愛する故に
天界軍総本部四階の東廊下。
大きな廊下には赤いレッドカーペットが敷かれており、左右の壁には美しい絵画や芸術品の数々が並んでいる。天井には無数のシャンデリアが続いてつながっているため、お姫様でもいそうな城の廊下そのものと言えるだろう。
「最後はキスくらいすればよかったかな……。いや、でもさすがにそれは私の顔から火が出るし無理だな。といっても、ちゃんとハグはできたんだから、まあ合格点といったところか」
アルスメリアは独り言を終えると、両手に握っている二つの刀をその場で軽く振り下ろす。
前方の廊下を埋め尽くしているのは、約五百人の敵兵部隊。全員がかなりの強者であり、アルスメリアは単身でこの五百の軍勢に挑むのである。
無謀だとは、自覚している。
それでもやはり、彼女の気持ちは揺らがない。
「じゃあ」
刀を構えて。
不敵な表情を浮かべたアルスメリアは、宣言した。
「かかって来い。始めるぞ」
その瞬間、一斉に敵兵たちは襲いかかってきた。
津波のように押し寄せてくる武装した天使たちを前に、それでもアルスメリアは一歩も引くことはない。むしろ、彼らが突っ込んでくるよりも先にアルスメリアから駆け出したほどだった。
しかし、ここは環境がアルスメリアの味方をしてくれた。
五百を超える軍勢だったが、廊下という限られた幅の中でしか進めない場所故に、アルスメリアに一太刀入れられる者は最前列の五人程度である。
彼らは持っている刀を、それぞれ様々な方向から振り下ろしてきた。魔力が込められたその一撃は、五人分となるため一撃に終わらず五撃となって襲いかかる。
対して。
アルスメリアは、ヒュン!! と右手に持っている刀を素早く横から振るう。
それだけだった。
アルスメリアの刀は振り下ろされた五つの刀を全て粉々に破壊し、そのまま五人の腹部を綺麗に切り捨てる。全員が内蔵を破られてしまい、口から血を吐き出して床へバタバタと倒れていった。
瞬殺。
これが格の差である。
ただアルスメリアの方が、五人分の腕力や魔力の量を超える、腕力と魔力と技術を持っていただけ。よって相手を武器ごと葬ってしまった、それだけである。
その圧倒的な実力に、一瞬だけ残りの敵兵たちは立ち止まった。
しかし、それも一瞬に過ぎない。
「こ、殺せェェええええええええええええええええええええええええ!! 何としてでも、必ず天界に不浄をもたらす裏切り者は殺すのだああああああああああああああああああああああああッ!!」
すぐさま約五百人の天使たちは、アルスメリアの命を刈り取るために死ぬ思いで立ち向かっていった。
アルスメリアは無表情なまま敵兵たちと斬り合う。背後から降ってきた斬撃を左手に持っている刀で見ることもなく防ぎ、右手に握り締めた刀を使って後ろの敵の首元を正確に斬る。さらに終わらず、左手から襲いかかってくる天使のすねに刀を瞬時に突き刺し、身動きが取れなくなったそいつの胸にもう一本の刀を用いて容赦なく心臓を串刺しにする。
「生ぬるいな。貴様ら、きちんとサボらず訓練を受けていたのか?」
ここまでの攻防は、わずか三秒にも満たない短い時間。
その短時間の中で、アルスメリアは表情一つ変えずに押していた。対して、まだ百単位の人数を誇る天使たちは、『天界に背いた裏切り者に負かされている』という怒りから顔を歪めて、吠えながら再び挑んでいく。
あらゆる方向から刀が飛んでくる状況の中、それでもアルスメリアは無表情だった。
どこか遠い目で、百を超える天使たちなど気にしないで、ただ一人まったく別のことを考えていた。
(……ああ。やっぱり、あの時告白しておけばよかったかな)
真正面から降ってきた刀を、右手に持つ刀で防ぐ。ガキィ!! と、激しい金属音が炸裂するが、直後には肉が切り捨てられた独特の生々しい音が響く。
防いだと同時に、アルスメリアがその天使の右足を左手に持つ刀で切断したのだ。さらにそいつの右耳上にあたりに、美しい曲線を描く回し蹴りを叩き込んで吹き飛ばす。
しかし、最前列にいる一人を倒したところで、後ろでまだかまだかと待ち構えている天使たちは最前列に補充される。よってアルスメリアは、こちらに斬りかかってくる天使の胸へ、左手に持っている刀を槍投げの要領で投擲した。
胸のど真ん中に刀は命中。
ズンッ!! と、その天使の背中から刀は生えて、あっさりと命を奪う。
(でも、あいつは私のことが好きだったのかなぁ……。だったら、やっぱりキスはしておきたかった、かな)
ズパンッ!! と、アルスメリアの背中についに敵の刀が直撃した。それほど深くはなかったが、焼けるような痛みが襲うはずである。それなのにアルスメリアは無情な目を持って、背後から斬ってきた天使の脇腹に反撃の刃を埋め込んでやった。
血しぶきが、パパッとアルスメリアの顔と黒髪にかかる。
彼女はそんなことにも意識を向けず、ただ作業をするように全然数が減らない天使共を斬り潰していく。
(―――あぁ、そういえば)
斜め上から振り下ろされた刀を残り一本の刀で受け止め、アルスメリアは空いている左手を使い、つばぜり合いとなっている自分の刀と相手の刀、その内相手の刀を無造作に握り締めた。
(あいつの傍にいたくて、ただそれだけの理由で軍にも入ったんだ)
グググッ!! と。
素手で、手のひらの肉を削がれながらも、敵の刀を強引に引き離して解放された己の刀を振り下ろす。
(本当、我ながら一途だなぁ。それなのに、あいつはちっとも私の気持ちを察してくれない)
相手の上半身をえぐるように深く切り捨てて、斬殺。しかしアルスメリアは満足感などに浸らず、ただ機械のように残っている天使たちに向けて走り出す。
「っひ!? く、くくっ来るなァァああああああッ!!」
そこで悲鳴が上がる。
彼女の姿を見て、生き残っている天使たちは怯え下がった。
腰まで伸びた夜色の髪は、八割ほどが返り血によって赤く染まっている。ベタついた血にその服を、肌を、顔を汚して、ほとんど血と一体化しているほどに鮮血をまとっているアルスメリアは、相変わらずな無表情で刀を持ち、殺しにかかってくるのだ。
恐怖を感じるには、当然の化物だった。
しかし、アルスメリアは彼らの悲鳴にさえ気づくことなく、思考と行動をバラバラにしていた。
(お前と一緒にいたくて、いざとなったら守りたくて、軍に入った。健気だなぁ、本当。……あぁ、本当に私は健気だ)
止まることなく、アルスメリアは流れるようなリズムで天使たちを切り倒していく。もはや誰にも止められなかった。ほとんどの天使たちがアルスメリアに対する恐怖に負けて、ガタガタと震えているだけの的になっているからだ。
一人、二人、三人。
次々と天使たちを切り捨てていき、アルスメリアはただ戦う。
(……だから、安心しろ。私は健気だ。健気で、一途な女だから―――)
残りの天使たちは、わずか五人。
逃げ出そうとする三人をまずは斬り殺し、残った二人の内、一人が突き刺してきた刀を左掌で受け止める。掌を刀は貫く。しかし、アルスメリアの左手を犠牲に刀を防いだ行為に驚いたのか、呆然としているその天使の首元を、スパン!! と彼女は風のような速度で斬った。
残りは一人。
向こうも相当な腕を持っているのか、突っ込んでくるアルスメリアに動じることはない。アルスメリアが今まで斬ってきた天使たちとは、別格に分類されるだろう。
それでも。
アルスメリアは、ただ彼のためにその命をかけてみせる。
(―――お前のために、最後の最後まで一途に生きるさ)
立ち向かう。
彼女はただ、惚れた相手のためだけに最後の壁へ立ち向かった。
二人は静かに激突した。
勝負は一瞬。アルスメリアと男の天使が互いに刀を振るい、お互いに交差してから背を向け合っている。
どちらが勝ったか。
そんなもの、すぐに見分けがついた。
ブシャァァァァッ!! と。
アルスメリアの腹部から、内蔵ごと飛び出たのではと疑うほどの血が噴出する。
彼女は激痛によって目を見開き、ドバドバと口から溢れてくる血を手で押さえながら崩れ落ちた。一瞬で床は血の池と化して、ビクビクと痙攣しながら死に押しつぶされそうになっているアルスメリアがそこにいた。
男の天使は、侮蔑するように彼女を見下ろす。
勝者の笑みをうっすらと浮かべて、裏切り者の始末を終えたので立ち去ろうと歩き出した。
その瞬間。
ピーっと。
男の天使の首に赤い線が滲むようにして浮き上がっていく。
彼は表情を顔から消して、そっと小さな痛みが走る首へ手を当てた。指にはなぜか血が付いている。その不可思議な出血に眉を潜めた、その時だった。
ゴシャッッ!! と。
彼ののどぼとけ辺りの皮膚と肉が鮮血と共に吹き飛んでいき、急所を的確に斬られていた彼もまた、アルスメリアと同様に床へ転がった。
しかし。
「……ぉ……わ、った……よ……………」
アルスメリアは、ズルズルと腕を使って必死に前へ這い進む。口元には小さな笑みを浮かべて、とにかく命が尽きるその時まで、進み続ける。
いいや。
ただ進むのではなく、会いに行こうとする。
会いたい。
ただ会いたいから、会うためには進まなくてはいけないから、彼女は出血が止まらない体で這う。
(……がん、ばったよ。がんば、ったんだよ)
だが。
そこで、ついに腕が上がらなくなった。
わずかに五センチほど移動した彼女は、それでも、少しでも彼のもとへ行こうと足掻き続ける。
必死に呼吸をして。
とにかく、腹部の傷を手で押さえて、止まらないと分かっていても出血を抑えている。
生きていなくては、会えないから。
生きていなくては、彼の胸に飛び込めないから。この想いを、伝えることもできなくなるから。
だから、彼女は足掻き続ける。
(だか、ら……ぎゅっと、……抱き、しめ……てよ……)
意識が遠くなっていく。
睡魔が彼女の傷ついた体を舐め回し、だんだんとまぶたが下がっていく。
視界が徐々に、暗くなる。
まぶたを下げきってしまえば、恐らくは二度と彼に会えない。
そうだと頭で分かっていても、
(……ああ、そう……だ、な。いつ……か、どう……せ……また、会えるよな……)
アルスメリア・エファーとは。
彼女の全てとは。
その目は、彼を見るためにあり。
その耳は、彼の声を聞くためにあり。
その声は、彼に想いをいつか届けるためにあり。
その命は、彼のために使い切るためにあったのだ。
だから、何も悔やむことはない。
自分のために戦ってくれた彼に、いつか恩返しをするため。彼をいつでも守れるように、妹を殺した因縁深い軍の下で、彼と一緒にいれるから生きてきた。
守れた、はずだ。
少なくとも、アルスメリアが生きてきた理由は、確かにあったはずだ。
だから。
彼女は笑って、まぶたを閉じる。
その生き様に、誰よりも彼女自身が満足して終わる。
まるで桜のようだった。
あの日見た、四人で見上げていた満開の桜のような生き様だった。
何よりも美しく。
しかし、すぐに散ってしまう命。
……いいや、『しかし』ではないのだろう。
美しいが、はかない―――だからこそ、はかないからこそ、彼女の死に様とは『美しい』のである。
さあ行こう。
そろそろ、自分は散るべきだ。
たくさん咲き誇って、十分に輝いて、彼を照らすことはできた。
ならばもう、散ろう。
ただし、最後まで美しく散ってみせる。
死に様すらも美に変えて、彼女は想い人のことを思いながら終わった。
アルスメリア・エファー。
その死人とは思えないほどに幸せそうな表情は、彼女が地獄ではなく楽園へ行けた証だった。