Who wanted such a world? ③
《第四次印パ戦争-停戦》ありふれた名前の男
その男は、第四次印パ戦争の最中の2089年9月28日にパキスタン首都イスラマバード市内の小さなイスラム礼拝堂に現れたという。
「ムハンマド」というありふれた名前以外の確かな記憶を持たぬ男は、法学者や神学者をも凌ぐイスラムに関する知識と、その身に纏う穏やかな雰囲気が近隣住民の話題を呼び、僅か一月後の11月には市内の有力者達多数に推挙される形で、非公式ながら大統領に様々なアドバイスを行う政治顧問のような地位に就いたことが記録に残っている(注1)。
印パ戦線膠着の最中の2089年12月、突如パキスタンは単独でEUを仲介役とした停戦交渉をインド同盟軍に呼び掛けた。占領下にあったデリー市を解放し、軍を元の国境線まで後退するとした譲歩を見せるパキスタンに対して、インド同盟軍は2090年1月6日に停戦合意。
第四次印パ戦争(2086.8-2090.1)は3年半という長きを経て一応の収束を迎えたのだが、梯子を外された形になった中華人民国三軍区はインド同盟軍との停戦には応じず、主戦場は南シナ海へと移行した(注2)。
また、国境と戦争原因となったカシミール地方には、仲介役であったEUが停戦監視機構として欧州軍を駐留させることが停戦協定に盛り込まれたのだが、前世紀よりカシミール地方への領土的野心を持つ中華人民国蘭州軍区は欧州軍に対し躊躇なく軍事行動を選択、インド亜大陸に対する影響力・発言力を確保する思惑で仲介役を買って出たEUは予期せぬ大損害を受け、欧州理事会は停戦監視機構の撤収ではなく追加派兵を決定、以後EUはインド亜大陸における紛争当事国へと躍り出ることになる。
《パキスタン-中東外交》イスラム経済圏構想
敬虔なイスラム信徒であるが有能な政治家とは言い難いパキスタン首相ユスフザイが、停戦後に優先して取り掛かったのは中東諸国への精力的な歴訪であった。インド寄りであった中東(注3)に対して、イスラム教国による巨大経済圏の確立の意義と必要性、民族対立や宗派対立によってイスラム教国同士が争うことの無益さを辛抱強く説いて廻り、中東以外のイスラム教国にも同様のメッセージを発信し続けた。そのパキスタン首相の外交努力は、長年不倶戴天の関係であったスンニ派とシーア派の唐突な歴史的和解や、WW1以降西欧諸国の思惑によって隣国同士に不幸な関係がもたらされていた中東の新たな秩序構築に繋ったとされる(注4)(注5)。
2092年、巨大なオイルマネーを主軸としたインドネシア~アフリカに渡るイスラム経済圏〈イスラムベルト〉構想が本格化し、その象徴として化学兵器汚染により不毛の地と化した遺棄国家の再生計画までもがスタートした。
いつの時代にあっても”火種”を抱えていた中東地域の安定は、世界に『希望』を感じさせ、新たな時代の到来を予感させた。
それがアラビア半島でかつて《最後の預言者》が成し得た業績の延長線上にあることに、世界の誰もが気づいていなかった。
《EUとイスラムベルト》不正規戦の季節
21世紀のEUは、欧州難民危機を発端とする断続的な難民・移民の流入(注6)が原因で治安は極度に悪化、難民政策に大きく予算を割かざるを得ない状況が常態化し、国際社会に対する影響力は低下の一途を辿っていた。それに加え、カシミール地方での紛争の泥沼化、さらに〈イスラムベルト〉という名の巨大経済圏の出現はEU加盟国を震撼させた。ただでさえ経済活動の落ち込みが著しかったこの時期のEUは、外貨獲得をトルコやUAEを筆頭とする中東に大きく依存していたからである。当然の様に”自分達が中東の混乱を散々煽り利用してきた報い”だとは誰も考えないEU首脳陣は、〈イスラムベルト〉構想の切り崩し工作を開始した。既に『外套と短剣』の国イギリスがEUを離脱して久しいが、フランスやドイツといった大国や旧東欧諸国が政治工作や不正規戦を不得意としているわけではなく、ほどなく停戦監視機構に紛れ込ませた諜報員によりムハンマドを名乗る謎の男の存在が知られることになる。その謎の男はパキスタン首相の外交に必ず随行し、既に〈イスラムベルト〉参加予定国の国家元首、宗教指導者、民族代表者との確固たる人脈を持つという事実に突き当たった時点で、EUによる特殊工作の《第一標的》とされたが、パキスタンの総理大臣官邸から外出することすらない”謎の男”を拉致や事故で消すことは容易ではなく、作戦立案は困難を極めた。
〈イスラムベルト〉の象徴としてシリア復興記念式典も近づく2092年10月、ある組織が秘密裏にフランス対外治安総局と接触を図り、具体的な計画を携えEUの特殊工作に対する援助を申し出た。
その諜報機関とは――イスラエル諜報特務庁であった。
注1:ほぼ同時期のサウジアラビアやイランにおいても「ムハンマド」という出自不明の男が政府活動に関与しているが、記録に残る人種的身体特徴から同一人物でない。
注2:停戦によりパキスタンと中華人民国との関係は極めて悪化することになった。南シナ海での戦争は広州軍区と米国・英国・オーストラリア・日本間での航空機と艦艇の磨り潰し合いといった様相を見せ、最終的には海軍力に勝る〈ダイヤモンド〉同盟側が潜水艦による広州軍区主要港の海上封鎖に成功、戦況は膠着状態となった。
注3:21世紀初頭の中国の対インド包囲網に対抗する形でインドと中東の関係強化が行われ、友好的な関係を築いていた。
注4:後年、功績を讃えられたパキスタン首相ユザフサイはノーベル平和賞を受賞している。
注5:パキスタンを仲介として行われた中東諸国間の秘密交渉では、綺麗事だけでなく経済力や軍事力を背景にした恫喝や宗教的密約といった事が盛んに行われた。
注6:2040年代のシリア放棄、2060年代のイスラエルによる”パレスチナ問題の永久解決”で発生した難民は2000万人を超え、EUには最終的に約600万人超の難民が流入したとされる。