。

オーケストラの演奏が止まり、静寂が広がる。エリックは指を突きつけ、レオノーラを断罪した。

「貴様のような冷酷な女は、わが国の国母にはふさわしくない! 弱きリリアを虐げ、嫉妬に狂うその醜悪な心……本日この時をもって、貴様との婚約を破棄する!」

ざわ……と会場が揺れる。

「ついに来たか」「公爵令嬢も終わりだな」という囁き。リリアは勝ち誇ったような笑みを一瞬だけ見せ、エリックの腕に縋り付いた。

だが、レオノーラは動じない。

彼女の視線は、エリックの背後に置かれた長机——給仕たちが酒を並べるテーブル——に固定されていた。

「……そうですの」

レオノーラが口を開く。その声は、鈴を転がすように澄んでいながら、どこか遠い世界を見つめているようだった。

「では、エリック殿下。婚約破棄の成立を祝して、まずは乾杯をなさいませんか?」

「はあ!?」

エリックが素っ頓狂な声を上げた。

婚約破棄を突きつけられ、社交界から追放されようという瀬戸際で、乾杯。狂ったか、あるいはあまりのショックで現実逃避を始めたか。

「ふん、往生際が悪いぞ。だがいいだろう。貴様との腐れ縁が切れるのだ、これほど祝杯にふさわしい時もあるまい!」

エリックが顎で給仕に合図する。

運ばれてきたのは、王室御用達の銀の杯。中には最高級の赤ワインが注がれて——。

「結構ですわ、それは。わたくし、自分で選びますもの」

レオノーラは優雅な足取りで、長机へと歩み寄った。

並んでいるのは、貴族好みの甘い果実酒や、格式高いワインばかり。だが、レオノーラはその奥、目立たない場所に置かれた、給仕たちが喉を潤すための「樽」を見逃さなかった。

彼女は迷わず、近くにあった大型のガラス製ジョッキを掴んだ。

洗練された公爵令嬢が、まるで戦場に赴く騎士のような手捌きで、樽の栓を回す。

トットットッ……。

黄金色の液体が注がれ、その上に真っ白な泡が盛り上がっていく。

レオノーラはその光景を、恋人を見つめるような熱っぽい瞳で凝視していた。

「レオノーラ、何をしている! それは下賤な平民が飲む麦酒ビールではないか!」

エリックの罵倒を、レオノーラは左手で制した。

彼女はジョッキの側面を指先でなぞり、その感触を確かめる。そして、眉をピクリと動かした。

「……殿下。この会場の温度管理、そしてこの麦酒の保存状態。万死に値しますわ」

「……何だと?」

「見てご覧なさい。この泡のキメ。本来であれば『エンジェルリング』が刻まれるべき気泡の密度が、この室温のせいで0.5ミリ秒早く弾けております。さらに言えば、このホップの香りの立ち方……。これはおそらく、北方のシュタイン地方で採れたセイズホップでしょう? ですが、乾燥の工程でわずかに熱を加えすぎている。苦味の奥に、本来あるべきではない雑味が、まるで王太子の浮気心のように混じっておりますわ」

レオノーラは一気にまくし立てた。

その言葉の鋭さと専門性に、周囲の貴族たちは圧倒され、ポカンと口を開けている。

彼女はジョッキを持ち上げ、シャンデリアの光にかざした。

液体は濁り、泡は力なく消えかかっている。

「そして何より……」

レオノーラは、一口、その黄金を喉に流し込んだ。

ドレスの胸元が、美しく上下する。喉を鳴らすその音さえ、洗練された礼儀作法マナーの延長線上にあるかのように。

そして、彼女はジョッキをテーブルに叩きつけた。

ぬるい」

その一言は、王太子の婚約破棄宣言よりも遥かに重く、冷たく響いた。

「この麦酒は、まるで貴方の情熱と同じ。表面だけは泡立っておりますが、芯が抜けておりますわ。このような泥水を飲まされるくらいならば、わたくし、修道院の地下室で自家醸造に励んだ方がマシですこと」

「き、貴様ぁ! 王室の酒を泥水呼ばわりするとは……!」

「事実を申したまでですわ。殿下、そしてリリア様。お幸せに。甘いワインに砂糖を溶かしたような、反吐の出るような甘い生活をお送りになってはいかが? 苦味を知らぬ貴方様方には、お似合いですわよ」

レオノーラは完璧なカーテシーを見せた。

背筋を伸ばし、一分の隙もない美しさで。

「わたくしは決めましたわ。この国の酒文化は、腐敗しております。麦芽の嘆きが聞こえませんか? ホップの絶叫が届きませんか? ……いいえ、殿下には無理でしょうね。わたくし、これより『真の黄金』を求めて、下界へ降りますわ」

「待て! 衛兵! この狂女を捕らえ……」

「お黙りなさい」

レオノーラがエリックを睨み据える。

その眼圧。まるで炭酸ガスが爆発する直前のような、凄まじいプレッシャー。エリックは思わず二の足を踏んだ。

「婚約は破棄、社交界からも追放。結構ですわ。ですが、わたくしからグランツェル公爵家の資産と、この『舌』を取り上げることはできません。さようなら、温い男。わたくしは、氷点下で冷えた明日を探しに行きますの。……おーほっほっほ!」

高笑いを残し、レオノーラは夜会の会場を後にした。

足取りは軽く、その背中には不思議な解放感が漂っていた。

翌日。

王都の片隅、治安のあまり良くない下町の一角に、一人の美女が立っていた。

泥に汚れてもなお輝く高級ドレスを纏い、片手にはなぜか、マイ・ジョッキが入った革袋。

レオノーラは、看板が傾いた一軒の寂れた酒場を見上げた。

店の前には、中身が半分腐ったような麦の袋が放置されている。

「……なんてこと。ここも、救済が必要なようですわね」

彼女は扉を力いっぱい蹴り開けた。

中には、昼間から安酒を煽る粗野な男たちと、やる気のない店主。

「ごめんあそばせ。今日からここ、わたくしの直轄領にいたしますわ」

「はあ!? なんだこの、お高いお嬢ちゃんは……」

「黙ってこれをお飲みなさい」

レオノーラは、カウンターの中にズカズカと入り込むと、手際よく店の設備を点検し始めた。

不潔なホースを洗浄し、氷魔法(公爵令嬢の嗜み)で樽を急冷する。さらに、懐から取り出した謎の小瓶(厳選されたホップのエキス)を、数滴、グラスに落とした。

数分後。

店主に差し出されたのは、見たこともないほど透明度の高い、クリスタルのような麦酒だった。

「……なんだこれ。泡が、消えねえ……。それに、この香りは……草原か?」

店主が一口飲む。

その瞬間、彼の背後に幻覚が広がった。爽やかな風、麦の実り、そして人生の苦しみさえも包み込むような、完璧な苦味。

「う、うめええええええええ!!」

男たちは、レオノーラの足元に跪いた。

彼女は優雅に椅子に座り、自分の分として注いだジョッキを高く掲げる。

「いいですわね、この反応。やはり、喉越しこそが正義。わたくし、決めましたわ」

彼女の背後に、キラキラとしたエフェクトと共に、麦の穂を持った幼い「ビールの精霊」が姿を現した(レオノーラにしか見えていないが)。

「この下町から、王国を『麦酒』で支配いたしますわ。名付けて……『プロジェクト・ラガー』。さあ、まずはその腐った麦を捨てていらっしゃい。修行の始まりですわよ!」

「「「はい! 姐さん!!!」」」

こうして、歴史に名を残す「麦酒革命」の幕が上がった。

王太子が後悔で血を吐くほど、キンキンに冷えた復讐劇が、今、始まったのである。

レオノーラは一口飲み、幸せそうに頬を染めて呟いた。

「……ぷはー。悪役令嬢、最高ですわ」

ビールと悪役令嬢ってあまり見ないスタイルですよね?

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