十字架の雲
これは、とある人から聞いた物語。
その語り部と内容に関する、記録の一篇。
あなたも共にこの場へ居合わせて、耳を傾けているかのように読んでくださったら、幸いである。
うーん、今日はまた雨がちらつきそうな、微妙な天気だねえ。急に寒くなってきたし、さすがに11月が近づいているのを感じるよ。
つぶらやくんは、涼しい方がいいんだっけ? この曇りの天気なんかちょうどいい具合なんじゃないかな。かっかと太陽が照ることなく、かといって降り注ぐ雨に、気をわずらわせずに済む。過ごしやすさという点だと、全天候中で一番じゃないかな。
――ん? ついこの間まで、「晴れこそが至高!」とか話してなかったかって?
うん、確かにそうだね。
けれど、あれから晴れにまつわる、少しおかしな話を聞いてね。自分の中じゃ歓迎ランキングが下がっちゃっている。
つぶらやくんの好きそうな話だったからね。ちょっと聞いてみないかい?
僕のおじさんが体験したことになる。
子供の頃のおじさんは空を眺めることが好きでね。少し時間を見つけては、地面に寝そべってのんびり自分の上を行くものたちを、見守っていた。
夜は星座のまたたきに、おじさん自身も目を輝かせる。日中は空に浮かぶ雲たちを眺めて、想像を膨らませた。よく覚えているもののひとつに、積乱雲がピラミッド状に、ギザギザしながら立ち上っている様があってね。まるで重ねた座布団のように見えたって話してたよ。
僕も雲を見たことがあるけど、何とも発想力が貧困で、でっかい綿菓子だとか、ソフトクリームだとか、食べ物ばかり想像しちゃって仕方ない。
そしてある日曜日。
おじさんがいつもするように、空き地の土管で寝そべって空を眺めていた。
珍しい秋晴れで、今朝がたから青々とした空が広がっている。それが午後になると、西の空から少し不思議な形をした雲が、流れてくるのを見たんだ。
ひとことでいうなら、十字架の形をした雲だ。縦と横がうまい具合に重なり、ファンタジーに出てくるつばつきの剣を思わせるいでたちで、空をずんずんと進んでくる。その雲しかないために、「上空はかなり強い風が吹いているんだな」と、おじさんは考えつつ、頭上を横切っていく雲をのんきに眺めていた。
ところがもう一度西の空を見ると、同じ形をした雲がまた湧き出していたんだ。大小さまざまの形に分かれ、でも同じように切っ先を東へ向けて流れていく。
これだけの数があれば、途中で交わる雲同士がちぎれたり、合体したりして形が崩れ始めるものがあっても、おかしくない。それが彼らは、艦隊が列を成しているかのように、自分の体にも、互いのスペースにも、一糸の乱れもせずに頭上の空を渡っていく。
この手にカメラがあったなら、確実におさめていたっておじさんは話している。初めて見る不思議な光景は、昼から夕方にかけて断続的に続き、あわせて30本ほどを目撃したのだとか。
学校でも、クラスの一部で例の雲の十字架を見かけたという声があがる。たいていはおじさんが見たように、西から東へ飛んでいったというものに終始した。
でも、あるひとりが話した内容に、教室に少しどよめきが走る。彼はおじさんの家とは反対方向。山にほど近い場所にある家へ住んでいた。
「あの雲、一本がウチの山をかすめていったんだぜ」
彼がいうには、ベランダから例の雲を眺めていたところ、午後3時過ぎあたりに、雲のひとつがにわかに大きくなってきたらしいんだ。他の雲たちを覆うくらい大きくなりながらも、スピードを上げた十字架の雲は、友達の家の背後にある山のてっぺん近くを通り、かなたへ飛んでいってしまったとか。
興味を持ったおじさんは、そのクラスメートと一緒に件の山へ近づいてみる。
何度か登ったこともある山だった。しばらく見てはいなかったけれど、友達と一緒に近づいていくそのてっぺんは、中腹までとは打って変わった禿げ上がり具合を見せている。
これはおかしいと、友達とさっそく山を登り出したよ。子供の足でも、急げば一時間程度で登り切れてしまう小山だ。降りる時間も考えると、ちょっと周りが暗くなってしまうだろうけど、まさか遭難することはないだろう。
友達も同意見で、おじさんたちはランドセルを背負ったまま、山をずんずん登っていったんだ。
けれども、その日の山は少し様子がおかしかった。
いくらも歩かないうちに、上の方で蚊の羽音を思わせる空気の震えがする。構わずどんどん登っていくと、やがて羽音は銅鑼を鳴らすような、長鳴りへと変わっていく。
除夜の鐘を打つため、お寺の境内で列に並んだことを思い出させた。一歩ごとに増してくる振動は、鼓膜だけじゃなく地面を、おじさんたちの身体をぶるぶる震えさせていく。
でも、おじさんたちに恐れはなかった。むしろ、これまでなかった体験に、何が待っているのかと胸をはずませて、木立の間を抜けていく
やがて視界が開けると、目の前に大きな薄茶色の塊が姿を見せる。一瞬、はげた山頂の肌かと思ったけれど、違う。
校庭隅の築山を思わせる大きな図体。その表面には、渦巻いた練り飴をそのまま塗りたくったような縞の数々が、うねりのままに浮かんでいる。そしてところどころに空いているのは、おじさんたちの頭がすっぽり入ってしまうほどの大きな穴。
おじさんはこれをずっと小さくしたようなものを、見たことがある。かつて家の軒先に作られ、業者に処理を頼んだスズメバチの巣。それとそっくりの容姿をしていたんだ。この大きさとなれば、当然、中にいる奴らも……。
「早く逃げよう」
小声で友達に提案するも、当の友達はというと、開けた空を一心に見上げている。なおも袖を引っ張って注意を促すと、かえって空の一点を指し返してきたんだ。
おじさんが見上げたところ、昨日見た十字架の雲が浮かんでいた。
けれど、今回はどんどんと大きさが増していく。指でつまめそうな大きさが、あっという間に手のひら、両腕、身体全体、それ以上と、あっという間に巨躯となるや、ぐらりと傾いて、切っ先がおじさんたちの方を向いたんだ。
今度こそ友達も反応した。二人して元来た木立の中へ逃げ込むのと、例のスズメバチの巣のてっぺんに、雲の十字架が突き立つのはほぼ同時だったとか。
刺さった端から、十字架は文字通り霧散してしまったけど、効果はあったらしい。
これまで何度も聞いてきた、銅鑼や釣り鐘を思わせる音声が、いっそう大きく響き渡る。悲痛ささえ感じるその色に、おじさんたちは耳を塞ぐも、それを抜けて身体を揺さぶられた。
そしてあの巣の一穴から、にゅっと勢いよくのぞいたもの。ほんの一瞬だけ見えたそれは、顔の両脇に大きなエリを広げる、長く白い蛇の姿だったんだ。おじさんたちがまたがれそうな、太い太い胴体を持っていた。
その姿が、巣ごといっぺんに消える。いや、厳密には一瞬で霧と化したんだ。
その場でぶわっと広がった霧は、波のように周りの木立へ押し寄せ、隠れていたおじさんたちの身体をしとどに濡らした。瞬く間に濡れ雑巾となってしまったおじさんを置き、霧は今度は高度をますます上げていく。
高さとともに黒みを増し、広がりを増し、おじさんたちの見上げる先を覆い続けたそれは、まだ残っていた陽光を完全に隠してしまう。一足早い夜の訪れに、おじさんたちはぐしょ濡れのまま、そそくさとその場から逃げ出したんだそうだ。
夢中で家に帰り着いたおじさんたちは、次の日。自分たちのいた山の真上に、めったに見られない積乱雲が浮かんでいた話を、ちらほらと耳にした。
山の上に乗っかり、天まで届かんばかりに身を膨らませたその姿は、まさに「竜の巣」のようだったとね。