第一章 コレって現実……?①
〜妄想 br lost in memories of one's childhood〜
×××の追憶
横断歩道。アスファルトの上に描かれた白線。太陽で焼けたアスファルトの匂いがするような気がした。陽炎と呼んでいいのかわからない小ささだけど揺らめいて見える。
六人のかたまりになって集団下校していた。みんなは「白いとこ以外踏んだら地獄行きだからなー」と、跳ねるように歩き、白だけを踏んで進んでいく。——信号機の赤が点滅。
黒白黒白黒白黒黒、ずれてめくれている白線があった。今までに剥げたり汚れたものは見たことがあったけど、これは初めてだった。大発見だ! ——信号が変わり青になる。
ソレが面白くてみんなに大きな声で呼びかけたんだ。信号はまた赤になっていた。声に気づいていないと思って、青に変わるのを早く早くと思いながらかけっこの準備をする。渡った先で待っていてくれているみんなの元へ走って行く。背中のランドセルが弾んで教科書や筆箱が踊り音をさせる。肩ベルトが走るたび食い込む。
「黒いとこ踏んでたから地獄行きだなー」そうじゃなくて、白い線が変で面白いんだよ、と力一杯いってみるけれど何も伝わらない。
そんなことを面白いと思うソレは“オカシイ”ことで“ヘンだ”とみんなに笑われた。たったそれだけのことで——は、変わっていったんだ……。
ヒトが怖い。言葉がイタイ。セカイが拒む。居場所がナイ。
どんどん追い込まれる。
雲に隠れていく太陽、湿った風が頬をなで、埃っぽい臭いが鼻につく。口は開けない。
彼女だけは「本当だ、こんなの初めて見たよ。大発見だね」と認めてくれた。否定しないでくれていた。
でも、もうダメだった。
嫌なリズムで心臓が脈打つのがわかって、そこから気分は急降下、手で押さえ込みきれず吐いた。
「うわっはは! こいつゲロってやんの」「ははははっ、バカじゃないの?」「気持ち悪いからこっち来んなよ」「大丈夫?」「いいからもう行こうよ」「げぽっ……ま、まってよ」
みんなの姿が離れていく。横断歩道の一部になってしまったように動けない。
ずれた白線は、自動車や自転車、ヒトに踏まれて汚れていく。
そのうち張り替えられるのだと思う。
道路ならそうだけど、
ヒトならどうなるの……?
薄暗く見通しの悪い、見知らぬ廊下の真ん中にワタシは突っ立っていた。慌てて頭を動かし事態を把握しようとする。そんなに幅は広くない。左手を伸ばせば届きそうな距離に教室の扉らしきものと靴箱が並んでみえた。右手には、埃か何かで黒くなって外が窺えそうにない木枠の窓が等間隔で続いている。どうやらどこかの学校にいるみたいだ。そう思うと少しばかりだけ冷静になれた。だからといってまだ緊張は解けず、声を出す気にはなれない。耳を澄ましてみる。
静かすぎる廊下。
ここがどこなのかはっきりさせたくて、誰かいないのかと一歩を踏み出す。ぎしりともいわない。誰の声も自分の歩く音さえも聞こえず、甲高いノイズ音のような静寂さがかろうじて耳を刺す。
どうしてもここにいる理由がわからない。
街で配られていたパソコンゲームの体験版を手に入れたのは覚えている。帰路を急いで、部屋着に着替えることもせず、電源を入れっぱなしのパソコンにロムを突っ込む。名前は【ユイ】と登録し他の設定も決め、プレイし始めたはず。なのに、どうしてこんな格好でこんなところにいるの?
六月に入り制服は合服へと替わりはしたけれど、遊びに行くときにまで制服は着ていない。自分の腕を伸ばして見てみる。白い袖に紺色の袖カフス。えんじ色のスカーフがよれていたので直そうと背中に手を回す。ついでにめくれていたセーラーの襟も何とか調整する。
「どうして、こんなことしてるんだろう」
思わず心の中に沸いた疑問が声となって出た。すると一瞬途切れていた思考はまた悩む方向へと傾いていく。
ここは夢の中なんだろうか。体験版で遊んでいる最中に寝てしまってこんな状況にいる? ありえない話じゃない。明晰夢っていうのかな? カラーで五感がある夢を見るのだから、なんらおかしいことじゃない。夢は夢として楽しめば——
ガタガタガタガタガタガタガタガタガタガタ!
「い、今のって、な、何?」
窓が風であおられて揺れたにしては激しすぎる震え。続いて聞こえた音は、濡れた裸足でフローリングの床を歩いたような、粘着質なモノを想起させる。
これ以上考えるのは嫌だ。知りたくない、確かめたくもない。なのに、意志に反して音がした方向へと体が向かされていく。
せめてもと目を瞑ろうとするが、閉じようと思えば思うほど見開いていく。かろうじて自由の利いていた頭でさえ「コレヲ見ロ」と固定し直される。
目に飛び込んでくる、視界に入りきらないほどの異常。さっきまでは頭が他のことに気をとられていたため気づかなかった。廊下の板張りに壁や天井、あちらこちらにある校舎ではまず見たこともない手形や足形のペインティング。先生が採点の時に使う赤色よりはずっとどす黒く、血の色を思い出させた。匂いは不思議としない。
視覚から入る情報に処理が追いつかない。
ぬちゃ……ねちゃ……
ぺたぺたぺたぺたぺたぺたぺたぺたぺたぺたぺたぺたぺたぺたぺたぺたぺたぺたぺた!
まだ体のコントロールはワタシ以外の何かに握られたまま動けずにいる。聴覚を頼りにせめて何が起きているのか知ろうとする。些細な抵抗。
遠くの方から音は始まった。四つん這いの何かが走り抜けたような音。そう、音だけ。姿は見えなかった。何かが確かに通り過ぎていく風が吹き抜けるような感触があったのに、気配も何もしない。
これはいったいどういうことなの!? 声を張り上げたつもりが口は閉じたり開いたりしただけだった。
恐怖よりも何よりも、理解できない状況にいることが耐えられない。そういう気持ちに支配されているうちは怖くないと自分でも、いい訳じみた感情だと思っている。
自分の心の内なんて自分にしかわからない。
どこからかメロディが聞こえてくる。おどろおどろしくも滑稽さを孕んだクラシック調。
頭の中だけで響いているのか、実際に流れているのか判断がつかない。現実味が失せていく。
奥は暗くなっていて見通せない廊下。仕方なしに見ていると目の前に現れた——
【Switch Back〜転換〜】
という文字。
天井から看板がつり下げられているわけでも、壁に書かれているわけでも……ない。
ホラーゲームのロゴのような不吉な気持ちを抱かせるフォントが浮かんでいる。涙を流すように文字からは赤い液が滴っていた。
「わ、わけがわからない。夢なら夢で早く覚めてよ!」
いつの間にか自由になっていた体に力が入る。願いを聞き入れてくれたかのように文字は溶けるように霧散した。せっかく動けるようになった体の力が、途端に抜けそうになったのも束の間。
後ろから視線を感じた。思い切って振り向くと、よくイラストで見るような悪魔の羽根を生やした黒猫がいた。この変わった猫も浮いていて、顔の高さと同じぐらいのところにいる。
……さっきまではいなかったはず。
そうだ、そんなことを気にすることはないんだ。だってこれは夢に決まっているんだから。目覚めれば終わり。もう、終わり。
起きたらまたあのパソコンゲームの続きをしよう。日常の続きを。
そんな風に考えて居直ってしまっていたからか、軽々しく、でも当然のように、黒猫に話しかけてしまった。
「黒猫さん、こんにちは。『素敵な羽根』だね」
言い終えるか終えないか、足下から風が舞い起こった。一瞬遅れて、めくれあがったスカートを押さえる。窓も開いていない建物内でざわっと吹いた風。
空気の質、雰囲気が変わった気がした。聞こえてきていた曲がポップでコミカルなものになっている。
「やはり貴方ならそう言ってくれると思っていましたよ」
愛らしい見かけと裏腹に低音ハスキーボイス。猫が喋ることに違和感を持たなかった。それよりも見透かされたような気がして心が落ち着かない。何故だか期待を込められた一言に戸惑い、動揺を隠すことなくぶつけた。
「やはりって何? どういうこと? 何を知ってるの!?」
「くっくっくっ……。貴方はまだ自分に気づいていない。では、ワタクシが貴方を誘うこの世界の入り口と化しましょう」
答えははぐらかされたまま、愉快そうに笑う黒猫。片方の前脚を手に置き、ぺろりと一舐めしてきた……!
反射的に手を引っ込める。
その動作すら予想通りだったらしく、くくくと声を殺し、ごろごろ喉も鳴らし、嗤うのだった。
ネットか何かで見た情報が一瞬思い出される。
猫は母猫に甘える時だけではなく、不安な時にも喉を鳴らすという……。
「い、今のいったい何! 何か知ってるなら教えてよ!」
虚勢を張ったつもりが懇願しているようにしかならなかった。声を荒げて優位に立とうとしたのに。けど、それが無駄な努力だと思い知る言葉を聞く。
「ワタクシのことはどうか【クロネ】とお呼び下さい。貴方の登録ネームは……今回は確かそう【ユイ】と登録なさっていましたね?」
「っ……………………!!」
にやりと、クロネが口元を歪めたように見えたけど、思わず目をそらしたのでわからない。たとえ本当に猫が口角をあげて笑っていたとしても、気にならなかった。
……どうしてっ!? 体験版のゲームで気まぐれに登録した名前を!?
本当にここは夢……?
夢なら早くっ……!
クロネが視界に入り、目が合う。
「そんなに怖がらないで下さい。この口調がお嫌ですか? ならば貴方好みに話しましょう。くっくっくっ」
怯えているのが満足らしく、自分だけが知っている面白いとびきりなものを独り占めしているような顔つきで、嘲笑混じりに説明し始めた。
ここはゲームであり現実であると。
「今のユイの目的、クリア達成条件はひとつ。『仲間を一人作ること』だね」
「…………」
全く意味がわからない。
そもそも、コレが現実? このありえない状況が?
でも本能はちゃんと理解しているようで、手も脚も震えて、歯の根が合わない。長袖を着ているというのに寒気が止まらない。思わず腕で自分を抱きしめた。
「くれぐれもゲームオーバーには気をつけてね。そこでオワリになってしまうから」
クロネは勇気づけるように軽い口調でこう告げた。内容とはそぐわないトーンで。
「……ぇ?」
声になっていたか自分でも聞き取れないぐらいの小さな声が出た。聞いてはいけない不穏な単語を耳にしたような気がして。だから聞き返したのは無意識。詳細を知りたかったわけではない。
「この世界はゲームであり現実。だからこの世界での死は真実の死。そんなつまらないことは僕は望んじゃいないから、それなりにサポート役をやらせてもらうよ」
目が覚めればという思いは消えない。まだクロネのいうことを全て信じられるほど、この世界を現実だとは考えられなかった。だけれど、他にどうすればいいのかもわからない。
悪魔の羽根の生えた不思議な黒猫は得体が知れないけれど、今はいうとおりにするのが良いのだろう。
決意というには及ばない弱い気持ちに後押しされて、クロネと一緒に、この世界を進めていくこととなった……。