ep38 CORIANDER
それからほどなくして、私達はコリアンダーに着いた。店は路地裏にあり、ネットでもほとんど情報がないことから、外国人観光客はもちろん日本人観光客にもあまり知られてはいないが、楓先生曰く、日本全国の地ビールが飲める穴場であることから、ビール通の間では知る人ぞ知る名店と言われているそうだ。
私が初めて連れてきてもらったのは約半年前のこと。重そうな木製のドアの中心に小さな銀製のプレートで『CORIANDER』と書かれているだけで、とても入りづらい雰囲気を漂わせたこの店は、貧乏性の私には敷居が高いように思われた。しかし楓先生の仕事で事あるごとに利用させてもらっているので、今ではすっかり馴染みの店となり、街の大衆食堂並みには緊張しなくなった。
入ってみるとカウンター席が6席と、小さな2人掛けのテーブルが隅に置かれているだけの小さな店で、マスターである浩志がカウンターに立ち、グラスを拭いていた。開店時間に合わせて来たこともあり、私達の他には客はいない。浩志は私達の入店に気づき、「いらっしゃいませ」とハスキーボイスで言った。
「楓さん、夏樹さん、1ヶ月ぶりでしょうか」
浩志は笑顔でグラスをカウンターの背にある棚に置いた。
「ええ。金欠で来られませんでしたから、それくらいですね」
楓先生は明るい声で応え、カウンターの奥の席に腰をかけた。楓先生は普段事務所では日本酒とウイスキーしか飲まないのだが、コリアンダーのビールを好まれているようで、店に来る時はいつも上機嫌なのだ。私も「お邪魔します」と言い、楓先生の隣に座った。
「夕飯はお済みですか?今日は北海道産ラムのキーマカレーがありますが」
コリアンダーはスパイスの名を店名にしているだけあり、日替わりでいろいろなカレーを楽しむことができる。浩志のカレーはどれも絶品で、季節のフルーツを隠し味にしていることが多いが、甘ったるさはなく、寧ろタイやネパールのカレーを彷彿とさせる鋭い辛さをもっている。つまり、とても美味しい。
「では、いただきます。2つお願いします」
「かしこまりました。この後仕事のご予定がないようでしたら、もしよろしければ、鳥取のコーヒービールも合わせてみてはいかがでしょう。発酵過程で最高級クリスタルマウンテンの抽出液を加えており、柑橘系やナッツの豊かな香りがあります。今日のカレーはこのビールに合うよう仕込んだんですよ」
私は飲んだことがないので、味のイメージがつきにくいところはある。でも浩志の話を聞いていると、いつか飲んでみたいと思わせる説得力がある。
以前聞いたことがあるが、浩志は自分の店で出すビールに強いこだわりを持っており、店に置きたいと思ったビールについてはブルワリーへ直接赴き、醸造過程の見学や試飲を経て、客にその知識と味を提供するよう心がけているそう。小さい店ながらも妥協せず、仕事への直向きな姿勢は、私の憧れる大人像に合致している。
楓先生は興味をそそられたらしく、
「是非、いただきます」
と語気強めで言った。
「私はジンジャーエールをお願いします」
と伝えると、浩志は「かしこまりました」と笑顔で応えてくれた。
浩志は土鍋にバスマティライスと水を入れ、火にかけた。同時に予め仕込んでおいたであろうカレーの入った鍋にも火をかける。
「ドリンクはカレーと一緒にお出ししますか?」
浩志が訊いて来たので、楓先生は「先でいいですよ」と応えた。
ビールとジンジャーエールを出してもらったところで、楓先生が「浩志さん」と呼びかけた。
「魔法使いという人種は、得てして己のスキルを過信し、地道な遠回りを避ける傾向にあります。私も例外ではありません。そのせいで何か見落としがあるのやもと思いまして」
「楓さんには珍しく要領を得ませんが…何かお困りのようですね」
浩志の問いに、楓先生はビールを一口飲み、頷く。
「知り合いの魔法使いが保護した精霊が行方知れずとなりました。まだ赤ん坊の姿で、保護した時は封印が施されていましたが、それを解いた後のことです。姿を消してしまい、気配を辿ることもできませんでした」
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