3日目(3)
「ズンッ…………」
まだ葉の影を浴びる私たちの元に飛行種が墜落した音と地響き、遅れて、長髪をなびかせる風が吹いた。それは、草木をも揺らし、動物の挙動を荒くさせるには十分な代物で、森の様子が一気に騒がしくなる。思わず背筋がビクッと飛び跳ね、目を細めてしまうほどに。
そんな私たちが飛行種の元へ着いた時、思わず声が出た。
「うっわ、大きい…………」
「すごいね、これが飛行種か。初めて見たよ」
目の前の森は散らされている。墜落した衝撃で密集した木々がドミノ式に倒れたのだろう、落下地点を中心に木が外を向いて横たわっている。
そして落下した当の魔獣は、頭から墜落してか首を九十度折り曲げて絶命している様子だ。羽も足も胴も衝撃には耐えきれず、唯一尾がまともな形を残していると言ったところ。
「飛行種でもこんなに大きい個体初めて見たわ」
「これだけ大きいと、イリーナの言う通り魔石は大きいかもしれないね。早速取りに行こうか」
「え、ええ……」
私は空の、リューズベルクへ向かう飛行種を望む。
──対空設備に対して、本当に無策で来たの?
高高度を飛ぶから、未だに目で捉えられる位置にいる飛行種。確実にリューズベルク方面に向かっていることが、どこか曖昧さの色が濃く、非常に心臓に悪い思いをさせられる。心配で心配で仕方がない。そんなところに、
「ま、待ってくださいよ、二人とも!」
と、とたとたと歩幅狭く走るイリーナがようやく私たちに追いついた。
「イリーナ、ごめんなさい。少し気持ちが急いでしまって──」
「違う!」
──違う?
彼女が放った、文脈と乖離した言葉に疑問を持ちつつ、イリーナの次の言葉を待つと、元の呼吸を取り戻す前に、
「なにか、何かが出てきてます…………!」
そう飛行種を指さして言った。
当然私とラインハルトは猛烈な焦燥感から、脊髄反射的に飛行種を視界に収める。
すると、イリーナが「何か出てくる」と形容した通り、飛行種の体から何かがもぞもぞと蠢きつつ出現した。それは小さく、二足で歩いてはいるがトカゲの外形に近い《リザードマン》という魔獣だ。
それらはいま飛び出してきた飛行種の死肉を食べ始める。濃緑で濁ったような液体が、ドクドク鼓動を打つようにリズムをとって噴出するなか、それを頭から浴びようと、口から垂れ流そうとお構いなく、鋭い歯で掻っ切って食らっているのだ。
「おえっ……」
「イリーナ、大丈夫かい? 少し目を伏せていた方がいい」
「あ、ありがとうございま──っ…………ぅぅ」
ラインハルトはイリーナの背中を擦りながら後方へと下がらせた。それから、足音を潜めつつ私の隣へ並んだ。
「どうする?」
「どうする? って…………何体いるのよ、この小さな魔獣。二人じゃ全てを相手にするなんて到底無理」
「気付かれたら不味いですね……。早くキャンプに戻って、応援を呼ばなければ……」
私は頷いてラインハルト肯定する。
「そうね。今すぐに行きましょう。あのリザードマンはきっと厄介な存在──」
そこで思考回路の一部に妙に暗い影が落ちた。
──リザードマン?
その正体が何か識別できないような、もしかしたら既に短絡してしまっているのではないかという嫌な予感。
私は、背後の方角一帯をわらわらと集って埋め尽くすトカゲを望んだ。
「アリス?」
その不審な動きにラインハルトも足を止めて私の名前を呼ぶ。ささやくように、ほんのりと焦りを含んだ疑問形。
しかし私の耳は、その言葉を情報として得ることができなかった。
リザードマンは武器も持たず、本来紅色の鱗を持つ身体にもかかわらず手を緑に汚し、ただ天を仰ぐように呆然と立ち尽くしている。頭から背にかけて覆い生えるたてがみを、鼻をツンと突く尖的なにおいを運ぶ風に揺らしながら。
頭の中でたった一つのことすらも考えられなくなった私は、リザードマンのその行動を見ても、それが何の意味を持っているのか理解できない。
「アリス、どうしたんですか! 早くいかないと──」
ラインハルトは私の首根っこをむんずと掴んで、不意で、かつ、逆らえないような力で引いて促す。
しかし、私には見えていた。リザードマンの鼻がひくひくと小さく動き、においをかいでいる瞬間を。つまり、何か次の動きをするという予備動作をしていたと確信した。逃げなくてはいけないとわかってはいながらも、思考回路に落ちた影の正体を確かめなくてはと、かたくなに動くことを拒否する。
その時。
「ぺろっ」
と、リザードマンは二股に分かれた舌を口から出して、即座にひっこめた。
それから口をもぞもぞと動かした五秒後。
『#$%&』
私たちには理解も発音も不可能な言語で、リザードマンの一体は何かを言った。
──なに? なんて言ったの?
だが、私がその意味を考える暇もなく、残りの数十──いや、百は超えたであろうリザードマンたちが、
『『『#$%&』』』
と、全く同じ波形を持つ言葉を放った。
次の瞬間、始めに声を出したリザードマンの視線がこちらへ向いた。
──え?
そう思うことしかできないことが、私の浅ましさだと痛感した。ギョロリと心臓を抉り取るような、傲慢で無感情の眼差しが、全て私へ向いたのだ。
私はただ恐怖した。ただただ、十センチにも満たないほど小さな一歩を退くことしかできなかった。
リザードマンは一斉にこちらへ向かって走る。
「アリス、逃げますよ!」
「わかって──」
私はラインハルトの叫びに森に響くほど大きな怒号にも近い声で返答すると同時に、背後を向いてその場から逃亡を試みて身体を傾けた。しかし、その大きな声はたった四音で済むはずだったにもかかわらず、最後の一音が失われた。
私の直前までリザードマンは移動していたのだ。
──速い!
「ィィィイインッ……」
リザードマンが持つ硬質な鱗と私の愛剣・カイルの激突。
「ガリガリッ……ガリッ」
そう音を立てて互いは互いを削り合う。
「ライン……っ……ハルト! 助けを──!」
「なッ──君はこれだけの数を相手にして一人で戦う気なのか!?」
私は小さなリザードマンの腕に当てた剣の角度を薄くし、力ずくで鱗にめり込ませて跳ね飛ばす。そのままの勢いで首まで跳ね飛ばすことに成功した瞬間、私は目じりにラインハルトを映して叫ぶ。
「これだけの数の魔獣が人の出払ってるキャンプを襲えば、そこにいる人どころか後方支援がなくなって騎士隊も壊滅する! その前に……その前に何とかしないと」
そう言い切ってから、襲い来るリザードマンを剣で薙ぎ払う。
だがそれは人を相手にするよりも厄介だ。いくら人間という生物が知能のある相手だとしても、小柄かつ身体的能力で私を上回るリザードマンを相手にしては分が悪い。
地面と水平に一閃を薙ぐ《ホリゾンタル・クレーブ》や剣の柄で突くことで敵の動きに一時的なディレイを生じさせる《グリフィン》、ストンと足場が消えたように低い姿勢を取る反動で斬り上げる《スクラッシュ》。本来どれも魔力を有する剣でする技だ。しかしそれらと同じ動作をすることで眼前に広がるリザードマンの海の中を一人悠々と──残念ながら息も切れ切れになるほど必死に一人泳ぎ続ける。
だから、
「うぅ……やっぱり数が多い」
──このままじゃあラインハルトが帰ってくるまでは持たないわ。
と、その悲観的思考に辿り着くことは、もはや仕方のないことでもあった。
『#&%&?*』
そう思考がネガティブに振り切られようとしていた時、リザードマンの内の一体は声を発して、何かを仲間に伝えたよう。そしてそれと同時に、僅かな、百と九十程度の差ではあるが私を取り囲むリザードマンの数は減ったように感じる。視認できる地面の面積が先ほどに比べ明らかに増えているのだ。
私は無意識のうちに後方への突き技を放ち、身体の正面を百八十度変化させた。
そこにいたもの。
「っ……! ラインハルト!」
──どうしてまだラインハルトがここにいるの!?
私は僅少な時間だけ訝しんだ目で彼の顔を見つめると、彼はその視線に気づいたようで、三十メートル以上の距離を持ち、リザードマンが生み出す喧噪の中でも私の耳まで一本の糸が通じているような芯のある声で心の疑問に答えた。
「気にしないで、アリス! 頼まれた任はイリーナに託しました!」
ラインハルトはリザードマンに剣戟を浴びせる中で、淡く口角を上げてこちらにサインを送ってくる。「俺が来たからには、もうここは大丈夫だ」とでも言いたげな顔だ。
なら、私を守ってもらわないと。
「わかった。今からそっちに行く、上手く避けてよね」
「避けて?」
ラインハルトは言葉の意味が分からないと、本心を口からポロリと漏らしたが、「避けて」という言葉は全くもってしてその言葉の通りの意味でしか伝えていない。
私は身体をひねる。右半身を後方へ、左半身は前方という域を超え正面よりもさらに右へ。その簡易的な予備動作から、突きを一撃、加速した足と共に前方へ放つ。
──距離は三十メートル……敵の数は──三体くらいね、これなら。
「っ──!」
戦場を駆け抜ける。そこに溢れかえる魔獣の中、異質な点が点へと高速に接近する光景は誰もの目を引いた。
ラインハルトの元に辿り着いたのは片手で事足りるたった五秒後のこと。
剣にはリザードマンが三体刺さる。敵は私の身体と接触しながら、腹部に四角形の穴をあけさせられた上で運ばれてきた。耳元では呻くでもなく、ささやくでもなく、ただ、
『@+#*&』
という、やはり理解不能な言葉を発するだけだった。
私は、身体に圧し掛かる三体の魔獣を軽く突っぱねて、「ぶしゅっ」と不快な音を立てて剣を引き抜いた。
「いらっしゃいませ、アリスさま。敵しか出せないお店へようこそ」
「全部自己処理してほしいものね」
二人はそんなくだらない会話を鼻で笑って、剣を構えた。背中合わせとはいかず、二人の顔が見えるよう横に並んで、正反対を向く格好だ。
「助けに来たんだから、私より早く死なないでよね?」
「当たり前ですよ。王女を守れもしない人間が婚約者候補となったら、父にも兄にも笑われてしまいますからね」
――……。
そこからの戦いは長かった。
百を超える敵。倒しても倒しても減る気がしない。それは死体の山が錯覚させるのか、それとも実際減っておらず、未だに飛行種から湧き出ているのかわからないが、既に頭の中で数えることはやめた。敵の攻撃に対して、頭と身体が反射的に応じることのできる魔獣に向かって片端から剣を振るっているのだ。固い鱗に弾かれることなどザラ、それでもその鱗を破砕して攻撃を通さねばならず、既に握力は限界だ。
ともなれば一瞬の隙が生まれてしまうことは致し方ない。それが生死を分かつ、分岐点だとしても。
再び私とラインハルトの距離が一メートル未満まで接近した時だった。
『#&%$』
もう聞き取れるようになってもいいのではないかというほど耳にタコができる声を再び耳にした。聞き取れはしないが、そのトーンで、抑揚で、長さで発した言葉の意味は、攻撃の合図であることが、今までの戦闘の結果理解はできた。
「…………来る」
Twitter : @square_la




