第216話 急転直下
タイクーン公国王城、宰相執務室。
中ではディレン、アガトー、サーシェスの三人が顔をつき合わせてとある作戦を実行に移すための話し合いが執り行われていた。
「閣下。奪われた武具の補完は街中の武具店に優先的に供出するよう通達を終えました」
「うむ、万に一つも失敗は許されん。万全を持して事に当たれ」
報告をしたアガトーの顔色は冴えない。今回の作戦内容に思うところがあるようだ。
「閣下、やはり此度の作戦、特に妊婦を楯に脅すという部分の変更はできませぬか?」
忠犬の如く従ってきた男の僅かな異議申し立て。此度の戦拳の弟子を捕獲する作戦はサーシェスが立案した。正面から目標を誘き出し別働隊が身重で動けぬ彼奴の細君を確保し恫喝して従わせるというもの。確かに失敗は許されないがあまりに非人道的な作戦に流石のアガトーも異議を唱えざるをえなかった。
「おいおい、騎士団長サンよ。俺の立案した作戦に今更異議申し立てかい? 元々お前さんらが公王の身柄を得体の知れないもんにみすみす奪われたのが形振り構わぬ作戦となった原因だっての忘れちゃいないかね」
「くっ!」
「アガトーよ、これは最早決定事項だ。それとも……お前も裏切ってみるか?」
ディレンの言葉にアガトーはびしりと固まる。あの現場で緘口令は敷いていたもののどこからかは情報が漏れるもので強かな貴族の中で数人は適当な理由をつけて自分の領地へと戻っていた。求心力の低下は旗印のいない宰相にとって致命的となることからあちらの最終兵器に対抗する手段を確保しておくというのは命題に近い案件なのである。アガトーもそれを分かっているからこそ強く反対を言い出せないでいた。
「いえ、私は閣下の騎士であります。私がこの場に立っているのは閣下への義によるものですから!」
「ならばいい。それではこの案……ぐ、ぐああああああ!」
突如、ディレンが頭を押さえて苦悶の表情を浮かべた。「か、閣下!?」とすぐに駆け寄るアガトーだがその様子のおかしさに普段は全く取り乱さない彼も困惑の色を隠せない。後ろでサーシェスが何かを呟いたような気がしたがそれすら気に留める余裕すらなかった。
傍らへと跪きディレンを支えるアガトー。ディレンの額には血管が浮き上がり脂汗が滲む。獣のうめき声とも聞き紛う声をあげ息を荒くしていた。魔力とも言い切れぬなんらかの力が作用しているのをアガトーは感じている。だがどうすればいい、そう逡巡しているとパァァァンと何かが弾ける様な音がディレンを中心として部屋中へと響き渡った。
途端に溢れ出てくるように記憶の奔流がディレンの脳内を駆け巡る。改竄され誘導されていた意識は正常な自分の意識へと上書きされた。思い出した記憶は最早取り戻せぬ喪失感も同時に味合わされることになる。奥歯が砕けるのではと思うほど強く強く噛み締め彼はそれを飲み込んでいった。
ディレンはギロリとサーシェスを睨み付け目の前の机へと備え付けられていた護身用の短剣を流れるような動きで投げつける。一瞬のことにアガトーすら反応できなかったがサーシェスはそれを意に介さずするっと避けた。
「おいおい、宰相サマよ。いきなり物騒だねぇ」
「……黙れっ……貴様、我が妻を殺しておきながらよくも! それに貴様はあの時私が確実にトドメを刺したはずだ! なぜ生きている!!」
「か、閣下!?」
これまでの冷徹な宰相という名の衣など跡形も無く消え去り溢れる怒気を隠すことなくサーシェスを睨んでいる。その視線はそれだけで人を射殺せるのではと錯覚するほど鋭く殺意が篭っていた。
振り絞るような怨嗟を込めた低い声にアガトーはぞくりと寒気が襲い来る。何より仕えていたものの豹変に戸惑いを隠せなかった。淡々と政務をこなすこの人がここまで自らの感情を露わにするのは初めてである。それに『妻』とは? そもそもプライベートがまったく知られていないディレンには娘以外の家族の情報がなかった。娘がいるのなら妻がいておかしくないのだが長く仕えている彼すら知らないのである。
「ちぃ、あのバカめ。言い含めておいたのに人柱を壊しやがったか……。やれやれ、前任者が死をもってしてまで嵌めたってのに破綻するときゃ随分とあっさりしたもんだ」
「なん、だと? サーシェス、貴様は何を言っている?」
事態が全く飲み込めていないアガトーは大きく狼狽する。閣下を嵌めた? こやつは一体何のことを言っている。それでも体は条件反射からディレンを庇う様に二人の間へと割り込んでいた。
対してサーシェスは苦々しそうな顔をしたのも一瞬のことですぐさま取り繕われた笑顔を浮かべる。なんとも言えぬ底知れぬ不気味さを演出するような笑顔を。
「宰相サマよ、なんでここに俺が存在しているか不思議かい? 俺は知っているぜぇ。10年前、あんたの内縁の妻であるエルフの女の胸に剣を突きたてた感触をなぁ。堪らない感触だったよ。それにあんたに突き刺されたこの心臓もな。くくく、どうした騎士団長サンよ。その役職と手に持った剣は飾りかい?」
思考が鈍る、体が重い、先ほどからアガトーは自分の体とこの状況に違和感が拭えなかった。何に対してなのかすら定かではない。言い知れぬ不信感と不安を己の体が感じ取っている。それに事態は全く飲み込めておらず焦燥感だけがつのっていた。
だがそれでも主君たる閣下へのこの物言いは最早我慢ならん。こやつも敵対し閣下を貶める存在へと成り下がったのだと剣を持つ手を握り締める。
そして、その手に持った剣を躊躇無くサーシェスへと振り下ろした。
ザシュ!
……筈だった。
「ア、アガトォ……」
「か、閣下!? な、なぜ私は!? 確かに奴へと向けて剣を振るったはずなのに!」
アガトーが振り下ろした渾身の一撃はディレンの体を袈裟懸けに切り裂いていた。深々と刃が体を切り裂き傷口はかなりの深度へと達している。どぼどぼと流れ出る血は絨毯を真紅に染め上げていった。あまりの出血量から足に力が入らなくなったのか膝をつき、そのままばたりと倒れこむディレン。アガトーは自らが護るべき者を傷つけたことに放心しその場へと膝をついてしまう。
「く、くはははは。騎士団長だなんて大層な肩書きはあるがあっさりとかかりやがったか。多少認識をずらしてやっただけなんだがな。これだから平穏に慣れた奴らは容易い。駄目だねぇ、やはり戦がねぇと人間駄目になりやがる。っと最早聞こえてすらいないか。丁度いい、さっさと済ますか。触媒は……その誇りと義やらが詰まった剣にしてやるか」
サーシェスが右手をかざすとその手の平からヴォンヴォンと鈍く響く音をあげつつ黒い水晶のようなものが競り出てくる。10cmにも満たない大きさのそれを俯きブツブツと何かを呟くアガトーの持つ剣に触れさせた。すると金属製の柄の部分にずぶずぶとめり込んでいく。水晶の形をしているが魔術的ななにかが形を成したものなのだろう。明らかに柄よりも大きいサイズのそれは先の一片までその中へと吸い込まれていった。
「スキル発動。『堕心掌握』」
剣よりゆらりと何かが溢れ出たかと思うとアガトーはすっくとその場に立ち上がる。そしてそのままサーシェスの下へと跪くのであった。その目は虚ろで意思らしきものは僅かにも感じられない。
「くっ……貴様……」
その様子を霞む目で睨み付けるディレン。最早顔を動かすのが精一杯だった。それをにやにやと嫌らしい笑みを浮かべながら見下す道化を演じていた男。
「これでこいつは俺の意のままっと。なまじっか意識を残しつつ操ろうとした前任者は面倒なことをしたもんだぜ。さて、この宰相サマをどうするか……このまま放置って訳にも……いや、いいか。死んじまった後にでもアレを寄生させて動かせばいいだろう。仮に誰かが見つけてもそいつをあっちの手のものに仕立て上げてやればいい。くくく、本当、宰相サマは捨てるところがないねぇ。くははははは」
倒れ伏し意識も朦朧としたディレンへと嘲笑を隠さないサーシェス。他者を弄びいいように使うことが本当に楽しくて仕方がないようだった。
「ふぅ、取りあえず10年がかりのこいつを台無しにしたあのバカにもう一度方針を叩き込んでやらねぇとなぁ。そろそろ人形も創り終えているだろうしよ。さっさと準備を終わらせて楽しい楽しい戦争をやりたいもんだぜ」
踵を返すとそのまま執務室を後にする。アガトーはそれに付き従うように後ろを歩んでいった。
残されたのは息も絶え絶えなディレンのみ。風前の灯たる彼のその姿は無残としか言いようが無かった。妻を殺された挙句、その憎い相手に10年もの間好き勝手に操られていた彼の心境たるやいかほどのものであろうか。
そんな彼は誰一人寄り付かない執務室で息絶えるかに思われた。いや、そこに何かが入ってくる。それは今にも消え入りそうなほど弱々しい光るもの。その光の玉は最早息絶えそうなディレンの体の中へと入り込む。
……………
やがてディレンの口元からするっとそれは出てきた。弱々しい光は淡いものから少し灰色にくすんだものとなっていたが消え入りそうな感じは見受けられない。そしてそのまま窓の外へとすり抜けて何処かへと飛び去っていったのだった。




