3日目(1)
三日目
私は、狼の遠吠えに起こされた。
頭から足先まで連鎖的に起動していく身体で、周囲の状況を確認するために目を開けて耳を澄ます。
しかし騎士隊のものだろう、土に足跡を付ける音は複数聞こえ、そのどれもが焦りが見られるほど早く、即座に戦闘へ移行する状況の可能性を多分に含んでいると判断した。
そこでわたしは無駄な集中力を使うものか、と剣を握って戦闘モードに入る。
テント内には、私同様に遠吠えで警戒態勢を取っていたラインハルト。加えて私の足元には、寝ぼけまなこのイリーナと未だに寝たままのリルがいる。
「イリーナ、リル。起きて」
私は強く肩を揺らして起こした。疲れているところ申し訳ないが、何かある前に起きて頂こう。
昨日は暗く気づかなかったが、移動式住居のゲルに近い形をしたテントの中は乱雑にものが置かれ、そのどれもが古びていることに気づいた。
──前線は前線で厳しい状況なのね……。
そう思うには十分だ。無事に卒業した暁にはどうにかここにも費用を充ててあげたいと情をかけたくなる。
「外へ行きましょう、アリス」
「ええ」
ラインハルトに促され、即座にテントから脱する。
──まだ暗い……。
外では、多くの防具を纏った騎士隊員が剣を握り、一方へ向かっていた。そこで、一人の騎士隊に声をかけ、事情を聞くと、
「さっきの遠吠えは魔獣が攻めてくる一つの合図。これから大量の魔獣がここを襲うんだ! ……しかも、あの遠吠えは恐らく《ループス》。狼型の魔獣だが、奴らは動きも早く息を潜めて動く。注意しておけよ!」
そう丁寧に説明をしてから走って去って行った。
「どうします、アリス?」
「…………魔石を集めに来てるんだし、私たちも行きましょう。この周辺にそのループスとかいう魔獣が溢れてるのなら、詳しい対処の仕方も分かるかもしれない」
ラインハルトは私の言葉に頷いて、
「それじゃあリルとイリーナを連れてこないと──」
その言葉の波形が鼓膜をゆらした瞬間、反射的に腕を前に差し出してラインハルトを制止する格好をとる。
「私が起こしてくるわ。少し目を離した隙に何かされたら困るもの」
私はそう冗談めかして言うと、ラインハルトは「ははは」と身体をくの字に曲げて大げさに笑ってから、
「ひっどいなぁ。もう三日目ですよ?」
そう呟いた。相も変わらずリルやイリーナを瞬間的にたらしこむ笑顔を炸裂させて微笑んでいる。だから私も、肩を竦めて手のひらを天にあおがせる。そして、
「その三日のあいだに、むしろ不信感が強まってるわよ」
そう煽って、二人で瞬間的に視線を交錯させてから、「ふふふっ」と和やかに笑って、私はテントの中に入る。
「リル、イリーナ。朝早くて悪いけど、早速魔石集めに──」
「グルル…………」
「──!」
テントの扉である垂れ幕を右手で持ち上げて中へ入る。その瞬間、俯き気味にリルとイリーナに話しかけた私の耳に、猫がゴロゴロと音を立てる喉鳴らしに似た、しかしそれは地をも揺らすほど低音にブーストがかけられた聞き馴染みのない音がする。
加えて、足元のみを写した網膜が伝えてくれた情報を分析して気づく僅かな違和感。テントの内部が、私がループスの遠吠えに起こされた時よりも明るいのだ。
「…………」
身体を半身だけテントに入れた状態で、首を震わせつ無言のままテントの様子を確認するべく前を向く。そこで視界に入ってきたもの。
──狼…………。
四足で資材の上に立つ狼。しかし、それは脳内にある狼の図とはかけ離れている。
真っ黒の体毛に、まるでアルビノのような真っ赤な目。耳はピンと立ち、周囲の音をひとつとして逃さないよう絶え間なく向きを変えている。また、爪は資材へ刺さり、尾は水紋が揺蕩うように滑らかに左右に揺れていた。それらは野生と言うべきか、明らかに敵を圧倒するために体が欲した装備を纏っているという印象だ。
そして何よりも異なる点。
──少なく見積もっても私よりはあるよ、この狼。
この狼の奥を見ればテントを破って中へ侵入している。明らかに襲撃のために、騎士隊が作り上げた警戒線を越えているのだ。
「っ……!」
私は一歩踏み込んで加速する。
そして三歩目には私の剣の間合いにループスを入れ、居合いの要領で鞘に収まったままの剣を引いて断つ。ひとつ違うのは、その剣を振るったのは真上から真下にかけて、敵の正中線に向けてということ。
剣は荒々しく物を斬る。
切っ先が触れた布団。ラインハルトとの間に挟んでいたついたて。テントに吊るされていたランタンにも強く衝撃を与えた。それは火の着いていないものであったが、斬った衝撃で散った火花が原因となり、瞬間的に豪炎となって撒かれる。
そして、私はテントをも真っ二つに斬った。バサバサと音を立てて縒れて、これから世界を照らそうとする陽の光を受け入れられるほどに。
しかしそれらのどれも心を揺さぶるほどの事象とはなり得ない。焦燥を覚えさせられる事態というものは、私が緊張で、
「なっ!?」
と、言葉を漏らさせるようなとき。直近でいえば、
「グルルルル……」
と喉鳴らしするループスが、最も硬質と思われる鋭い歯で力の籠る一閃を放った剣を噛み、完全に防がれた時だ。
力の抜けない、ぎりぎりという剣と歯が強く圧せられて発せられる摩擦音がする中、私は視界が暗く落ちたように錯覚した。突然のループスの登場と、一撃が受け止められたという事実に衝撃を受け、私までも喉を鳴らして生唾を飲み込む。氷のように冷えた体内を一筋だけ溶かしていく感覚があるのだ。
「アリス!」
そんな感覚から脱させたのはラインハルトの私を呼ぶ一つの声。
「ラインハルト……っ!」
「上!」
助けを求めたつもりで呼んだ人間から、そう叫びが飛んできた。
Twitter : @square_la