青い貧血
四章
教会の奥は本当に、
静まり返っていた。
と、遠くで鐘が一度だけ鳴り、空気の底に響く。
レイは、祭壇の前に漂う青い光を見つめていた。
少女が隣に立つと、彼は小さく笑った。
「ねぇ、君。“青い血”って知ってる?」
少女は首を傾げた。
「貴族のこと?」
「うん。高貴な血、神様に近い人たちのこと。
僕、あいつらが嫌いだったんだ。
綺麗な言葉ばかり使って、誰も助けてくれなかったから」
レイの声はいつもより低かった。
それでも、その目は柔らかかった。
「でもね、ひとりだけ違ったんだ。確か、ここのシスター。
“青い血”のくせに、泥の上にしゃがんで、
僕にパンをくれた大人がいた。……変な人だったよ」
レイが“青い血”を語るその声音には、
怒りよりも懐かしさが混じっていた。
「名前は?」
「覚えてない。でも——優しかった。
ほんの少し、信じてもいいかなって思った瞬間……全部、終わったんだ」
レイは肩をすくめて笑う。
その笑いが、どこか痛かった。
五章
鐘の音が遠のいていく。
少女は手帳を胸に抱いたまま、教会の中を進んでいた。
壁は白く、床は磨かれたまま。
空気が澄みすぎていて、息をするたび、肺の中が冷たくなる。
レイは浮かびながら、廊下を覗き込んでいた。
「……変だね。埃ひとつない」
「ロードされた“時間”だから」
レイは淡々と答える。
「人がいないだけで、データは完全。欠けてるのは“意識”だけ」
少女は一瞬黙り込んだ。
「そういうの……怖くないの?」
「怖くないよ。君と一緒だから!」
レイは足を止めずに言った。
その無邪気な声に、少女はほんの少し笑う。
「そっか。君はやっぱり人間じゃない感じがするな」
レイは首を傾げる。
「だって人間じゃないよ?実際さ。」
「ううん。なんでもない。……でも、そういうとこ、嫌いじゃない」
口からスッと出てくるセリフに少しの驚きを感じながら、足を進める。
会話が止まり、足音だけが響く。
ステンドグラスを透かして入る光が、青く床を染めていた。
それはまるで、冷たい海の底を歩くような感覚だった。
廊下の突き当たりに、木の扉があった。
取っ手に触れると、金属がかすかに震える。
少女は息を吸い、静かに押し開けた。
六章
部屋の中は、廊下よりも静かだった。
壁にかけられた絵はどれも色あせていない。
花瓶の花はまだ瑞々しく、まるで今も誰かが世話をしているようだった。
少女は足を踏み入れると、ゆっくりと首を傾げた。
「……ここ、温度が違う」
「うん。あたたかいね」
レイが浮かびながら微笑む。
「この部屋だけ、空気が生きてるみたい」
何も汚れていない。けれど、確かに“何か”が触れた痕があった。
その感触に、少女はわずかに息を飲む。
「ここ、“祈りの部屋”だよ」
レイが言う。
「あっちの祭壇が本物なんだけど、ここはシスターの部屋だったからさ。みんなシスターに会うついでに、昔はね。みんなここでお祈りしてた。……僕も、たぶん」
「シスターって、青い血の人?」
「うん。ここでシスターに教わった気がするんだ。
手を組んで、目を閉じて、“ありがとう”って」
少女は黙ってレイを見た。
その仕草に、ほんの一瞬だけ笑みを浮かべる。
「君、そういうの似合わない」
「ひどいな」
レイは笑った。
少しの沈黙が落ちる。
ステンドグラスの青い光が床を滑り、
二人の影が重なって揺れた。
「でもね……ここ、僕の最後の場所かもしれない」
レイの声は少しだけ震えていた。
「あっちで、死にそうになって、こっちにきたはずなんだ、きみと一緒に。」
「音が消えて、光が青くなって、
それから——痛みじゃなくて、静けさだけが残った」
少女は返事をしなかった。
彼のことなんて気にしていないかのように手帳を置く。
ページが開き、光がわずかに滲む。
「セーブするの?」
レイが目を丸くして尋ねる。
「うん。この“静けさ”を記録する」
「どうして?」
「消えそうだから。
君の言葉も、たぶん、時間が巻き戻ったらなくなる」
レイは少し考えて、微笑んだ。
「じゃあ僕、君の中に残るの?」
「データとしてなら、残せる」
「それでもいいや」
その答えに、少女は初めて視線を逸らした。
どこか、困ったように。
鐘が遠くで鳴る。
音の波が、まるで呼吸のように部屋を満たす。
光がページに染みこみ、彼の輪郭を淡く照らした。
「君の記録の中で、僕はまた君と歩けるのかな」
「そうなるように、作ってあげようか?」
少女の返事に、レイは笑った。
どこまでも穏やかに。
ふと、レイが言う。
「ならさ、今の僕は、君の“セーブデータ”の中で生きてるんだね」
少女は頷かず、ただページを閉じた。
その音が、祈りの部屋の静寂に溶けた。




