第8話 真実
見舞いの当日、虎徹は夏美の運転する軽自動車で、美雪が入院している山の手総合病院へとむかっていた。
「今日は本当にありがとね。時間を作ってくれて」
「いえ、こちらこそありがとうございます。わざわざ迎えにきてもらって」
もともと虎徹は、地下鉄を利用して一人で美雪を見舞うつもりでいた。しかし、夏美の申し出を断りきれず彼女の世話になっていた。
車内では、明るく話し上手な夏美のおかげで会話が途切れることはなかったが、虎徹にはどうしても聞いておきたいことがあった。
赤信号で車がとまり一瞬の空白が生まれる。そのタイミングで、彼は夏美に話を切りだした。
「あの、僕が家にお邪魔して勉強を教えてもらっていたことって、美雪さんの負担になっていませんでしたか?」
夏美の表情からそれまでの明るさが消え、車内に静寂がおとずれる。
「やっぱり気にしてたんだね。大丈夫だよ。負担になんかなってない。それはわたしが保証する。鈴木君には、むしろ感謝してる」
「感謝ですか?」
「そう。感謝」
夏美はその言葉を続けて口にしたが、虎徹には自信がなかった。
「僕は、感謝されるようなことなんて、なにもできていません。ただ美雪さんのお世話になるばかりで……」
「そんなことないよ。鈴木君がきてくれるようになってから、美雪はずいぶん明るくなった。あんな楽しそうな美雪を見るのはいつ以来かな……」
彼女の瞳は、はるか遠くを見つめていた。
「だから、鈴木君さえよければ、これからも美雪となかよくしてやってよ」
夏美は、いつものような明るい笑顔をうかべる。彼女の言葉と笑顔は、虎徹の心のなかの罪悪感と自己嫌悪感を優しく溶かしていった。
「こちらこそ、よろしくお願いします」
感謝の気持ちをこめて、虎徹は深々と頭を下げた。
少しの間、二人の会話は途切れたが、先に話を切りだしたのは夏美だった。
「この前の電話で、わたしが車で迎えにいく。って申し出たとき、ちょっと不思議だと思わなかった?」
「じつは思ってました。山の手総合病院って、場所的に地下鉄でもバスでも簡単にいけますよね。わざわざ車で迎えにくる必要なんてないのに……。なにか理由があるんですか?」
「うん。もしかしたら鈴木君が、美雪のことで変に責任を感じてるんじゃないかと思ってね。それはちがうよってことだけは、美雪と会う前に、ちゃんと伝えておきたかったんだ」
「ありがとうございます。もう大丈夫です」
虎徹はもう一度深く頭を下げた。そんな彼に、再び夏美が問いかける。
「ついでにもうひとつ、聞いてもらえるかな……」
坂井さんの病状についての深刻な話かもしれない。急にトーンダウンした夏美の口調からそう感じ取った虎徹は、静かに気持ちを引き締める。
「これから話すことは、美雪には内緒にしてほしいんだ……」
「わかりました……」
それが、どんなに残酷で非情な内容でも動揺しないように、虎徹は膝元に置いた拳を強く握ってさらに気持ちを引き締める。
覚悟を決めた彼の視線の先で、夏美が静かに口をひらいた。
「じつはね……。美雪は中学時代から、鈴木君のことを知ってたんだ」
「は、はい?」
予想外すぎる夏美の言葉に、虎徹の声が裏返る。それと同時に、彼は中学時代の記憶を全速力で掘り下げていた。いつ? どこで会ってた? 忘れていたとしたら、失礼どころの話じゃないぞ!
しかし、美雪の姿は記憶のどこにも見当たらない。まったく思いだせない。ついさっき引き締めたはずの心は、音を立てて崩れていった。
「あの……、大変失礼なこととは思いますが、僕と美雪さんは、いつどこで会っていたんでしょうか……」
恐る恐る夏美の表情をうかがいながら、虎徹は正直に質問した。
「会ってはいないんだよねー」
あっけらかんとした彼女の答えが、虎徹をさらに混乱させる。会っていないのに知っている? なぜ? どういうことなんだ?
あからさまに狼狽し、それをわかりやすく表情にだしている虎徹を見て、夏美はこらえきれずに笑いだした。
「ごめんごめん! こまらせるつもりはなかったの。これからちゃんと説明する」
状況を理解できず狐につままれたような表情を見せる虎徹に、夏美はそのいきさつを話し始めた。
幼いころから病とむき合わされてきた美雪は、あらゆる物事をあきらめながら生きてきた。
そんな彼女には、甲子園で躍動する球児の姿がまぶしく見えたのだろう。夏美が気づいたときには、熱心にテレビで試合を観戦しながら、データを集めてあれこれ考える妹の姿があった。
やがて、美雪の関心は自分と同年代の選手たちへとむかい、彼女はあらゆる媒体から彼らのデータを集め始めた。
城東中の松沢恒翔や立青中の田村健也など、将来を期待される数々の有名選手たち。そのなかで、別な意味で美雪の目を引いたのが、強豪校である葛西橋東中のキャプテン鈴木虎徹だった。
ほとんどすべてのチームでは、中心選手がキャプテンをつとめている。しかし、葛西橋東中のキャプテンはレギュラーではなく、出場機会すらろくになかった。
どうしてこの人はキャプテンなんだろう? 鈴木虎徹という名前は、奇妙な存在として美雪の心に引っかかっていた。
「だから、二年生になって鈴木君が同じ高校にいるって知ったときは、かなりびっくりしたみたいね」
自己紹介のときに、美雪が一瞬だけ見せたおどろいたような表情。それは虎徹の見まちがいではなかった。
「同姓同名の別人の可能性もあったけど、野球部に勧誘されているのを見て、本人だって思ったみたい」
書類を届けたあの日、虎徹の中学時代の話を聞いた美雪は、納得した様子で「そういうことだったんだ……」と呟いた。
その言葉に違和感をおぼえていた虎徹だったが、いまならその理由がわかる。彼女はあのとき、ずっと気になっていた小さな謎の答えを見つけていた。
「きっとそのときは、データのなかの奇妙な存在としての鈴木君に、ちょっと興味を持っただけだと思う。でも、いまはちがう……」
「いまは、なんなんですか?」
「うまくいえないけど、精一杯努力したのに野球でも勉強でも大きな壁にはね返された鈴木君の悔しさは、痛いくらい美雪に伝わったんだと思う。あの子もずっと同じような目にあってきたから、きっと自分とかさなったんだろうね」
少し間を置いて、夏美は虎徹に謝罪する。
「ごめんね。あまり人に知られたくない話だったと思うけど、あの日の夜、美雪はずっと鈴木君のことを、わたしに話してたんだ。悔しかっただろうなって」
「いえ、気にしないでください。でも、美雪さんの苦労に比べたら、僕の味わった挫折なんて大したことないです」
それは謙遜ではなく本心からの言葉だった。たしかに、同年代の高校生よりは多くの挫折を知っているかもしれないが、虎徹は大きな壁を前にしてあきらめてしまったのだから。
「美雪さんは、いまも逃げずに病気とたたかっています。野球をやめて勉強も投げだした僕なんかより、ずっとずっと強くて立派です」
「それはちがう。美雪は逃げないんじゃない。逃げられないんだよ」
虎徹の言葉は、すぐさま否定された。
「強くて立派なんかじゃない。あの子はただ、自分の意思とは無関係に、逃げられないたたかいの矢面に立たされてるだけなんだよ……」
逃げられないたたかい。美雪が直面している残酷で非情な現実に、虎徹は言葉を失っていた。
「だからもう、美雪はボロボロだった。全部あきらめてるから誰ともかかわらない。テストのたびに無茶な勉強で上位をキープしてたのも、嫌いな自分を痛めつけるためだったと思う」
静かに淡々《たんたん》と、夏美は美雪の真実を明かしていく。
「でもね。鈴木君がきてくれたあの日から美雪は変わった。容赦ない現実の痛みを知っている鈴木君に、ほかの人とはちがうなにかを感じたんだろうね」
夏美の話が終わっても、虎徹は言葉を発することができなかった。けれど、頭の中で必死に考えていた。俺になにができるだろうか……。
美雪は、虎徹の苦い思い出を真剣に聞いてくれた。補欠というあだ名に憤ってくれた。つたない野球解説にも熱心に耳をかたむけてくれた。勉強もわかりやすく教えてくれた。
そしてなによりも、暗く無機質だった彼の世界に光を当ててくれた。
そんな彼女が、逃げることのできない残酷で非情な現実に、いまも傷つけられ苦しめられている。
無力でちっぽけな自分にできることなんてない。そんなことはわかっていた。それでも虎徹はひたすら考え続けた。
俺になにができるだろうか……。