雨のち晴れ
朝から降りだした雨は昼をすぎても降りやまなかった。
「五時半か。買い物に行かないとな」
ぼくは一人呟いて、窓の外に目をむけた。雨はまだ庭を濡らしづけていた。
「財布もってー、鍵もってー、鞄もってー」
どんよりした空模様にくじけぬようにと、呪文のように持ち物を確認したぼくは、湿気のせいか幾分くぐもった音をたてる敷石を踏んでアパートを後にした。
空を見上げたときの心地よさを味わいたくても、傘が邪魔をしている。仕方なく周囲の景色をなんとなく眺めながらアスファルトを打つ雨音に耳を澄ましながらスーパーへと足を向けた。数日前まで白かった紫陽花が覚めるような紫に色づいていた。見慣れてた家の外壁に塗られた櫨染が鮮やかに見えたのが印象的だったが、大きく心を動かされる景色に出会うことはなかった。
「いらっしゃいませー」
スーパーのドアをくぐると、天候に左右されないかのような店員の声が聞こえた。しかし、視界に入っている人数からするとなんだか声の数が少ないように思えた。店員2人が商品を買い物カゴからうつしかえるための棚を動かして、何かを探していたからだった。その傍には申し訳なさそうに立っている少女がいた。年の頃は8歳くらい。ピンクのワンピースを着て、髪をポニーテールにまとめている。いつも外で元気に走り回っているのだろう、半袖からつきだした腕やスカートから伸びた足は健康そうに日焼けしている。だが、妙にそわそわしている。
ぼくは目的の売り場に向かいながら、なんとなく気になって、二人の店員と女の子を目にとめていた。清算のために置かれたレジ台には、彼女が買いたいと思って手にとった品々がいくつかが無造作に散っていて、近くには100円硬貨が数枚並べられ、その傍らには五円玉と一円玉も見えた。どうやら、女の子は1人で買い物に来たらしい。だが、お金を払おうとして硬貨を落としてしまったらしく、店員に探してもらっているらしかった。
ぼくは心の中で、お金見つかるといいなーと思いながら、その光景から目をはなし、買い物のために店内を物色して、それからレジへと戻ってきた。
そう長い時間、ぶらついていたのではなかったが、2人の店員はまだ硬貨を探しており、女の子の表情には不安と焦燥、そして深い悲しみがあらわれていた。順番を待ちながらもぼくは女の子と店員の様子を見ていた。というよりも、心が騒いで見ないではいられなかったのだ。もしかすると、女の子が発している、どうしたらいいかわからない心もとなさの波長に共鳴したのかもしれない。
やがて清算が終わったぼくは、硬貨を探すために、すこし前に動かされただろう棚で、品物をエコバックに詰め替えはじめた。
「どうしたらいいのー。じゃあ……諦めないと駄目なの? でも……」
背中ごしに女の子の頼りなくやりきれなそうな声が聞こえた。
そのとき、もはやぼくの脳内では、ひとつの物語が出来あがっていた。
女の子は、多分、貰ったお小遣いを握りしめてお店にやってきた。小雨降るいつもより少し暗い夕暮れ。傘もささずここまで来たのだろう。欲しくて手にとったものは、大好きなピンク色のものばかり。カチューシャも髪を縛るヘアゴムもそうだった。ヘアゴムは布の外装があるやつだ。生地はやはりピンクで小さな白い水玉が踊っている。あと何かもうひとつ。ぼくの弱った視力ではそれがなんだか、はっきりわからなかったが、恐らくヘアパッチンと呼ばれるものだろう。もちろんそれも目のさめるようなローズピンクだ。
彼女は踊りたくなるような喜びとともにレジに向かった。だが、そこで突如強大な壁に遭遇したのだろう。一円でも足りないと売ってあげられないのです、という社会のルールだ。もしかすると、女の子が持って来ていたお金が足りていなかったのかもしれない。でもぼくはそういう物語を描きたくなかった。彼女はどこかにお金を落としてしまったのだ。そして今、どうしても欲しいから諦めきれず、なおかつ、どうしたらいいのかわからなくなり、混乱し動揺しているのだ。随分ながいあいだそんな心境にあったのだろう。声もか細くなり、悲しみを超えたあとにあらわれる茫とした表情に陥っていた。
ぼくが自分勝手な物語を作り終えたころ、店員の声が耳朶をうった。
「じゃあ、見つかったら電話してあげるから、連絡先を教えてくれる? そうすれば渡してあげられるから」と。
そんな可哀想な……まだ子どもじゃないか。確かに、一円でも足りなければ売ってくれないのが社会の厳しさなんです、ということを彼女が実地に学ぶためには必要なことかもしれない。でもまだ子どもじゃないか。親が一緒に来ているわけでもない。そんな心細い彼女にそういうことを強いるのがいいことなのだろうか? ぼくはたまらなくなって店員に声をかけた。
「どうしたんですか? お金足りないんですか? 足りないのって100円とか200円でしょ」
「はい」
と、店員。
「じゃあ、ぼくが出しますから売ってあげてよ。それぐらい出しても別に困らないから」
「……」
「100円? 200円? 100円でいいの?」
店員は、黙ったまま肯いてみせた。
「じゃ、これでやってあげて。あの子もお店もそのほうが助かるでしょ? ぼくは困らないから」
そそくさと小銭入れから硬貨を出して渡そうとした。
「いやそれは、お店としては出来ないんです。受け取れないんです」
と、店員。悪気があって言っていないのがわかった。あくまでもルールに厳格であろうとしていることが伝わる声音だった。だから店員はつづけてこう言った。
「でしたら、彼女に渡してあげてください」と。
「わかりました」
ぼくはそう言って、女の子のもとに足を運んだ。
膝を曲げて前かがみになっても柔らかそうな髪が流れている頭が見えるほど、彼女は小さかった。その顔にはどうしたらいいのかすっかりわからなくなった不安が固くこびりついていた。
「ねえねえ、これで払いな。お兄さんね、これそこで拾ったの、これで払いな」
女の子は硬直して、しばらくは手を伸ばさなかった。
「ほら、いんだよ」
ぼくはなるだけ優し気に話しかけた。
ようやく、彼女ははかなげな可愛らしい指で100円玉を摘まんだ。その指もこんがりと日焼けしていた。摘まんだまましばらく動かなかった。桜色をした小さな爪が目に飛び込んだままだった。
臆病でシャイなぼくは、安心してあっけなく彼女から離れ、出口へと向かった。店員が弾み気味の声で挨拶するのが聞こえた。
大気を吸いながら見上げれば、雨はあがっていた。雲間には群青色の空があった。満天の星空とはならずとも、きっといくつかは星の輝きが見れる夜になるのだろう。