この物件が事故物件と呼ばれるに至るまでの記録
大家は、こう言った。
家賃も安くて、駅にも近くて。
少し古いけれど、管理はきちんとしていたはずなんです。
それなのに、たった一人亡くなっただけで、事故物件だなんて呼ばれるようになる。
本当に、やりきれない話ですよ。
――これは、この物件が事故物件と呼ばれるに至るまでの記録である。
三月。
この部屋に住み始めて、もうすぐ一ヶ月になる。
日当たりは悪くないし、壁紙もまだ我慢できる程度に白い。
何より家賃が安かった。駅からも近い。多少古いくらいで文句を言う理由はなかった。
ただ一つ、想定していなかったのは、この部屋に引っ越してから、恋人との間に少しずつ歪みが生まれていったことだ。
通勤時間が変わったこと。
家賃を抑えた分、生活費の配分が変わったこと。
ワンルームに近い間取りで、逃げ場がなくなったこと。
どれも決定的ではないのに、積み重なっていった。
「だから違うって言ってんだろ!」
恋人の声が、リビングに響く。
この部屋は、思っていたよりも音が反響した。
彼はいつも、語尾を強く切った。
「何回同じ話すれば気が済むんだよ!」
引っ越しをしてから、喧嘩の回数は明らかに増えた。
最初は家具の配置や生活音のことだったはずなのに、いつの間にか、何を言い合っているのかすら分からなくなる。
自分でも、どうしてあんなに声が大きくなってしまうのか分からなかった。
四月。
友達が遊びに来た。
久しぶりに会った彼女は、私の顔を見るなり言った。
「疲れてない?」
「まあね」
私は、いつものように愚痴をこぼした。
恋人が怒鳴ること、物に当たること、最近は手が出そうになること。
「それ、危ないよ」
彼女は真剣な顔で言った。
私は笑って流したけれど、内心では同じことを考えていた。
――このままだと、いつか殺されるかもしれない。
五月。
妹が泊まりに来た夜、また喧嘩になった。
声が大きくなり、空気が張り詰める。
「ちょっと、落ち着きなよ」
妹がそう言った瞬間、恋人が睨み返した。
その目を見て、妹はそれ以上何も言わなかった。
後で、妹は小さな声で言った。
「……あの人、怖いよ」
私は何も答えられなかった。
六月。
家電が壊れて、修理業者が来た。
作業の最中にも、私たちは口論をしていた。
「もう少し静かにしてもらえますか」
業者は困ったように笑っていた。
その言葉が、なぜか胸に引っかかった。
七月。
夜になると、眠れなくなった。
怒鳴り声が頭の中で反響する。
この部屋は、思っていたよりも音が響く。
八月。
ある日、ポストに一枚の紙が入っていた。
〈騒音についてのお願い〉
印刷された簡素な文面で、夜間の話し声や物音について注意が書かれていた。部屋番号は書かれていない。けれど、この階で、そんなに頻繁に声を出しているのは、うちしか思い当たらなかった。
「見て、これ」
私が紙を差し出すと、恋人は鼻で笑った。
「隣の生活音だろ。こっちじゃないって」
そう言いながらも、彼はその紙を丸めてゴミ箱に投げた。
その夜、喧嘩になった。
「もう少し声抑えられない?」
「は? 俺のせい?」
言い合いは、いつもより激しくなった。
壁が近くて、声が跳ね返ってくる気がした。
九月。
夜、インターホンが鳴る。
ドア越しに聞こえたのは、低く抑えた声だった。
「すみません……ちょっと、音が」
隣の部屋の人だと名乗られた。
私は何度も謝った。
「すみません、本当に……」
背後で、恋人が舌打ちをしたのが分かった。
ドアが閉まったあと、彼は苛立ったように言った。
「だから言っただろ。こんな部屋、壁薄すぎるんだよ」
私は何も言えなかった。
悪いのは自分たちだと思いながらも、どこかで、この部屋のせいにしたい気持ちもあった。
十月。
私は、この部屋で殺された。
「いい加減にしろ」
すぐ近くで、短く息を吸う音がした。
「うるさい」
低い声だった。
肩を強く掴まれる。
驚くほど力が強くて、体が傾いた。
「うるさい」
頬に衝撃が走る。
視界が歪み、耳鳴りがした。
「うるさい、うるさい、うるさい」
言葉と一緒に、何度も。
硬いものが、頭に、顔に、叩きつけられる。
床に倒れた。
息をしようとしても、うまく吸えない。
声が、まだ聞こえていた。
「うるさい」
それが、最後だった。
発見されたのは翌朝だった。
私はもう、この部屋の住人ではなくなっていた。
噂はすぐに広がった。
恋人が疑われ、友達の名前も挙がった。
大声の喧嘩、頻繁な出入り。理由はいくらでもあった。
真実がどうだったのかは、重要ではない。
人は死に、部屋だけが残る。
そして、こう呼ばれるようになる。
――事故物件。
家賃も安くて、駅にも近くて。
少し古いけれど、管理はきちんとしていたはずなんです。
それなのに、たった一人亡くなっただけで、事故物件だなんて呼ばれるようになる。
本当に、やりきれない話ですよ。
まさか、あの程度殴ったくらいで死んでしまうなんてねぇ。
でも、これでやっと静かになりました。
大家は、そう言ってにっこりと笑った。




