始まり
一章
──教会の鐘が鳴る。
遠く、霧の向こうから。
それは耳に馴染んだ音だった。まるで、ずっと以前にも同じ音を、誰かの隣で聞いたことがあるような——
そんな錯覚を誘う、柔らかな響きだった。
鐘の一つひとつが空気を震わせ、やがて霧の底へ沈んでいく。音は輪郭を失いながらも、確かに森の奥を満たしていく。
少女は足を止めなかった。
白い息が微かに揺れ、濡れた土を踏むたび、靴底がかすかに鳴った。手には古びた手帳を抱えている。
表紙には、四角い枠の中に染みがあった。茶色く乾きかけているが、どこか生々しい。歩くたび、その染みが光を拾って、小さく瞬いた。
「ここに行けば、思い出せる──」
少女はそう呟いた。声は霧に吸われ、誰にも届かない。
それでも、信じていた。
やがて、森の木々が途切れ、霞の向こうに白い尖塔が現れる。
空へ向かって細く伸びたその姿は、まるで時を拒むように静まり返っていた。
あの教会——。
昔、無差別殺人事件が起きた場所。新聞は血の匂いを伝えきれず、人々の記憶もいつしか風化した。けれど少女の胸の奥では、何かがまだ終わっていなかった。
足を止めずに、彼女は進む。
記憶の底に沈んだ何かが、今にも目を覚ましそうな気がして。
失われた時間の先に、自分が誰だったのかを確かめるために。
霧の中、鐘の余韻だけが、遠くでまだ鳴り続けていた。
二章
霧の中、白い尖塔の前に立つ少女の視線は、足元の赤に吸い寄せられる。
そこには乾きかけた血の跡。ひび割れた土と落ち葉の間に、濃赤のしずくが光っていた。
少女は足を止めることもなく、淡々と手帳を開く。
ページには、見飽きた印と小さな文字——
「セーブには血が必要。十分な量があれば、記憶は固定される。」
少女は微かに笑ったような顔をする。
「ちょうどいい……」
それは恐怖ではなく、冷静な計算だった。
手帳を胸に抱え、少女は足の血をノートに垂らす。
彼女は手首を小さく切る必要もなかった。
足に残った血で十分だ。
瞬間、ページが微かに光り、時間の流れが静止したように感じる。
セーブ完了——
ここまでの歩みと、思い出せない記憶の断片が、確かに手帳に固定された。
少女は冷静に周囲を見回す。
血は記録の代価であり、道標でもある。
これまでの経験で、血の量とセーブの安定性を体で覚えている。
鐘の音が霧の向こうで淡く響く。
少女は手帳を握り直し、扉に手をかけた。
血の代価を差し出す儀式は、もう彼女にとって恐ろしいものではない——
進むために当然のこととして、淡々と受け入れるものだった。
三章
教会の中は、本当に人がここで死んだのかと疑うほど綺麗な内装をしていた。
祭壇の前で少女が血の跡を見つめ、手帳のページを光らせていると、かすかな声が空気を震わせた。
「……ねぇ、君。何をしてるの?」
振り返ると、淡く光る少年の姿が、床の上を漂っていた。
幽霊だ。少女は一瞬息を飲むが、驚きよりも冷静さが勝つ。
ここで出会うべき存在だと、どこかでわかっていたような気がした。
「僕は……えっと…ああ、レイ!血とかはないけど、手伝えるよ」
驚いたようにパッと手を上げる子供の声は、意外なほど明るく、そして安心感を与えるものだった。
少し話してから、急かすように「手帳を見せろ」と言われる。
それに従うと、幽霊はホッと、楽しげに頷いた。
「セーブには血が必要って知ってるんだね。何回もやった跡がある。
でもね、実は全部血じゃなくても大丈夫。DNAがあれば……唾液でも、皮膚片でもいいんだ
なんだけど、情報が不完全だから記憶は失っちゃったりするよ!」
少女は眉をひそめる。
「でも、君は幽霊だ。血も唾液もないよね?なんでそんなこと知ってるの?」
幽霊はくすりと笑った。
「そう、僕は血が出せない。でも、“仕組み”は知ってる。理由はひみつ!
どこを触れば、少しの痕跡でも記録として残せるか、とかもわかるよ」
幽霊は少女の肩の高さで揺れ、光の粒のように浮かんでいる。
「君がなんと言おうと僕はついていくからね!なんてったって僕は君のナイトなんだから」
少女は、少し呆れも混ざった笑いを漏らした。
鐘の音が遠くで鳴り響く。
少女は手帳を握り直し、幽霊と共に教会の奥へ歩き出す。
血を差し出す代価と、幽霊の教え——
どちらも失われた記憶を取り戻すための確かな手段だった。




