海神さまに溺愛されて幸せな結婚したはずなのに、眠れない。
初めて会った時に一目惚れしてしまったからと、そう照れながら言われた。
新婚の私の夫の紫電様は海神の中のお一人、尊い龍の化身だ。
そんな彼から是非にと縁談を頂いた時、私や私の家族は喜びよりも先に、この事態のあまりのありえなさに畏怖を感じ身体が勝手に震えた。
なんでも、私たち家族の住む標高の高い山に住む山神様のところに遊びに来た道中で、歩いていた私のことを一瞬だけ見掛けたらしい。
それから、どうしても忘れられなかったので、必死で身元を調べてくれて未婚と知ったので縁談を山神さまを通じて打診してくれた。
彼からの申し出を聞いて、私は夢じゃないかと半信半疑ながらも、とても嬉しかった。
挨拶に来てくれた紫電さまは美しい龍の化身で、なんと言っても容姿が良い。さらさらとした黒髪と、珍しい紫の瞳。海神としての仕事振りや周囲の評判も良く真面目で、性格も温厚だと言われれば、私には縁談を断る理由なんて何一つ思いつかなかった。
そして、現在。
私は彼の妻になり……当たり前なのだけど、同じ布団で同衾し夜は彼の隣で眠っている。
「雪風……なんだか、疲れているようだ。今日は、ゆっくり寝ておいで」
朝の光の中で起き立ての気だるげな様子を身に纏い紫電さまは私の頭を撫でて、一緒に寝ていた布団から一人立ち上がり去って行ってしまった。紫電さまの仕事場は、ここから遠い。こんな早朝に起きるのも、すべて私のためだ。
彼が気にするように私がなんだか疲れた顔をしているのは、ここのところ良く眠れぬせいだ。
何故かと言うと、是非にと乞われて結婚したはずの夫に初夜から全く手を出されていない。紫電さまは婚礼の日から、一週間近く私をそういう意味で抱いていない。
あれよこれよと言う間に、婚礼の日が決まった。男女の恋愛をしたと言える期間は、とてもとても短かった。
雪女である私の性質上、雪山から離れられない。気温が高いと、どうしても体調を崩してしまうからだ。
だから、紫電さまは私の故郷に近い山の頂上付近に大金を使って、大きな邸を建てた。
そんな理由で彼は、自分が任されている海まで毎朝わざわざ時間を掛けて長距離出勤をして通っている。
そういった流れは、とても私のことを愛していそうに思える。けれど、私と共に布団へと入れば、彼はこてんとすぐに寝入ってしまう。
三日くらいは疲れているのかなと思って、気を使った。もしかしたら、慣れない環境に居る私に気を使ってくれているのかもしれないと前向きに考えられたのは、その辺りまで。
もしかしたら……紫電さまの大事な部分が使えないのかもしれないと思えば、その訳を聞くことは、どうしても躊躇ってしまう。男性にとってとてもデリケートな問題であることは、処女の私にもわかるからだ。
理由は色々と考えられた。けれど、一番最悪な理由を思い付き、私は優しい態度を崩さない彼に、何も言えなくなってしまった。お前のことを本当は愛していないから、抱くつもりがないと言われたら?
私はこういった恋仲と呼べる関係になったのは、紫電さまが初めてだし。穏やかな性格の彼は夫として完璧だ。慣れない妻としての仕事も頑張ったことは的確に褒めてくれるし、労いを欠かさない。彼の家来たちは、尊敬の出来る有能な上司を持ちさぞやりがいを持って働いているだろう。
夜以外には、夫の欠点は全く見当たらない。
訳も聞けないし彼とは離婚をしたくない私が、健やかに眠る彼の隣で夜に眠れずにまんじりとして夜明けを待ってしまうことも……これは、仕方のないことなのだ。
◇◆◇
「おー……雪風ー。久しぶり」
暗い気分を、少しでも変えてみようと眠い目を擦りながら邸の外を歩いていたら、幼馴染の虎太が声を掛けて来た。
「え? 虎太? なんで、こんなところにいるの?」
私は、良く知っている猫又の彼がここにいることが素直に不思議だった。
私たち雪女は、もちろん雪の降る山の頂上付近に住んでいる。彼ら猫又の集落があるのは、雪の降らない山の麓だ。
だから、元々住んでいた山で私と彼は幼馴染と言っても冬の間に会うだけだった。茶色い猫耳と可愛らしい顔を持つ彼は、とても心外だと言わんばかりに眉を顰めて肩竦めた。
「俺は一週間前の雪風の婚礼の日から、こっちの山に来ていたんだよ。雪風に会いたいって言っても。あいつら、なかなか会わせてくれなくて」
虎太は道を歩いている私の隣に、当たり前のように寄り添った。その近さには、少し違和感があった。いつもより、なんだか近いように思えたからだ。
「あ。お祝いに来てくれたの? 私は、誰からも何も聞いていなかったけど……」
何か手違いがあったのかもしれないと首を傾げた私に、虎太ははーっとわざとらしく大きな溜め息をついた。不思議そうな表情をする私を見て、いつものように頬を人差し指で押した。
「だろうねー……あの海神。俺のこと、何も言ってないのかよ。花嫁にすりゃ、後はなんとかなるって? はーっ! まじでムカつく……まあ……良いか。こうして、雪風に会えたし」
「……虎太?」
にやっと不敵に笑った虎太は、戸惑っている私の肩を抱いて無理に方向を変えて進んだ。
「ねえ。雪風。そういう権力なんかに興味のない君は、何も知らないと思うんだけど。俺も猫又族の族長の息子でね。出来たら……雪風をどうにかして嫁にしたいなって思ってたんだ。雪女の君には、住むところの問題とかもあるから。親父がまだダメって言ってて……そんな事をしている内に、海神に横からかっさらわれた」
「えっ……虎太……待って。待って! 私。もう紫電さまの妻だから。もう……」
彼の言いたいことを察した私は、自分が既婚者であることを言おうとした。
「ははっ……けど、まだ雪風は処女だろ? 知ってるよ。俺たちあやかしの結婚は、肉体関係の成立も含まれる。だから、まだ……間に合うんだ。雪風」
「待って……何で知ってるの?」
私はその辺りで、背筋にゾッとするものが通り抜けた。あんなに親しかったはずの虎太が怖い。肉体関係のあるなしなんて、こうして目に見えてわかるはずないのに……なのに。
「海神だなんだと持ち上げられているあいつも、全く真逆の属性にある山の中にあれば、自分の能力は半分以下だ。そして、猫又の俺はこういう山の中では絶好調。そして、人の夢を操るのって……俺は凄く得意だから」
「嘘! もしかして、虎太が……虎太が全部?」
不穏な流れを感じた私は慌てて虎太から身体を離そうとしたけど、ぎゅうっと肩に回された腕に力を入れられて逃げられない。
「はは。そうなんだよねー……そうそう。海神って言っても、大したことないよな。夢の中で妻をどんなに抱いても、意味などないのに」
この前に私の夫となった紫電さまをせせら笑うような、虎太が信じられなかった。
私と虎太と知り合ったのは雪で道が見えなくなって迷っていたのを、彼に麓まで送り届けてあげたことで始まった縁だった。
それからも折々に頂上付近にまで私を訪ねて来る可愛い彼に、親切にしたつもりだった。まさか、私の結婚を知ってこんなことをするなんて思わずに。
「ひどい! そんなことしても……私は、虎太と一緒になったりしないわ! だって、私が好きなのは、紫電さまだもの!」
紫電さまは、とても優しく穏やかな性格だ。海神の地位を持ち整った容姿を持つというのに、全く奢ったところがない。女性が、好きになってしまう要素しかない。
「……さっきも言ったけど。もし、俺と肉体関係結んでしまえば、あいつの正式な、嫁にはなれないよ……雪風」
無理に歩かされる私の前に広がる緑茂る森は、もうすぐそこだ。焦げ茶色の丸い目の奥は、昏い。
「やめて……私はっ……」
泣きそうになりながら腕の中で藻掻くけど、彼との力の差は埋めがたい。
「か弱い雪女なのに、猫又の俺から逃げられると思ってるの? 無理だから、諦めなよ」
「僕の妻から手を、離してくれないか。すぐにでも、殺してしまいそうなんだ。朝体調が悪そうだったから、心配して帰って来て良かったよ」
いきなり背後から聞こえた言葉に、私と虎太は振り返った。そこには彼の仕事場である、遠い海に居るはずの紫電さまが居た。彼の名の由来となった紫の瞳に宿る、強い怒り。
「紫電さまっ……」
助けに来てくれた彼の方向に行こうとした私をそうはさせまいとして、虎太は肩をぐっと掴んだ。
「嫌だね。雪風は俺の嫁になるはずだったんだ。それを、横から奪いやがって。海神だかなんだか知らねえけど、俺にいやらしい夢を見せられて喜んでんじゃねえよ」
そう言われて、紫電さまは目に見えて顔を赤くした。
「いやらしい……夢?」
私は虎太の言葉を聞いて、ぽかんとした。今思えば、いつも隣で健やかに眠っていた紫電さまは虎太に夢を見せられていたって言ってた。
私と……そういうことをしている夢を?
「雪風に夢の内容を言えば、すぐに殺すよ」
殺意の籠った声を出した紫電さまに、私は驚いた。彼のこういった面を、今まで見たことはなかったからだ。
けれど、そう言われてしまうと、内容が気になってしまうのは仕方がない。私はちらっと傍に居た虎太を見た。虎太は紫電さまの反応を楽しんでいる様子で、ははっと大きな声で笑った。
「はいはい。海神のあんたは、山の中では半分以下の能力しか出せないもんなー? その状態で、雪風を傷つけずに俺を捕らえることが出来るならね」
挑発するようにした虎太は、私を抱えたままで近くにあった木の枝に飛び乗った。
「……紫電さまっ!」
咄嗟に立ち竦んでいる紫電さまの方に手を伸ばした私に、呆れたような様子で虎太は言った。
「あいつ。確かに顔は良いけど、変態だけど良いの? 雪風」
私は、一瞬黙ってしまった。へんたい……へんたい……あんなに優しそうで、真面目そうなのに……美形なのに、変態……。
「良いのっ……! 私は紫電さまが好きだから、変態でもなんでも好きなのっ……! もう、虎太邪魔しないでよ!」
私がそう言った瞬間に、いきなり強い光が満たされて、そこに居たのは空を飛ぶ龍。うねうねとした動きで、枝を飛び移る虎太とその腕に抱えられた私を追って来る。
「わ。やば! 龍化しやがった! くっそ。あいつにムカついてたから、言い過ぎた……あー……また迎えに来る。雪風。またな」
そう言って虎太は、私をストンと地面に立たせた。大きな手で頬に触れて、俊敏な動きで去って行った。
「雪風……」
私を目の前にして一瞬の内に人型へと姿を変えた紫電さまは、とても複雑そうな様子だ。
「紫電さまって……変態だったんですね」
私のしみじみとした言葉を聞いて、彼は目に見えて大きな衝撃を受けた顔になった。
「う……違う。なんだか、おかしいとは思った。処女で大人しい性格の雪風があんなこと……そうだ。僕もなんだかおかしいとは、思っていたのに……」
「夢の中で、私としていたんですか?」
私がクスっと笑ってそう言えば、紫電さまは情けなさそうな顔で頷いた。
「あの猫又に……まんまと、してやられてしまったようだ。婚礼の頃から、君も満足してくれているものだと……浮かれていた僕の不覚だ。本当にすまない」
私はゆっくりと、紫電さまの元へと進んだ。背の高い紫電さまは、見上げないと顔が見えない。けど、それも少し長めの前髪が邪魔をしていた。
私は彼の綺麗な紫色の目を見たくて、前髪を手で払った。泣きそうな顔。完璧な彼のこんな落ち込んでいるところを見て、私がガッカリしたかと言われたら真逆だった。
可愛くて……もっと彼のことが好きになった。
「紫電さま……私、紫電さまに嫌われているかもしれないと思って……理由を自分から聞いたら良かったのに。今まで黙ってて……すみません」
「いや、僕も悪かった。いくら……腕の良い術師に騙されていたとは言え……」
慰めようと思ったのに、また紫電さまはしょんぼりとしてしまった。どうしたら良いかな……そう考えて、私は彼に提案した。
「紫電さまって、変態なんですよね? 今から私とそういうことしたら、喜びます?」
「っ……無理! あれは、夢の中で雪風がしたいと言うから……」
「紫電さまは、したくなかったんですか?」
私の真っ直ぐな視線に耐えられなくなったのか、紫電さまは崩れ落ちるようにして座り込んだ。
「……この話は、また今度にしよう。もう色々と、精神的に瀕死だから……これ以上は勘弁して……」
「はい。旦那様。もう、おうちに帰りましょう」
がっくりと落ち込んでしまった紫電さまに、私はクスクスと笑って手を差し出した。
Fin