第二章 25
マキを残した通路を後にしたライトは、王室護衛官に導かれ、母艦「ウィンターズ・クレスト」の王族居住区画へと足を踏み入れた。ここの雰囲気は、「ヴィンディケーター」とは全く異なり、美しく、静かで、芸術性に満ちていた。
「王女殿下は、この中でお待ちです」
扉が開くと、ライトはステラ王女の私室へと入った。そこは豪華な寝室ではなく、書斎と小さな庭園を兼ねたような部屋だった。天井まで届く本棚、政治情報を表示するホログラムテーブル、そして部屋の片隅には、温度管理されたケースの中で、淡い光を放つ「冬氷華」があった。
ステラ王女は、窓のそばに立ち、星々の中に浮かぶ同盟艦隊を眺めていた。彼女が振り返ると、親しげな笑みが浮かんだ。
「急にお呼び立てして申し訳ありません、キャプテン。貴方の次の任務について、耳にしました」
「それが私の任務ですので、王女殿下」ライトは、格式ばって答えた。
「司令官たちも、兄上も、貴方を重要な兵器、勝利への鍵と見ています」ステラはゆっくりと言った。その眼差しは、彼を深く見つめていた。「ですが、私が貴方を見るとき、そこには、ただ庭の静かな場所を探している一人の男性が見えます。私には、『兵士』ではなく、『人』が見えるのです」
その言葉は、ライトを驚かせた。それは、不思議なほど心に響く言葉だった。
「だからこそ、貴方をお呼びしたのです」彼女は彼に近づき、その眼差しは真剣で、ある感情に満ちていた。「私は、この任務を止めることはできません。それが必要なことだと、わかっています。ですが、私は貴方に『約束』を求めたいのです、ライトキャプテン」
彼女は、そのか細い手を伸ばし、無骨で傷だらけの彼の手に、そっと触れた。「いつか、この戦争が終わった時には、軍人を辞めていただきたいのです。約束してください。二度と、影と殺戮の世界には関わらないと。約束してください。庭を愛したあの少年に、生き続ける機会を与えると」
ライトは、絶句した。彼は、彼女が握る自分の手を見つめた。これまで誰も、彼に兵士を「やめろ」と頼んだ者はいなかった。誰もが、彼の殺しの技術を利用したがった。だが彼女は、初めて、彼に穏やかに「生きて」ほしいと願ったのだ。
彼は何と答えればいいかわからず、ただ、その願いを受け入れるように、ゆっくりと頷くことしかできなかった。
---
ライトは、立ち尽くしていた。彼が交わしたばかりの約束が、頭の中で響き渡っていた。
しかしその時、真剣だった雰囲気が、一変した。ステラ王女の決意に満ちていた眼差しが、夢見るような輝きに変わった。「戦争が終わったら、きっと盛大な祝賀会が開かれますわ。英雄たちが、皆、集まるのです」
彼女は、ライトを見つめていたが、その視線は、遥か彼方の何かを、想像していた。「貴方も、それにふさわしい服を着なければ。あのような漆黒の装甲服ではなく、純白のスーツに、黒のボウタイ、そして手には、深紅の薔薇を一本…きっと、お似合いになりますわ。闇の騎士が、ついに光の中へ帰還するのですもの」
ライトは、困惑に目を見開いた。戦場での生死の話から、想像上の祝賀会の衣装選びへ。この変わりようは、アリステア司令とそっくりだった!
(まさか、主従揃って…か?)彼は心の中で呟いた。
「王女殿下?」
「あ!ええと…」ステラは、夢から覚めたように、わずかに赤面した。「少し、考え事をしていただけですわ」
「王女殿下、失礼ながらお尋ねします」ライトは話題を変えることにした。「通常、貴女の私室は、誰でも簡単に入れる場所ではないはずでは?今、この部屋には、我々二人きり。安全なのですか?」
「ああ、そのことですのね」ステラは答えた。「私が、彼らに下がるよう、命じたのですわ。貴方と、個人的にお話がしたかったので」
その答えは、善意に満ちていた。だが、ライトにとって、王女が、彼と二人きりで話すために、自らの護衛を、下げさせるなど、信じがたいことだった。彼は、彼女に心酔するアリステア司令のこと、そして、エララといる彼を見た時の、マキの、不満げな眼差しを、思い出していた。
(どうやら、あの高貴な司令官殿は、恋敵が一人増えたようだな。面倒なことになりそうだ)
「そろそろ、失礼いたします、王女殿下。準備すべきことが…」
彼が、踵を返そうとした、その時。ステラの、柔らかな手が、そっと、彼の腕を、引き留めた。「お待ちになって…」
ライトは、驚いて振り返り、そして、これまで見たことのない、光景を目にした。優雅で、常に落ち着いていたステラ王女が、今、普通の少女のような、「懇願する表情」を、浮かべていたのだ。
「もう少しだけ、私の、話し相手になっては、いただけませんか?」
初めて、彼は、彼女の、「王女」ではない、一面を見た。そして、彼は、やすやすと、「折れて」しまった。
---
その後、雰囲気は変わり、二人は、よりリラックスした、会話を始めた。ステラは、ウィリアム王子の子供時代の面白い話を、ライトは、ギデオンの馬鹿力について語った。彼らは、まるで旧友のように、語り合った。それは、信じられないほど、シンプルで、穏やかな時間だった。
「私の故郷では」ステラが、静寂の中、口を開いた。「人々は、嬉しい時も、怖い時も、歌を歌います。それは、希望の歌です」
そして、彼女は、歌い始めた。それは、マリアンの、民謡だった。彼女の歌声は、比類なく、澄み渡り、そして美しかった。
歌が終わると、ライトは、静かだった。その目は、遠く、悲しげだった。
「貴方には、歌がありますか?道に迷った時に歌う歌が」
ライトは、ためらった後、彼がこれまで誰にも見せたことのない、心の最も深い傷を、さらけ出すことを、決意した。彼は、歌い始めた。それは美しい歌ではなかったが、真実の感情に満ちていた。孤独な少年、英雄になるという約束、そして、悪魔になることへの恐怖。「迷子の星のララバイ」。
歌が終わると、静寂が訪れた。しかし、それは、理解に満ちた、静寂だった。ステラ王女の目から、一筋の涙が、こぼれ落ちた。
「私は…貴方が、どれほどのことを乗り越えてこられたのか、知りませんでした。ごめんなさい」
彼らは、互いの過去を、分かち合った。もはや、「キャプテン」と「王女」ではなく、傷を分かち合った、二人の人間として。
「話してくれて、ありがとう、ライト」ステラは、初めて彼の名を、敬称なしで呼んだ。「貴方は、悪魔ではありません。そして、もう一人ではないのです」
---
ライトが、ステラ王女の私室を出た時、彼の背後で閉まるドアは、まるで、二つの世界を隔てる、仕切りのようだった。
彼が、思考を整理するために、ドアの前で、一瞬、立ち尽くしていた、その時。
「ずいぶんと、長時間の『報告』だったようだな、キャプテン」
彼の背筋を凍らせる、冷たい声が、通路の横から、した。ライトが振り向くと、マキが、いつからそこにいたのか、通路の影で、壁にもたれ、腕を組み、読み取れない眼差しで、彼を、見つめていた。
「ここで、何をしている?」
マキは、その問いには答えず、影の中から、ゆっくりと、彼に、近づいてきた。彼女は、彼の目の前で、立ち止まり、そして、何かを吟味するように、わずかに、首を傾げた。
「貴様から…」彼女は、平坦な声で言った。「…花の香りがする」
彼女は、顔を、近づけてきた。彼女の鼻先が、彼の襟に、触れそうになるほど、近くに。「…女の、香りだ」
その言葉は、シンプルだったが、巨大な圧力と、不満を、孕んでいた。
「王女殿下に、呼び出されたんだ」
「知っている」マキは、言い返した。「私が、疑問に思うのは、その『拝謁』が、そこまで、親密である、必要があったのか、ということだ」
そして、マキは、ライトが、全く予期しなかった、行動に出た。
彼女は、片手を、ゆっくりと、差し出した。ライトは、反射的に、身構えた。しかし、彼女の、氷のように冷たい指先は、彼を、傷つけなかった。彼女は、彼の襟を、目に見えない埃を、払うかのように、優雅に、撫でた。しかし、その指は、やがて、上へと滑り、彼の、首筋に、脈打つ、頸動脈に、触れた。
「よく、覚えておけ、ライト」彼女は、彼の耳元で、冷たく囁いた。「我々の敵は、連邦だ。機械の群れだ。おとぎ話の、王女ではない」
彼女の親指が、彼の首を、わずかに、圧迫した。明確な、警告だった。
「感情、希望、慈悲。それらは、我々の世界では、『毒』だ。それは、貴様を、躊躇させ、弱らせ、そして、殺すだろう」
彼女は、彼の目を、深く、見つめた。
「戦場で、我々が、これから、赴く任務で、貴様の命を、守れる、唯一の人間は、私だ」
「あの王女の、甘い夢が、その事実を、忘れさせるようなことが、あれば、容赦はしない」
そう言うと、彼女は、手を離し、元の、氷のような、態度へと、戻った。
「12時間後には、出発する。準備を、しておけ」
マキは、踵を返し、去っていった。一人、通路に取り残されたライトは、立ち尽くしていた。彼の心臓は、激しく、高鳴っていた。それは、恐怖からではない。混乱からだった。
彼女の、先ほどの行動は、脅迫か?警告か?それとも、所有欲の、現れか?
彼には、答えが、わからなかった。




