第3話 夏休みの約束
客間にもどってきた美雪がお茶をそそぐと、溶けて角のとれた氷が、グラスのなかで小さく音をかなでる。
「どうぞ」
「あ、ありがとう」
虎徹は遠慮がちにグラスを手にしてのどをうるおす。美雪の笑顔を見たこともあり緊張はいくぶんやわらいでいた。
これからなにを話せば……。落ち着きを取りもどした彼はもう一度考えてみる。しかし、その必要はなかった。
「鈴木君。中学のときは野球やってたんだよね?」
意外なことに、先に話を切りだしたのは美雪だった。
「え?」
思わぬ問いかけに虎徹はとまどったが、彼女の質問はさらに続く。
「強豪の葛西橋東中でキャプテンだったんでしょ?」
「そうだけど。話したことあったけ?」
「直接聞いたことはないよ。ただ、教室で野球部に勧誘されているところを何度か見かけたから」
そういうことか……。虎徹はすぐに納得した。
入学して間もない時期から、彼はことあるごとにクラスメイトの春日晴人から野球部に勧誘されていた。美雪がそれを見ていたとしてもなんら不思議はない。
「いい加減あきらめてほしいんだけどね。俺は絶対に入部しないのに」
「頑なだね。なにか理由でもあるの?」
その理由を、虎徹は誰にも話したことはなかったし、これからも話すつもりはなかった。苦い思い出は、心の奥にずっと閉じこめておきたかった。
しかし、彼にむけられた美雪の視線には、好奇心が見え隠れしている。
坂井さんは理由を聞きたがってる。ほかに話のネタはないし、まあいいか。そのまま虎徹は、美雪の瞳にみちびかれるように心の内を明かし始めた。
「たしかに、坂井さんも知ってのとおり、俺は葛西橋東中の野球部でキャプテンだった。けど、補欠だったんだ……」
「ケガでもしたの?」
「いや、単純に実力不足。うちの中学ってうまい奴がたくさんいたから、レギュラー争いで勝ちのこれなかった」
虎徹の心の奥底で、悔しさがわずかに熱を帯びる。
「でもキャプテンだったんでしょ? 人望があったとか?」
「正直いってそれもなかった。あからさまに見下してくるチームメイトもいたしね」
おい、補欠! かつてのチームメイトの声が、彼の心にひびく。
「じゃあ、どうして……」
「ただの皆勤賞。葛西橋東中の野球部って、ほとんど休みがないし練習もかなり厳しくてさ。三年間休まなかったの俺だけだったんだ。それで、補欠ながらもキャプテンに任命されたってわけ」
「そういうことだったんだ……」
美雪が納得したように呟く。彼女の言葉に虎徹は小さな違和感をおぼえたが、その感覚はすぐに次の質問にかき消された。
「鈴木君は、どうしてそんなに大変な練習を一日も休まなかったの?」
「……甲子園にいきたかったんだ」
適当にはぐらかすことも考えた虎徹だったが、零れ落ちたのは本音だった。
「小学五年の夏休みに、兵庫に住んでる祖父母が甲子園に連れていってくれたんだ。とにかくおどろいたよ。テレビで見るのとは比べ物にならない迫力でね。すべてが大きくて力強くて熱くて、まぶしく輝いていたんだ」
「わたしもテレビで見たことはあるけど、実際の甲子園はそんなにちがうの?」
「全然ちがう! 本当に凄いよ甲子園は。それで、いつかあのグラウンドに立ってみたいと思って野球を始めたんだ。それから中学三年の夏までは、練習は大変だったけどひたすら野球に打ちこんでた」
「がんばったんだね……」
美雪の言葉には、たしかな温度と優しさがあった。
「ま、まあ、自分なりにね。でも、一度もレギュラーには選ばれなかった。努力はしたつもりだけど、もとから才能があるチームメイトにはかなわなかったんだ。おまけに人望もないのにキャプテンまで任されちゃって……」
キャプテンに任命されたときのことを、虎徹はいまでもはっきりとおぼえている。喜びなんて欠片もなくて、ただただ悔しくて虚しかった。
補欠なのにキャプテンかよ。そんな声が背後から小さく聞こえた。
「その頃からかな。口の悪い奴らに補欠ってあだ名をつけられたのは。虎徹と補欠って語呂がにてるからね」
無理におどけて笑う虎徹を、美雪は真剣なまなざしで見つめる。
「最低だね。その人たち」
静かに、けれど強い怒りをこめて美雪は言い捨てた。
彼女が見せた意外な感情に虎徹はおどろかされたが、まるで自分のことのように憤る美雪に救われた気がした。
「まあ、そういうわけで、あれだけがんばっても、俺の才能じゃ甲子園にいくどころか中学でレギュラーになることすら無理だったんだ。だから野球はもういいかな、と思ってね……」
野球部に入らない理由を説明し終えて、虎徹は後悔していた。
いくら話のネタがなかったとはいえ、勢いのままにつまらない自分の過去を語ってしまった。もっと明るい話題にするべきだったのではないか。
なんとか話の方向を変えないと。その焦りが、彼の奥底につもっていた感情をより露にしてしまう。
「でも、やっぱり悔しくてさ。野球がダメなら受験で見返してやろうと思って、そこから必死になって勉強したんだ。そしたら、テストのヤマが的中して、記念のつもりで挑戦してみた常陽学院に合格しちゃって」
言葉はさらに零れ落ちていく。
「合格したときは有頂天だったんだけど、入学してからは、いくらがんばっても授業のレベルに全然ついていけなくて。そのうちやる気もなくなって」
誰かに聞いてもらいたかったのかもしれない。
「今回の実力テストなんて、後ろから三番目の成績でさ。結局、持って生まれたものがなければダメなんだよね。野球でそれを思い知らされたはずなのに、勉強でもまた同じ目にあちゃってさ。ほんとバカだよ。俺って……」
虎徹がすべて話し終えるまで、美雪は彼の言葉に耳をかたむけていた。そして静かに口をひらく。
「そうだね。持って生まれたものって、本当に大きいと思う――」
虎徹の顔色が変わる。しまった! 心のなかで、彼は叫んだ。
「――初めから、ほとんどのことは決まっているのかもね。わたしも病気で、小さい頃からずっとこんな感じだし」
「ごめん! そんなつもりでいったんじゃないんだ!」
自分の浅はかさに気づいた虎徹があわてて言葉をかぶせる。しかし、彼を見つめる美雪の瞳に怒りや失望の色はなく、そのまま言葉が優しく続いた。
「気にしないで。がんばれとか大丈夫とか。そんなうわべだけの言葉よりもずっといいよ。鈴木君は嫌な思い出を打ち明けてくれたんだから」
「ごめん……」
虎徹はうつむいたまま顔を上げることができなかった。
いまも闘病を続ける相手を気づかうこともできずに、口にしてしまった軽薄な言葉の数々。虎徹はすぐにでも、自分自身を力のかぎり殴り倒してやりたかった。
「テレビつけていい?」
虎徹が顔を上げると、美雪はすでにリモコンを手に取りボタンを押していた。
テレビ画面に、聖陵学舎のエース松沢恒翔が映しだされる。彼女が選んだ番組は、甲子園の地区予選、東東京大会だった。
「このピッチャーの松沢君て、凄いんでしょ?」
先ほどから黙りこんでいた虎徹に、美雪が問いかける。
「いや、凄いなんてもんじゃない。中学時代に何度か目の前で試合を見たけど、同じ人間とは思えない。まさに別次元の怪物だよ」
「そんなレベルなんだ」
感心した様子で、彼女はさらに質問を続ける。
「でも、どうして彼は聖陵学舎に入学したの? 聖陵学舎も最近は野球に力を入れてるけど、甲子園をめざすなら首都第一とか日本橋学院とか、もっと強くて有名な高校がいくつもあるよね?」
「聞いた話だけど、松沢ってアメリカのメジャーリーグにしか興味がないらしいんだ。だから……」
「高校野球の過密日程で、肩を消耗させるのが嫌なんだね。肩は消耗品っていうのはメジャーの常識だもんね。聖陵学舎は、チームよりも松沢君の個人的な事情を優先させる。こんな条件をだして彼を入学させた。ちがうかな?」
虎徹がこれから説明しようとした内容を、美雪はスラスラと口にした。
「お、おっしゃるとおりです」
おどろきのあまり虎徹は思わず敬語を使ってしまう。そんな彼に、美雪は得意気な表情をうかべて話を続けた。
「やっぱりね。どうして松沢君が聖陵学舎に入学したのか。ずっと疑問に思ってたけど、メジャーリーグを志望しているなら納得できる。彼にとって、甲子園は第一目標ではないんだね」
ずっと疑問に思ってた。ということは、かなり前から関心があったのだろうか。それに、いつもはクールな表情がいまは生き生きとしていて、話す言葉にも熱さが感じられる。
虎徹は思いきって、美雪にたずねた。
「かなり詳しそうだけど……。野球、好きなの?」
「うん。まあまあ……」
ついつい夢中になって話してしまった自分に気づき、美雪は恥ずかしそうにうつむいた。そんな彼女に、虎徹は新たな話題を提供する。
「このキャッチャーは知ってる? 田村っていうんだけど……」
テレビ画面に映された選手を彼が指差すと、美雪の瞳が輝く。
「知ってる! 立青中の四番バッターだった。中学時代は、松沢君のライバルっていわれてたよね?」
彼女のテンションが上がり、二人の会話が加速する。
「そのとおり! こいつも中学の頃からかなり有名で、東京だけじゃなく日本全国の強豪校から誘いがあったんだ」
「だったら、なんで聖陵学舎に入学したの? ライバルの松沢君を倒すなら、都内の強豪校がベストな選択だと思うけど」
「いや。周囲はライバルあつかいしてたけど、本人は松沢にはかなわないって中学三年の時点で認めてたらしいんだ。だから田村は、松沢といけるところまでいきたいと思って、同じ高校を選んだんだ」
「そんな裏話があったんだ。ライバルが仲間になるなんて、映画やマンガみたい」
「だね。それに田村だけじゃない。何人もの有力選手が、同じ理由で聖陵学舎に入ったんだ。それだけ凄いんだよ。松沢の才能は」
「なるほど。力のある選手が聖陵学舎に集まったのには、そんな理由があったんだ。ちなみに聖陵学舎って……」
それからも美雪の質問は止まらず、虎徹がそれを裏話を交えて解説する。ぎこちない空気はすでに消え去り、二人は時間を忘れて野球談議に花を咲かせた。
「ごめん。書類を届けに来ただけなのに、長いことお邪魔しちゃって」
帰り際、玄関で靴をはきながら虎徹は頭を下げたが、本音をいえばもっと美雪と話がしたかった。
「こっちこそごめん。質問攻めして引きとめて。なにか予定とかなかった?」
「それは大丈夫。帰宅部の暇人ですから!」
少しふざけた調子で笑う虎徹を見て、美雪もやわらかな笑みをうかべる。
「それじゃ……」
美雪に背をむけて、虎徹はドアへと進んでいく。しかし、彼の心のなかでチクリと小さな痛みが走った。このまま帰っていいのか? いや、いいはずがない!
意を決して振りかえり、虎徹は言葉を切りだした。
「あの……」
「あの……」
二人の声がかさなる。
「なに?」
先手を取ったのは美雪だった。その瞳は、まっすぐに虎徹をとらえてはなさない。
「あ、あのさ……。も、もし迷惑じゃなければなんだけど、その、ほかの野球の試合も、今日みたいに解説しようか?」
断られるのは覚悟のうえだった。虎徹の全身を熱が駆けめぐり、顔は真っ赤に染まっていく。しかし、彼から視線をはずして考えこむ美雪を見て、早くも気持ちは揺れていた。やっぱりダメか……。
「じゃあ、わたしは勉強を教えるよ」
予想外の美雪の返答。理解が追いつかずに固まっている虎徹を見て、彼女は言葉をつけ加える。
「鈴木君はわたしに野球を解説する。そのかわり、わたしは鈴木君に勉強を教える。これでどうかな?」
「お、お願いします!」
それは夢のような提案だった。虎徹は、うれしさのあまりその場で飛び上がりそうになるのを必死にこらえた。
「じゃあ、これからもよろしくね」
彼の視線の先で、美雪は満面の笑みをうかべていた。すいこまれそうなその笑顔に、虎徹は心をうばわれていた。