第一章1
**新国際暦 2523年 / ブラッドムーン連邦時代 88年**
**惑星サム、ブラッドムーン連邦 第7植民地セクター**
惑星サムの夜風が、冷気と腐りかけの金属の湿った匂いを運び、狭い路地を吹き抜ける。
連邦のプロパガンダを映し出すホログラム広告の赤い光が降り注ぎ、濡れた路面を血の色に染め上げていた。
宙に浮かぶ光の文字が際立っている。「力による平和、服従による安定」。それは、朝な夕な民衆の顔に叩きつけられるスローガンであり、誰も望まぬ祈りのようだった。
巨大な貨物船が眠れる巨人のように停泊する宇宙港地区の喧騒の中、一軒の小さな酒場が静かに佇んでいた。その名は「虚空の果て(The Void's End)」。その扉は、この世界が噛み砕き、吐き捨てた疲れた魂たちを迎え入れる。
顔に鉱石の塵を纏った鉱夫、虚ろな目をした貨物船のパイロット、そして故郷がもはや自分たちのものではなくなったという過酷な現実を忘れようとする普通の住民たち。
店の最も暗い隅で、一人の男が物思いに沈んでいた。彼の名はライト。
彼が纏う合成皮革のジャケットは古びており、ブラスターが掠めた焦げ跡や、ぞんざいに修理された破れ目など、戦いと旅の痕跡が至る所に刻まれている。
黒曜石のような髪は首筋で短く刈り込まれ、左眉を横切る薄い傷跡を覗かせていた。
彼の瞳は鷹のように鋭いが、今は手の中の琥珀色のグラスを虚ろに見つめている。
地元民が「流れ星の涙」と呼ぶその液体は、ガラスの破片を飲むかのように喉を焼くが、彼に忘れさせるには十分な強さを持っていた。あるいは、忘れようと努力させるには。
彼の頭の中では、溝のずれた映画のフィルムのように、同じ光景が繰り返されていた。
目を焼く閃光、戦友たちの悲鳴、戦場に立ち込めるオゾンと肉の焼ける匂い…惑星インワンでの戦場。彼が全てを失った戦場。
「…連邦軍は惑星インワンの解放に成功し、民衆に繁栄と安定をもたらしました…」
店の中央にあるホログラムスクリーンから、アナウンサーの美しくも魂のない声が響く。
ライトは口の端を歪めた。「解放」か。殺戮と占領を飾るには、美しい言葉だ。彼は誰よりもそれを知っていた。
なぜなら、彼もかつてはその一部、連邦の使い捨ての戦争機械だったからだ。目が覚め、逃げ出すまでは。一方からは裏切り者と見なされ、もう一方からは戦争の残骸としか見なされない存在に。
「何か追加するかい、ライト?」年老いたバーテンダーの低い声が、彼を物思いから引き戻した。
ライトはゆっくりと首を振った。酒の苦味がまだ喉に残っている。「今日はもう十分だ。十分すぎる」
彼は擦り切れた木のカウンターに数枚のクレジットコインを置いた。静寂の中、金属が触れ合うかすかな音が響く。彼は立ち上がろうと身じろぎし、再び無名の存在となり、この街の闇に消えようとしていた。
しかし、運命とは、それを望まぬ者に対して常に別の計画を用意しているものだ。
バン!
「虚空の果て」の扉が無遠慮に蹴り開けられた。
ブラッドムーン連邦兵の濃灰色のコンバットアーマーに身を包んだ二人の大男が足を踏み入れた。外からの光が逆光となり、一瞬、不気味な黒い影だけが見えたが、やがて彼らは完全に店の中へと入ってきた。
鉄のカーテンのような重い沈黙が、即座に降りた。
話し声や音楽は徐々に消え、古い空調の唸りだけが残る。全ての視線が新参者に注がれ、そしてすぐに伏せられた。目の前を歩く権力の象徴と目を合わせたい者など、誰もいなかった。
「どうやら、当たりだったようだな、相棒」軍曹の階級章をつけた一人目の兵士が言った。彼の声は静寂の中に響き渡った。「ここは、自分の傷を舐め合ってる負け犬どもの溜まり場だ」
もう一人が同意して笑った。「好都合じゃないか。こいつらは飲ませておけ。俺たちはもっと目の保養になるものを探しに来たんだ」
その兵士の視線が無遠慮に店内を掃き、やがてカウンターの横で固まっている、まだ十八歳になったばかりのウェイトレス、エララに止まった。彼女の手の中のトレーがカタカタと震えている。
軍曹は、嫌らしい笑みを浮かべて彼女にまっすぐ向かった。
「よぉ、お嬢ちゃん。今夜は疲れただろう。俺たちみたいな英雄と少し休んだらどうだ?俺たちはこの惑星を『守る』ために、必死で働いてるんだぜ」彼は「守る」という言葉を嘲るように強調し、装甲に覆われた手袋をはめた手を彼女の肩に回そうとした。
エララはびくっとして後ずさった。彼女の顔は真っ青だった。「あ…ありがとうございます。でも、まだ仕事が…」
「仕事だと?連邦兵の士気を高めること以上に重要な仕事なんてないさ」もう一人の兵士が言い添え、楽しそうに笑った。
ライトは、その光景を彼の暗い隅から見ていた。
「解放された」惑星という惑星で、彼が数え切れないほど見てきた光景。強者が弱者をいじめ、権力者が無力な者を踏みつける。
彼の頭の中の声が、彼に静かにしているよう叫んでいた。「面倒を起こすな。お前の知ったことじゃない。お前は誰も救えない、ライト。分かっているだろう」
しかし、エララの怯えた瞳の中に、彼は別の誰かの姿を重ねて見ていた。
彼が守ると誓い、しかし結局は守れなかった、惑星インワンの少女の姿を。
店内の沈黙は、少女の泣き-声によって破られようとしていた。
カチッ!
予期せず響いた小さな音は、しかし、静寂の中では銃声のように鋭く響いた。
全員が振り向いた。ライトは、空になったグラスを静かにテーブルに置いていた。
彼の指はまだグラスの縁に触れている。彼は兵士たちの方を見てもいなかった。
彼の視線は、まだ目の前の何もない壁に向けられていた。
しかし、それだけで十分だった。
「…そこのご婦人は、仕事中だと言っている」
ライトが初めて口を開いた。彼の声は嗄れており、宇宙の風のように冷たかった。
軍曹は彼の方を振り向き、宇宙のゴミが声を上げる勇気を持ったことに驚いて眉を上げた。「何だと?」
ついに、ライトは顔を向け、彼と直接目を合わせた。先ほどまで虚ろだった瞳は、今や、長く消えていた炎で燃え上がっていた。
「彼女を行かせろ、と言ったんだ」
ライトの、宇宙の深淵のように冷たい言葉が、静寂の中に漂った。
軍曹は彼を睨みつけ、やがて口の端を侮蔑的に歪めた。
パリン!
彼の手の中のグラスが粉々に砕け散った。
ガラスの破片が装甲に覆われた手のひらに深く食い込んだが、本人は気にも留めない。彼はまるで埃を払うかのように手を振り、ゆっくりと椅子から立ち上がった。
鎧が擦れ合う音が店中に響き、二人の部下もまた、ライトを三角形に囲むように動き出した。
「三対一か…少々分が悪いな」ライトは独りごちた。
「もし彼女を行かせないなら…」ライトは静かに続けたが、その瞳は刃のように鋭かった。「…お前たちは死ぬ」
彼の脅しは、三人の兵士から大きな笑い声を誘った。
「ハハハ!こいつの言うことを聞けよ!」軍曹は体を折り曲げて笑った。「お前みたいな小さなゴミ屑が、俺たちをどうにかできるってのか?思い上がるなよ」
突如、軍曹の笑みが消え、残忍な眼差しに変わった。「思い出したぞ…ライト。元第7特殊強襲部隊…あるいは、『仲間殺し』と呼ぶべきか?惑星インワンの戦場で仲間を見殺しにした…実に哀れだな!」彼は再び嘲笑した。「こんな所に逃げ込んだからって、誰も覚えていないと思うなよ!」
その言葉は、氷の槍のようにライトの心を貫いた。「虚空の果て」の空気は、さらに静まり返った。店内の人々は皆、顔を伏せ、息を殺している。特にエララは、力なく床に崩れ落ち、涙を浮かべていた。彼女の膝は罪悪感で震えていた。
この全ては、自分のせいだと。
しかし、ライトはそうは思わなかった。(彼女のせいじゃない…)彼は心の中で思った。瞳は、三人の兵士を油断なく見据えている。(問題は彼女じゃない。奴らの方だ…)
その瞬間、彼を過去に縛り付けていた壁が崩れ落ちた。
長く消えていた炎が、再び灯された。復讐のためではなく、守るために。
---(シーンカット:惑星サム軌道外の宇宙空間)---
静寂の闇が、プラズマ光線によって引き裂かれた。
ブラッドムーン連邦の大型偵察艦隊が、激しい攻撃を受けていた。
彼らの敵は、どのデータベースにも存在しない飛行部隊。その姿は、まるでバッタの群れのように動く、生体機械のようだった。
奴らは数が多く、損失を恐れない。
連邦の戦闘艦は、いとも簡単に引き裂かれ、最強の装甲も紙のように喰い破られていった。一時間も経たないうちに、かつて威圧的だった艦隊は、漂流する金属の残骸と化した。
死の機械の群れは、次の標的を近くの小惑星に向けた。奴らは着陸し、占領し、そこにいるあらゆる生命体を「喰らい」始め、その死骸を自らの体へと急速に融合させていった。
---(シーンカットバック:バー「虚空の果て」)---
戦いは始まっていた。ライトの動きは驚異的だった。
かつて血に深く刻まれた技術が、再び目覚めたのだ。
彼は装甲に覆われた拳や蹴りを紙一重で避け、鎧の関節や弱点を正確に突いて反撃した。
最初の二人の兵士は、素早く床に倒れた。
しかし、長く戦っていなかったことによる疲労が、影響を及し始めていた。
彼が軍曹に拳を叩き込んだ瞬間、ほんの一瞬の隙が生まれた。
グサッ!
腹部から激痛が走った。
一振りのコンバットナイフが、ジャケットを貫通し、柄の根元まで突き刺さっていた。
鮮血が店の床に飛び散った。ライトはよろめき、驚きに目を見開いた。
今の彼の姿が、血に濡れた惑星インワンの少女の姿と重なる。
そしてその光景は、怯えるエララの顔へと変わった。
「守らなければ…」
その思いが、彼の最後の力を呼び覚ました。ライトは吼え、命知らずにも軍曹に突撃した。しかし、重傷を負った体では、それは絶望的な戦いだった。彼は激しく打ち返され、床に倒れた。
軍曹は近づき、ライトの胸を足で踏みつけ、腰のプラズマピストルを抜いて彼の頭に突きつけた。「これで終わりだ、ゴミ屑が」
しかし、彼が引き金を引く前に、ヘルメットの通信機が鳴った。『…クルス軍曹に通達!最高レベルの緊急事態発生!所属不明の敵がデルタ艦隊を攻撃中!全部隊は即刻基地へ帰投せよ!繰り返す!即刻帰投せよ!』
軍曹は、苛立ちながら舌打ちした。
彼は憎しみを込めてライトの顔を見つめ、銃をしまった。「本当に運のいい野郎だ…お前の哀れな命も、もう一日延びたようだな」彼はライトの脇腹を激しく蹴りつけた。
「行くぞ、お前ら!」
三人の兵士は、最後に店の人々を銃で威嚇しながら、足音荒く店を出て行った。
彼らが去るとすぐに、エララがライトのもとへ駆け寄った。
彼女は自分のエプロンを引きちぎり、彼の腹部の傷を素早く、そして的確に押さえて止血した。
「しっかりして!死んじゃだめ!」
「おじさん!早く医者を呼んできて!」
彼女は、震えながら立っている年老いたバーテンダーに叫んだ。
ライトが意識を失う前に見た最後の光景は、エララの涙に濡れた顔と、彼女の薄紫色の髪だった。
ライトの意識は、空虚な闇へと沈んでいった。
彼が最後に聞いたのは、パニックに陥りながらも、決意に満ちたエララの呼び声だった。
そして全てが途絶え、ただ冷たさがゆっくりと全身に広がっていくだけだった。
…エララの視点…
ライトが意識を失った瞬間、エララの怯えた眼差しは、驚くほど鋭いものに変わった。
十八歳の少女の面影は消え、生死を分ける状況に慣れた者の視線に取って代わられた。
「おじさん!医者は呼ばなくていい!」
彼女は、店を出ようとしていたバーテンダーに叫んだ。
「3丁目裏のサトウさんの電子修理店に行って、『特急品が届いた』って伝えて!彼なら分かるはず!急いで!」
年老いたバーテンダーは戸惑いながらも頷き、すぐに走り去った。
エララは躊躇せず、自分のスカートの裾をさらに引き裂いて仮の包帯とし、素早くライトの体を調べ始めた。彼女は金目のものを探しているのではない。
問題になりそうな武器や所属を示すものを探していたのだ。
しかし、見つかったのは数枚の普通のクレジットカードだけだった。
間もなく、店の裏口が開き、港湾労働者の格好をした二人の屈強な男が、修理店の店主であるサトウと共に現れた。
「こいつが、例の『品物』か?」そのうちの一人がぶっきらぼうに尋ねた。
「そうよ」エララは答えた。「連邦兵に刺されたの。彼を『クリニック』に運ぶのを手伝って」




