陽の当たる場所へ
甘美な美しさには、切なさを引き立たせ余韻を残す残酷さがある。
ビターチョコは好きだ。苦い中にチョコが持つ本来の甘さ、砂糖やミルクを加えていないからこその深い味わい。
それらの全てが、俺を深く認知外へと誘ってくれる。不可侵の領域には絶対の美しさがあり、押す訳でも引く訳でも無くそこに在り続ける。
俺は灰色に濁った空を、煙草の煙で霞めながら仰ぎ見る。
昨日は雲一つない綺麗な青空だったのに、24時間でこうも変わる。
この世界は無常に満ちている。常である筈が常でない。それが常識と言うなら、非常識とは何なのか?
全てが矛盾だらけだ。原子のように、本当に原子をこの目で見た事なんて無い筈なのに、当たり前にそれを言ってのける。
誰も知らないのに、皆が知っている。
「営業妨害や。喫茶店であほ程煙草吹かしおって。」
俺が窓の向こうを見ながら考え事をしていると、白髪が所々見受ける初老の男が口を開いた。
「この喫茶店が営業してるようには・・・・見えませんわ。」
見なくても分かる。この店はいつ潰れてもおかしくない。
時間と客足は、驚く程に深く絡み合うとは思うが、この店に限っては全く関係ない。
「当たり前やろ。こんな潰れかけのボロ病院の喫茶店に、客来る訳無いわ。」
マスターである永谷の言い分は、こんな所だ。まぁ、あながち間違ってはいない。
だが、本人が気付いてるかどうかは別として、あのぶっきらぼうな態度とほぼ喧嘩腰の喋り方が、この店に客が寄り付かない原因だ。例外を言えば、俺の存在だ。
廃れた病院の中でも、一番景色が綺麗に見える窓際の特等席、それだけの為に俺は喫茶店に通う。
灰皿に煙草の灰と吸い殻がいっぱいになった所で、レジを素通りして病院施設に入った。
そういえば、3日前に
「店に入っただけで金取れたらなぁ・・・」なんて永谷がぼやいていたな。
そんな事をすれば、馬鹿でも潰れると分かる筈だ。
食事施設から病院施設までは、長い渡り廊下で繋がっている。
野晒しという訳では無いが、ほぼそれと変わらない。夏は暑く、冬は寒い。季節感はあるが、患者にそれはいろいろ問題が出て来るだろう。
今の季節は、ちょうどいいのかもしれない。
9月の残暑も無事に抜け出し、10月には過ごしやすい陽気な天気が続いている。
喜ばしい事かそうじゃないのか、俺には分からない。飽くまで、俺の主観的な意見に過ぎないが、たぶんアイツなら喜ぶんだろう。
寒いのが苦手なアイツは、いつもぼやいていた。冬が怖い、と。
俺はもう遥か昔から、ずっと知ってたんじゃないかってぐらいのナースステーションの前を通り、アイツの病室に向かった。
病院独特の薬品の臭いを味わいながら、目的の608号室に着いた。
[沢中結衣]と書かれたネームプレートを一瞥して、2回ノックしてから608号室のドアを開ける。
「あ!今日も来てくれたん?」
結衣はいつものように、眩しい笑顔を俺に向けてくれる。
かっこいいなんて言えないような俺が、毎日病室に来る事を待ちわびている。
人に必要とされる事が、こんなにも嬉しい事だとは思わなかった。
「元気しとったか?」ベッドの横にある椅子に腰掛けながら、いつものように他愛もない会話を楽しむ。
特別何かがある訳じゃない。
ただ、俺も結衣も、今この時を楽しんでいるんだ。
俺と結衣が初めて会ったのは、今から5年も前に遡る。
5年前、俺は結衣と同じここ[永浜精神病院]の患者だった。
今でこそ、個室で落ち着いて入院生活を送っているが、その時の結衣は情緒不安定でふさぎ込んでいた。
顔立ちは暗く死んでいるような奴だった。
俺は俺で、二重人格症と言うのを患っていて、凶暴で何でも力任せに壊す破壊衝動に従順な人格Bと今の素のままの俺、人格Aが俺の中で混在していたらしい。人格Aは麻那瀬 涼平、つまり俺で、自分で言うのも何だが猫とタバコを愛する優しい少年だ。
人格Bは柳生とだけ名乗ったそうだ。柳生の時は自分の意識は無く、記憶がその間だけポッカリと抜けて何も無かったように、俺は生き続けていた。
今だからこそ、平然と過去の自分を晒け出せるが、5年前は猫とタバコ以外の全てが怖かった。
そんな時、いつものように永浜精神病院の屋上で猫と遊んでいる時、結衣は突然現れた。
結衣は回り等脇目も振らずに、建物と空を隔てた柵に足を掛け、大空に身を乗り出した。
その時の俺は、いつもと違っていたのかもしれない。今まさに、自らで人生を終焉に導こうとしている、そんな彼女を俺は優しく包み込んでいた。
自分の行動に一番驚いていたのは、他の誰でもなく自分だった。
「何・・・するん?」
動揺して何が何だか分からなくなっていると、彼女が口を開いた。
抑揚の無い声と遥か彼方を見つめる目、この至近距離で人を感じた事なんてなかった。甘い香りが俺を囲み、不思議な気持ちにさせている。
その日を境に、俺が俺で失くなる時間が減少していった。
俺の病状が日を増す毎に、どんどん回復の波に乗っていった。
元々、心の病だったから、結衣がトラウマを解いてくれたんだと思う。あの日以来、俺を蝕む柳生は成を潜めていた。
人が怖くなった。少しずつではあったが。
結衣も少しではあったが、俺に影響されるように今のように笑うようになって、どんどん回復していった。それと比例するように、俺と結衣が一緒にいる時間が増えた。
互いが互いを依存し合い、俺は結衣が、結衣は俺がと言う、傍らから見れば異様とも取れる関係になっていく。
これはもう、男女間の愛情ではなく、家族や兄弟間の愛情なのかもしれない。
だから、下心を持って結衣に会いに行く事なんて無かった。
結衣もまた、楽しい時間をより楽しむように、俺とのくだらない雑談に花を咲かせているんだと思う。
それでいい。この先に行ってしまえば、壊れてしまいそうだ。それが今になっても未だ、怖いと思う自分がいる。
自分がつくづく情けない。結衣に助けられてながら、俺はその結衣をどこかで線引きしているんだ。
本当に、自分が情けない。
「涼平君?何してんのよ、こんなとこで。」
突然病室の扉が開いて、見慣れたナースが入ってきた。
「どうも、ちょっと話混んじゃって。」
このナースは永浜精神病院の婦長さんで、俺は患者時代の時からよく世話になっていたらしい。
そのほとんどが、柳生の時だったから俺の記憶には、婦長さんとの会話なんて全く覚えていない。
「もう7時よ。良い子はさっさと帰りなさい。」
俺は婦長さんに促されるままに、廊下へと押し出された。
女性とは思えない程の力で、婦長さんに押し出される中、その肩越しに見えた結衣の表情はとても哀しそうだった。
「結衣!また明日も来るわぁ。」
今にも泣きそうな顔を見て、俺は堪らず声を張った。
ナースステーションまで引きずられた俺に、婦長さんがさっきまでとは打って変わって、真剣な眼差しで俺を見据えた。
「・・・何すか?」
沈黙の威圧に耐えれなくなった俺は、鼻息でさえモロに当たりそうな距離にある顔に問い掛けた。
「涼平。あんた・・・・・608号室で何してるの?」
彼女の、婦長さんの声色にからかいの色は見えない。ただ、それだけに馬鹿馬鹿しさが込み上げてくる。
「・・・な、何言ってんすかぁ!?」
込み上げてきた物が抑え切れず、俺は半ば笑い気味に声を上げた。
「じゃ!ええ子なんで、そろそろ帰りますわ。」
俺は後ろ手で婦長さんに別れの挨拶をし、病棟に隣接する芝生広場に出た。
外はもうすでに、闇に包まれていて、俺を誘うようにそこに佇んでいた。
「涼平!ちょっと話聞きなさい。」
婦長さんはまるで、言う事を聞かない子供を諭すように、俺に話し掛けてきた。
「涼平、608号室で何をしてるの?」
改めて聞かれた質問は、俺に逃げる手段を無くさせる残酷な語気を纏っている。
「・・・結衣と話してたんす。」
「結衣ちゃんって言うのは、沢中結衣ちゃんの事よね?」追求の目は、俺を骨抜きにするように捕らえて離さなかった。
「涼平・・・、結衣ちゃんはもう」
「―待ってくれや!・・・・婦長さんは何が言いたいんすか?」
婦長さんを遮った俺の声は虚しく夜空に響くだけで、痛々しいまでに虚勢を張る中年のようで儚い。
「結衣ちゃんは、あの日屋上から飛び降りて死んだのよ。」
どういう事何だ?結依が死んだ、いやあの日以来から死んでいたと言うのか?
じゃあ、今まで笑っていたのは、一体何だったのか?俺は5年の月日を、結依と歩んできたんだ。
何も間違いなんてない。結依を助けて、俺も助けられた。
これが全部幻だと、そう言うのか?
「ハハ・・ハハハハハ・・・、何言うてんすか?結衣が死んだ?そんな訳無いやないっすか!」
静かな芝生広場に、俺の狂ったような笑い声が児玉する。
「涼平!涼平!」
婦長さんの声が聞こえにくい。だんだん、少しずつではあるが自分の声でさえも、聞き取れなくなってきた。
自分の意思に反した自分自身は、ただ宙を見つめて、ただ何かを探すように目線をさ迷わせていた。
あぁ、何も聞こえない。無音の世界が俺を飲み込む。あぁ、俺は何をしたい?何を探している?何に怯えている?
自分の中で葛藤していると、焦点の定まらなかった視線がある人物を捕らえた。
ー結衣?!・・・・結衣がいる。
俺は走り出した、結衣に逢いたいから。窓ガラスや扉、そんな物無視して、俺は608号室の前まできた。そうだ。全部幻なんて、それこそが全部嘘なんだ。
俺は高揚する気持ちを抑えながら、608号室の扉を開けた。
―結衣!
実際に叫んだのか、そうじゃないのか。
何も聞こえなくなった俺には分からないが、心の中で俺は確かに結衣の名前を呼んだ。
黒、黒、黒。聴覚の次は、視覚を失った。
見えない。何も見えない。あぁ、目に見える闇は美しい。だが、目に見えない闇は、恐怖でしかない。
深い深い闇が俺を包み込むと、一転して静かな安心に変わった。
「・・・・・・。」
目を開ける。それだけの事でさえも煩わしい程の気怠さの中、体を起こすと、ベットの横で機械の画面を睨み据える永谷がいた。
「・・・マスター?」目覚めの一言に、この言葉はあまりににも、不釣合いだ。
「あ?何寝ぼけてんねん?頭打っておかしなったか?」
いつも・・・通り、だが、白衣を纏った永谷は明らかにおかしい。
「なんやねん?こっち見過ぎや。」
「あの、なんで俺はこんなとこにいるんすか?」もはや、状況が飲み込めなくなった俺は、喧嘩腰の永谷に聞いた。
「・・・・覚えてへんのか?」さっきまでの態度と一変して、哀れむような顔になっている。
「涼平、お前はな・・・・。沢中結衣って子の自殺止めようとして、一緒に落ちたんや。」
俺は、永谷によって知らされた現実を前に、呆然とする以外何も出来なかった。
その後聞かされた事実は、俺には理解出来る範疇を遥かに上回っていた。
5年前、沢中結衣は永浜精神病院屋上から投身自殺を図った。その動機は衝動的で、誰も予想し得ない程に唐突な出来事だった。
その現場に居合わせた俺は、普段の俺からは考えられない行動を取り、沢中結衣共々芝生広場に頭から落ちたらしい。
結衣は、全身を強く打って外傷性ショックで死亡。俺は、頭を強く打ったものの奇跡的に命を取り留めた。それから、5年間昏睡状態を経て、そして今に至ると言う。
8階建ての病院から落ちて、俺だけ助かった。これは、本当に奇跡なのだろうか?
甘美な美しさには、切なさを引き立たせ余韻を残す残酷さがある。
5年間の結衣を、俺は肌で感じて言葉を交わしてきた。それは5年に渡る夢幻であっても、俺は知っているんだ。
ダレモシラナイノニ、ミンナガシッテイル。
俺はまた、この無限に広がる闇を生きるしかないのか?ここに再び、陽が当たる時は来るのか?結衣と一緒なら、そこまで行けたのだろうか?
結衣・・・・・。もう、俺に笑顔を見せてくれる事は無いのか?
いつか、再び、逢えるだろうか?
陽の当たる場所へ・・・。