『返済期限のない貸し』
1話完結です。
金を貸すとき、俺は相手の顔を見ない。
見るのは、手だ。爪の白さ、指の節、財布の角。生活の癖は手に出る。返す人間の手か、逃げる人間の手か――それだけで八割は当たる。
「……三日。利息は二割」
俺が言うと、男は頷いた。ありがとうも言わない。言わせない。感謝は返済の邪魔になる。
帳簿は綺麗だった。貸す、取る、貸す、取る。小さな雨だれが石を削るみたいに、俺の金は増えた。
増えたところで、使い道はない。金は流せば濁る。溜めれば澄む。俺は澄んだ金が好きだった。
そんな俺の世界に、余計なものが入ったのは、昼の薄い光が差す裏路地でだ。
その女は、視界が半分欠けていた。
正確には、欠けているように見えた。女は歩きながら何度も肩をすくめる。左側の人や物にぶつからないよう、身体が先に避ける癖がついている。
目を合わせたとき、俺は気づいた。左目の瞳が、どこか遠くを見ている。
「貸して」
女は言った。声は細いのに、言い切りだけが強い。
「いくら」
「……二十万」
笑いそうになった。二十万。俺のところへ来る額じゃない。
普通なら、門前払いだ。二十万を借りに来る奴は、二十万を返せない。
「担保」
「ない」
「保証人」
「いない」
「返済計画」
「……目の手術がしたいの」
女は言った。言ったあとで、すぐに訂正するみたいに付け足した。
「正確には、検査と手術の“頭金”」
俺は鼻で笑った。
「病院へ行け。役所へ行け。寄付を集めろ」
「行った」
女は淡々と言う。
「間に合わないって」
「じゃあ諦めろ」
俺の言葉はいつも、これで終わる。終わるはずだった。
女は、俺の顔の左半分を見ないまま言った。
「諦めたくない。左が見えないと、右の景色も半分になるの」
その言い方が妙に変で、俺は一瞬だけ口が止まった。
景色。
金を貸し借りする話に、景色なんて言葉を混ぜるな。
「返せるのか」
「返す。……でも、遅れるかもしれない」
正直だ。正直すぎる。
普通は、嘘をつく。「必ず返します」って。返せる奴ほど言わない台詞を。
俺は女の手を見た。爪は短く、皮膚が荒れている。労働の手だ。借金の手じゃない。
ただし、金を返す手でもない。
俺はここで終わらせられた。
終わらせるのが仕事だ。
なのに――俺は、財布の角を触ってしまった。
「利息は取る」
「……いくら」
「取らないと俺の金じゃなくなる」
俺は自分でも意味が分からないことを言い、封筒に札を入れて渡した。
二十万。
帳簿に記すとき、数字がやけに軽かった。
「名前」
「……ミナ」
女は言った。俺の左側を見ないまま。
俺はそれが、なぜか腹立たしかった。
「次は、俺の左も見ろ」
女は一瞬きょとんとして、でも小さく頷いた。
「努力する」
その努力が、俺の人生を狂わせた。
⸻
返済は来なかった。三日後も、一週間後も。
取り立てに行けばいい。そうすれば終わる。
なのに俺は、女が「間に合わない」と言った言葉だけが引っかかって、病院の前に立っていた。
ミナはベンチに座り、書類を抱えていた。
俺を見つけた瞬間、顔に申し訳なさが浮かぶ。見慣れた表情だ。返せない人間の顔。
「すみません」
その言葉を、俺は今まで何百回も聞いてきた。
だけどこの日は、妙に腹が立たなかった。
「……いくら足りない」
俺が聞くと、ミナは驚いた顔をした。
「え」
「検査と手術の頭金。二十万じゃ足りないんだろ」
「……あと、三十万」
三十万。
俺は舌打ちした。自分に対して。
「貸す」
「返せない」
「返せなくていい」
俺が言うと、ミナは泣きそうな顔になった。
「それ、困る」
「なぜ」
「借りたら返したいから」
返したい。
その言葉に、俺の胸のどこかが、ほんの一ミリだけほどけた。
「じゃあ、返したくなったときに返せ」
「そんなの……期限がない」
「期限のない金が一番怖いって? 俺もそう思ってた」
俺は財布から札を出して、受付の窓口へ押し込んだ。
金が流れた。濁る。そう思った。
なのに、濁らなかった。
俺の中で、何かが妙に澄んだ。
手術の日、ミナは初めて俺の左側を見た。
見ようとして、少し首を振って、やっと焦点を合わせた。
「……あなた、案外、優しい顔してる」
侮辱かと思ったが、なぜか笑ってしまった。
その笑いが、始まりだった。
⸻
俺は“返ってこない金”の使い方を覚えた。
最初は自分でも馬鹿げていると思った。だが、帳簿の数字よりも、胸の中の静けさが増えるのが分かった。
潰れそうな保育園があると聞けば、行った。
園長は、目の下にクマを作った女性だった。
「今月の給食費が……」
俺は黙って封筒を置いた。
「貸す。利息は……」
言いかけて、やめた。
利息をつけた瞬間、これはいつもの俺の金になってしまう。
「返済はいい」
「そんな……」
「代わりに」
俺は言った。
「子どもに、俺の名前を教えるな」
園長はぽかんとしたあと、笑った。
「それ、いちばん難しい条件かもしれません」
経営が下手くそな農家にも行った。
畑は広いのに、道具が古い。
男は言った。
「肥料の買い方が分からん。去年の勘でやってる」
俺は黒板もチョークもないのに、地面に棒で図を書いた。
金の流れ。作物の時期。保管。売り先。
「貸すんじゃない」
俺は言った。
「これは“あなたの畑の未来”に置く金だ。返す必要はない。代わりに、来年、勘じゃなく数字でやれ」
農家の男は、泣くか怒るかの顔をして、最後に頭を下げた。
「分かった。……分かったよ」
気づけば俺の金は減った。
減ったのに、心は満ちた。
変な話だ。俺の人生は“取り立てて稼ぐ”ことで成り立っていたのに、取り立てない方が、なぜか息がしやすい。
ミナが言った。
「あなた、視野が広くなったね」
「俺の目は欠けてない」
「欠けてたよ。お金の形にしか見えない視野」
言い返せなかった。悔しい。
悔しいのに、笑えた。
⸻
数年が経った。
俺は相変わらず金貸しだった。ただし、取り立ての回数は減った。
返ってくる金が減り、返ってこない金が増えた。
帳簿は薄くなった。代わりに、家の中が騒がしくなった。
最初に来たのは、保育園の園長だった。両手に袋を下げている。
「これ、余ったので」
余った。
そんな言葉を、あの人が使う日が来るとは。
次は農家の男が米俵を持ってきた。
「売れ残りじゃないぞ。ちゃんと一番いいやつだ」
「置く場所がない」
「じゃあ、ここに置く」
男は勝手に玄関へ運び込んだ。
ミナが笑いながら言った。
「あなた、貸したねえ」
「返ってきてるじゃないか」
「返ってきてるの、お金じゃない」
確かに。
ある日、夕方になると、誰かがドアを叩いた。
開けると、見知らぬ若い母親が立っていた。
「……あの、ここに“お金を貸してくれる人がいる”って」
俺は反射で言いかけた。
――担保は。
だが、口から出たのは別の言葉だった。
「何が足りない」
母親は泣きそうな顔で言った。
「時間が……勇気が……」
その瞬間、俺は可笑しくなった。
時間。勇気。
昔なら笑って追い返した言葉だ。
「入れ」
俺は言った。
「まず、飯を食え。金の話はそのあとだ」
母親は目を丸くした。
「え、いいんですか」
「ここは、返済期限のない貸しをする家だ」
自分で言って、自分で驚いた。そんな看板、いつの間に立てた。
その夜、家の中に布団が増えた。
保育園の園長が手早くシーツを広げ、農家の男が米を炊き、ミナが鍋をかき回す。
俺は台所の隅で、それを見ていた。
金が人になっていく。
あの日、ミナの左が欠けていた視野は、今、俺の中で埋まっている。
「なあ」
農家の男が言った。
「俺ら、いつまでここにいていい」
「知らん」
俺が言うと、園長が笑った。
「返済期限がないんでしょ」
ミナが続ける。
「期限がないって、怖い?」
俺は首を振った。
「怖くない」
嘘じゃない。
金は戻ってこなかった。
でも人が戻ってきた。
いや、戻ってきたんじゃない。最初から、俺が貸していたのは金じゃなく――誰かの明日だったのかもしれない。
そのとき、ふと気づいた。
俺の家は、いつの間にか“返済”で満ちていた。
札束じゃない。鍋の湯気で、笑い声で、米の匂いで、誰かの「ただいま」で。
帳簿の最後のページに、俺は一行だけ書いた。
返済期限:なし。
利息:――人生が、黒字になる。
ごくごく短編です。




