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『返済期限のない貸し』

作者: くろめがね
掲載日:2026/01/30

1話完結です。

 金を貸すとき、俺は相手の顔を見ない。

 見るのは、手だ。爪の白さ、指の節、財布の角。生活の癖は手に出る。返す人間の手か、逃げる人間の手か――それだけで八割は当たる。


「……三日。利息は二割」

 俺が言うと、男は頷いた。ありがとうも言わない。言わせない。感謝は返済の邪魔になる。


 帳簿は綺麗だった。貸す、取る、貸す、取る。小さな雨だれが石を削るみたいに、俺の金は増えた。

 増えたところで、使い道はない。金は流せば濁る。溜めれば澄む。俺は澄んだ金が好きだった。


 そんな俺の世界に、余計なものが入ったのは、昼の薄い光が差す裏路地でだ。

 その女は、視界が半分欠けていた。


 正確には、欠けているように見えた。女は歩きながら何度も肩をすくめる。左側の人や物にぶつからないよう、身体が先に避ける癖がついている。

 目を合わせたとき、俺は気づいた。左目の瞳が、どこか遠くを見ている。


「貸して」

 女は言った。声は細いのに、言い切りだけが強い。


「いくら」

「……二十万」

 笑いそうになった。二十万。俺のところへ来る額じゃない。

 普通なら、門前払いだ。二十万を借りに来る奴は、二十万を返せない。


「担保」

「ない」

「保証人」

「いない」

「返済計画」

「……目の手術がしたいの」

 女は言った。言ったあとで、すぐに訂正するみたいに付け足した。

「正確には、検査と手術の“頭金”」


 俺は鼻で笑った。

「病院へ行け。役所へ行け。寄付を集めろ」

「行った」

 女は淡々と言う。

「間に合わないって」

「じゃあ諦めろ」

 俺の言葉はいつも、これで終わる。終わるはずだった。


 女は、俺の顔の左半分を見ないまま言った。

「諦めたくない。左が見えないと、右の景色も半分になるの」

 その言い方が妙に変で、俺は一瞬だけ口が止まった。

 景色。

 金を貸し借りする話に、景色なんて言葉を混ぜるな。


「返せるのか」

「返す。……でも、遅れるかもしれない」

 正直だ。正直すぎる。

 普通は、嘘をつく。「必ず返します」って。返せる奴ほど言わない台詞を。


 俺は女の手を見た。爪は短く、皮膚が荒れている。労働の手だ。借金の手じゃない。

 ただし、金を返す手でもない。


 俺はここで終わらせられた。

 終わらせるのが仕事だ。

 なのに――俺は、財布の角を触ってしまった。


「利息は取る」

「……いくら」

「取らないと俺の金じゃなくなる」

 俺は自分でも意味が分からないことを言い、封筒に札を入れて渡した。

 二十万。

 帳簿に記すとき、数字がやけに軽かった。


「名前」

「……ミナ」

 女は言った。俺の左側を見ないまま。

 俺はそれが、なぜか腹立たしかった。


「次は、俺の左も見ろ」

 女は一瞬きょとんとして、でも小さく頷いた。

「努力する」


 その努力が、俺の人生を狂わせた。



 返済は来なかった。三日後も、一週間後も。

 取り立てに行けばいい。そうすれば終わる。

 なのに俺は、女が「間に合わない」と言った言葉だけが引っかかって、病院の前に立っていた。


 ミナはベンチに座り、書類を抱えていた。

 俺を見つけた瞬間、顔に申し訳なさが浮かぶ。見慣れた表情だ。返せない人間の顔。


「すみません」

 その言葉を、俺は今まで何百回も聞いてきた。

 だけどこの日は、妙に腹が立たなかった。


「……いくら足りない」

 俺が聞くと、ミナは驚いた顔をした。

「え」

「検査と手術の頭金。二十万じゃ足りないんだろ」

「……あと、三十万」

 三十万。

 俺は舌打ちした。自分に対して。


「貸す」

「返せない」

「返せなくていい」

 俺が言うと、ミナは泣きそうな顔になった。

「それ、困る」

「なぜ」

「借りたら返したいから」

 返したい。

 その言葉に、俺の胸のどこかが、ほんの一ミリだけほどけた。


「じゃあ、返したくなったときに返せ」

「そんなの……期限がない」

「期限のない金が一番怖いって? 俺もそう思ってた」

 俺は財布から札を出して、受付の窓口へ押し込んだ。

 金が流れた。濁る。そう思った。

 なのに、濁らなかった。

 俺の中で、何かが妙に澄んだ。


 手術の日、ミナは初めて俺の左側を見た。

 見ようとして、少し首を振って、やっと焦点を合わせた。

「……あなた、案外、優しい顔してる」

 侮辱かと思ったが、なぜか笑ってしまった。


 その笑いが、始まりだった。



 俺は“返ってこない金”の使い方を覚えた。

 最初は自分でも馬鹿げていると思った。だが、帳簿の数字よりも、胸の中の静けさが増えるのが分かった。


 潰れそうな保育園があると聞けば、行った。

 園長は、目の下にクマを作った女性だった。

「今月の給食費が……」

 俺は黙って封筒を置いた。

「貸す。利息は……」

 言いかけて、やめた。

 利息をつけた瞬間、これはいつもの俺の金になってしまう。


「返済はいい」

「そんな……」

「代わりに」

 俺は言った。

「子どもに、俺の名前を教えるな」

 園長はぽかんとしたあと、笑った。

「それ、いちばん難しい条件かもしれません」


 経営が下手くそな農家にも行った。

 畑は広いのに、道具が古い。

 男は言った。

「肥料の買い方が分からん。去年の勘でやってる」

 俺は黒板もチョークもないのに、地面に棒で図を書いた。

 金の流れ。作物の時期。保管。売り先。

「貸すんじゃない」

 俺は言った。

「これは“あなたの畑の未来”に置く金だ。返す必要はない。代わりに、来年、勘じゃなく数字でやれ」

 農家の男は、泣くか怒るかの顔をして、最後に頭を下げた。

「分かった。……分かったよ」


 気づけば俺の金は減った。

 減ったのに、心は満ちた。

 変な話だ。俺の人生は“取り立てて稼ぐ”ことで成り立っていたのに、取り立てない方が、なぜか息がしやすい。


 ミナが言った。

「あなた、視野が広くなったね」

「俺の目は欠けてない」

「欠けてたよ。お金の形にしか見えない視野」

 言い返せなかった。悔しい。

 悔しいのに、笑えた。



 数年が経った。

 俺は相変わらず金貸しだった。ただし、取り立ての回数は減った。

 返ってくる金が減り、返ってこない金が増えた。

 帳簿は薄くなった。代わりに、家の中が騒がしくなった。


 最初に来たのは、保育園の園長だった。両手に袋を下げている。

「これ、余ったので」

 余った。

 そんな言葉を、あの人が使う日が来るとは。


 次は農家の男が米俵を持ってきた。

「売れ残りじゃないぞ。ちゃんと一番いいやつだ」

「置く場所がない」

「じゃあ、ここに置く」

 男は勝手に玄関へ運び込んだ。


 ミナが笑いながら言った。

「あなた、貸したねえ」

「返ってきてるじゃないか」

「返ってきてるの、お金じゃない」

 確かに。


 ある日、夕方になると、誰かがドアを叩いた。

 開けると、見知らぬ若い母親が立っていた。

「……あの、ここに“お金を貸してくれる人がいる”って」

 俺は反射で言いかけた。

――担保は。

 だが、口から出たのは別の言葉だった。

「何が足りない」

 母親は泣きそうな顔で言った。

「時間が……勇気が……」

 その瞬間、俺は可笑しくなった。

 時間。勇気。

 昔なら笑って追い返した言葉だ。


「入れ」

 俺は言った。

「まず、飯を食え。金の話はそのあとだ」

 母親は目を丸くした。

「え、いいんですか」

「ここは、返済期限のない貸しをする家だ」

 自分で言って、自分で驚いた。そんな看板、いつの間に立てた。


 その夜、家の中に布団が増えた。

 保育園の園長が手早くシーツを広げ、農家の男が米を炊き、ミナが鍋をかき回す。

 俺は台所の隅で、それを見ていた。

 金が人になっていく。

 あの日、ミナの左が欠けていた視野は、今、俺の中で埋まっている。


「なあ」

 農家の男が言った。

「俺ら、いつまでここにいていい」

「知らん」

 俺が言うと、園長が笑った。

「返済期限がないんでしょ」

 ミナが続ける。

「期限がないって、怖い?」

 俺は首を振った。

「怖くない」

 嘘じゃない。


 金は戻ってこなかった。

 でも人が戻ってきた。

 いや、戻ってきたんじゃない。最初から、俺が貸していたのは金じゃなく――誰かの明日だったのかもしれない。


 そのとき、ふと気づいた。

 俺の家は、いつの間にか“返済”で満ちていた。

 札束じゃない。鍋の湯気で、笑い声で、米の匂いで、誰かの「ただいま」で。


 帳簿の最後のページに、俺は一行だけ書いた。

 返済期限:なし。

 利息:――人生が、黒字になる。

ごくごく短編です。

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