002
校長の自画自賛でしかない長話を聞き終えた私は、掲示板で三つしかないクラス割りを確認してから教室へ向かった。驚いたことに一年A組の教室は都会のそれと大差がない。もっと老朽化した教壇や机が設置されていると思っていたのだけど。いい意味で予想外。よくできましたと褒めてあげたい。
クラスメイトは三十名程。これも都会と変わらない。ひょっとしたら私の想像が過剰だったのかもしれない。案外、暮らしやすかったりして。携帯電話も電波の届くエリア内らしいし、インターネットも回線さえ繋げば問題なく使えるそうだ。あとはクラスの中に溶け込んでいくだけでいい。深く。埋没してしまうほどに深く。
初回は出席番号順というセオリーを無視して、黒板には一言「好きな席を選んでください」と書かれている。手抜きもここまで来ると清々しい。私は空いている席に腰を下ろした。窓際の前から三番目である。後方の席は先に来ていた生徒に根こそぎ取られているので仕方ない。
――不意に。
「おや、ひょっとして小鳥遊さん?」
そう右横から声をかけられた。釣られて視線を向けてしまう。
スポーツをやらせたら画になりそうな爽やか系美男子がそこにいた。
「どうして私の名前を知ってるの?」
ほかにも有益な席が残っているというのに、どういうわけか窓際から二列目、前から三番目なんて中途半端なところを選んだ人物を見据える。見知らぬ土地で私の名前が呼ばれるのは初めてのことだ。放っておくわけにもいかない。
「えっと、この周辺には中学も高校も一つしかないんだ。だから今まで見たことのない生徒がいたとしたら、きっとその人が都会から引っ越してきた噂の小鳥遊さんかなって」
屈託のない笑顔を浮かべながら男子生徒は言葉を紡いだ。気になるので問い返す。
「噂?」
「うん、都会からやってきた美人転校生がいるって」
そうやって犯罪被害者や転校生を美化するのはやめてほしい。無駄にハードルを上げておいて、勝手にがっかりされるのは気分が悪い。なにより噂の真相を確かめに来るような男子は最低だ。笑いたければ笑えばいい。美人じゃなくてすいません。
しばらく睨みつけていると、男子生徒は焦ったように問うてきた。
「あの、もしかして怒ってる?」
「怒ってない。噂どおりじゃなくて悪かったわね」
「え?」
爽やか男子はわけがわからないという風に首を傾げた。驚いた表情さえ爽やかである。
「私――美人じゃないでしょ?」
「んー、そうだね」
ほぼ即答――しかも肯定されてる。ちょっとくらいは悩めっての。
ひょっとして、こいつは私に喧嘩を売りに来たのか?
なんとなく正解っぽい理論にたどり着いたところで、なにやら思索に耽っていた爽やか男子が付け加えた。聞きたくなくても声は届く。
「可愛いのほうがしっくりくるかな。俺の中で美人っていうと、もっと目が鋭くて髪も長くてメガネをかけてるイメージなんだよ。小鳥遊さんはそういうタイプじゃないからね」
真顔で「美人」についての持論を語り終えた爽やか男子は柔和な笑みを浮かべた。自己分析してみる。唯一自慢できるパーツともいえる大きな瞳、絹のように美しいとか死んでも言えない肩にかからない長さの黒髪、もちろんメガネも色メガネもかけていない。たしかに私の容姿は彼の美人像とかけ離れている。
だけど。
問題はそこじゃない。
「私が可愛い?」
「うん、都会の人って怖いイメージだったからなんか安心した」
爽やかに肯定された。嬉しい気がしないわけじゃない。だけど、私は異性と親しくなるわけにはいかないのだ。たとえ自意識過剰とバカにされても、少しでも仲良くなってしまいそうな可能性があるなら、そうならないうちに距離を取ってしまったほうがいい。私は決心したんだ。もう誰も好きにならない――誰も殺さないと。
次の瞬間、私は暴挙に出ていた。最低の行為と言ってもいい。
「小鳥遊さん、昨日テレビでやってた映画観た?」
無視。
「面白かったよねー、特に後半のテンポのいい謎解きが秀逸だったと思うんだよ」
無視。
「あれ、観てなかったのかな? ごめんごめん」
無視。
「お笑い番組のほう観てたのかな? 俺も録画して観たよ」
無視。
「三番目か四番目に出てたピン芸人さん面白かったなー、小鳥遊さんは誰が好きなの?」
無視。
「あらら、これも違ったのかな?」
無視。
もう無茶苦茶。自己嫌悪に陥りそう。だからもう私に話しかけないでほしい。というか、ここまで理不尽な扱いを受けて怒らない人がいるなんて。これが田舎専用の和やかクオリティなのだろうか?
「ひょっとして野球観戦? あーそれは観てないなあ。結果だけはニュースでチェックしたけど、小鳥遊さんはどのチームのファンなの?」
無視。
「あ、本読んで時間過ごすのかな? あるいはゲームとか?」
無視。
「まさかデートだったりして?」
無視。
「むー、じゃあ――」
「あのさ」
根負けしてしまった私は、永遠に続きそうな爽やか男子の独り言を遮った。さすがに良心が痛む。それに長引くとほかの生徒の注目を浴びてしまう。そんなことになったら、クラスの中に埋没しようと企んでいる私の計画は一次作戦の時点で失敗だ。だから終わらせる。
「なになに?」
爽やか男子は嬉しそうに顔を近づけてくる。私は心にもない言葉を投げかけた。
「私に話しかけないでほしい」
一瞬の沈黙。
「……なにかまずいこと言ったっけ?」
爽やか男子は極端なくらい表情を曇らせた。そういうわけじゃないんだけど――それに私なんかと関わってたら幸せになれないよ。さっさとどこかへ行ってください。
「まあね」
思考とは裏腹の回答を絞り出した。私は誰も好きにならない。そのためには関わらないのが一番簡単だ。十五年間の人生経験で私は一目惚れをしないタイプだとわかっている。気にはなっても好きまでいかない。もしそうじゃなかったら――被害者は二名に止まらなかったと思う。だから万が一のことを考慮して、男子とは仲良くしないほうがいい。
「……ごめんね」
そう言い残すと、爽やか男子は寂びそうな背中を見せながら立ち去っていった。もはや爽やかな要素など欠片も残っていない足取りである。彼を見送りつつ私は嘆息を漏らした。最悪な対応をしたのはわかっている。わかっていて行うのは、最も性質が悪いことも知っている。だけど仕方がない。これが最善の方法なのだ。
チャイムが鳴ると、爽やか男子は隣の席へ戻ってきた。やろうと思えば空いている席へ移動することもできたはずなのに、敢えてそうしなかった理由を――私は後に思い知らされることになる。この後に行われたホームルームの自己紹介で、私は爽やか男子――二ノ宮春一の名前を知った。
翌日。
田舎の朝は清々しい。車や単車の排気ガスによる汚染もないし、混雑や喧騒といった煩わしさからも解放されている。私は二日目にして田舎の通学路を気に入ってしまった。学校に慣れるのも時間の問題かもしれない。ホームルームが始まる前の教室。窓の外には抜けるような蒼穹が広がっていた。
しばらくすると、不穏な影が近づいてくる。
「小鳥遊さん、昨日テレビでやってたドラマ観た?」
無視。
「続きが気になるよねー、あと三話で終わりみたいだけど」
無視。
「あ、観てなかったのかな? ごめんごめん」
無視。というか、デジャヴだ。
「クイズ番組を――」
「あのさ」
今日は早めに止めた。
「なに?」
二ノ宮は柔和な笑みを浮かべて私の言葉を待っている。やれやれだ。
「昨日、私に話しかけないでって言ったよね?」
「え? それって昨日だけじゃないの?」
なんてポジティブな奴なのだろう。頭が痛くなってくる。
「いや、できれば永遠に話しかけてほしくないんだけど」
「……わかったよ」
二ノ宮は滑り止めの滑り止めまで落ちた浪人生のような足取りで立ち去っていった。ちょっと言い過ぎたかもしれない。昨日と同じように、二ノ宮はチャイムが鳴るまで席に戻って来なかった。簡単なオリエンテーションだけで本日も終了。本格的な授業は明後日かららしい。それまでに用意すべきものや必要な手続きなどの説明を受けているわけだ。
やっていることは都会の学校となにも変わらない。
翌日。
ホームルームが始まる前の教室。不審者が現れる。
「……」
身振り手振りでなにかを表現しようとしている二ノ宮が目の前にいた。かなり怖い。
無視。
「……」
無視。
「……」
二ノ宮の動きが激しくなった。
「あのさ」
私は最短記録で話しかけてしまった。呆れるしかない。
耳に手を添えて二ノ宮は嬉しそうに微笑む。
「私の負け。もう好きにしてよ」
肩をすくめて私は敗北を宣言した。ここまで超級のバカを相手に、これ以上戦える気がしない。諦めの境地だ。もちろん、こんなバカを好きにはならないだろうという打算も含まれているのだけど。
――ん?
いつのまにか二ノ宮は私の顎を持ち上げていた。当然のように二ノ宮の顔が急接近してくる。ちょっと待った! これは俗にいうマジでキスする五秒前状態じゃないですか!
なんでこんなことになっているんだっけ? 考えるしかない。いや、それよりも確実な対処法を――動揺しながらも私は二ノ宮の右頬を全力で振り抜いた。乾いた音がする。
「……痛っ!」
数瞬後、おもいっきりビンタされた二ノ宮が右頬を擦る。涙目になっていた。私だって平静を装っているだけで、心臓の音が聞こえそうなくらい緊張している。鼓動が今世紀最大の勢いで高鳴っていた。怒ったとか哀しいとかじゃなくて、驚いたというのが相応しい表現だと思う。本当に焦った。信じられないを通り越して嬲り殺したくなる。
「いきなりなにするのよ!」
「……だって、小鳥遊さん、好きにしていいって言ったよ?」
「お前は小学生かっ!」
怒鳴られた二ノ宮は萎縮する。しかし納得できないのか、ぶつぶつと「好きにしていいって言ったのに」と繰り返していた。とにかく、揚げ足を取る奴なんて大嫌い。本来なら怒鳴っている。いや、実際に怒鳴りましたけど。とはいえ、二ノ宮のバカさ加減を考慮するとあながち悪気があるとも思えない。なにせ度を超えたバカだからね。初日に席を変える発想がなかったのも、きっとそのせいだろうなと今なら確信を持って言える。
「とりあえずさ、二度と私に関わらないで」
私は断罪した。
「やだ」
即答される。
あ、なんか物凄く腹立ってきた。ブチ切れてもいいですか?
チャイムが鳴って担任が教室へ入ってくる。気を削がれた私は窓の外を眺めた。
悠久を想わせる青い空が広がっていた。