囮
「……ここみてえだな」
クロア達は目的の螺旋階段へたどり着き、上り、四階へ繋がる扉の前で息を潜めていた。うっすらと扉を開けて外の様子を確認すると、そこには案の定、目的の四天宝の前で大勢の天使たちが警備をしている光景があった。
ここはT字の通路。扉を開けて飛び出せば、右にも左にも道はあり、目的の四天宝は直線上に見える。もちろん右か左に行くことはできないので、ここは一直線に四天宝まで突き進むしかない。
「クロア、分かるか?」
「ああ。四天宝の前で警備してやがる天使共、見覚えがある。全員かなりの腕っ節だ。っつーかそもそも、数が多すぎる」
扉の隙間から見える天使たちの数だけでも、おそらくは百を超えるだろう。くわえて扉の先には最強の大天使、ミカエルという親玉が待ち構えている。
ここで馬鹿正直に突っ込むのは危険だ。
勝目がない、そう確信できてしまう。
「―――なあ、クロア」
ふと、アルスメリアが小さな声で呟いた。
クロアは振り向くと、彼女に首をかしげる。
「どうした、急に。ビビって動けねえか」
「アホ。私がそんな臆病な女に見えるのか」
「そりゃ……見えねえけど」
「それはそれで嫌な答えだな。まるで私が女には見えないという風にも聞こえる」
「じゃあどうすりゃいいってんだ、おい……」
「はは」
笑みをこぼしたアルスメリアは、一歩だけ、彼との距離を大きく詰める。さらに、トンとクロアの胸へ額をつけ、優しく彼を抱きしめた。
その表情は、見えない。
ただ、その声がとても震えていて、不安定だということは耳で理解できた。
「……ごめん、なさい」
「……何がだ、ちゃんと喋れ馬鹿」
彼女の言いたいことを分かっているのか、クロアは苦笑しながら言った。すると、アルスメリアは彼の服をぎゅっと掴み、やはりいつもの彼女とは思えない弱々しい声で告げた。
「私の、妹を……!!」
あの時。
「助けようとしてくれて、でも……それで……!!」
自分は怯えて何もできなかった。
それでも、彼だけはその命をかけて天界を相手に立ち上がってくれた。
「お前が、代わりに、苦しむ結果になって……!!」
自分はただ泣いて、震えて、それで終わり。
あとのことは、全てダーズ・デビス・クロアが背負って苦しんでくれた。
だから。
あの時、全ての絶望を抱えてくれたことに。いいや違う。全ての絶望を抱えさせてしまったことに対して、アルスメリアは言った。
「ごめん、なさいっ……!!」
「……」
クロアは沈黙を返す。
しかし、すぐに口ではなく手で返事を出した。
ゴン、とアルスメリアの頭を軽く殴る。そしてその拳を開いて、彼女の頭を貴重品を扱うように撫でてやった。
「―――ドアホ。そんなもん一切気にしてねえよ。昔も今もこれからも、ずっとずっと、お前を責める気なんてない」
「……どうせ、そう言うと思った」
「本心だから仕方ねえだろ、馬鹿」
「どっちが馬鹿だ、この大馬鹿」
アルスメリアは、大きくクロアの胸の中で息を吐く。そして、口元を緩める。なぜか清々しい笑みを浮かべた彼女は、ようやく彼から体を離した。
クロアの隣にいるサタンを見て、微笑みながら頭を撫でてやる。
そして、
「言いたいことは言えた。もう、いい」
何がもういいんだ、そうクロアが問おうとした時には遅かった。
バン!! と、アルスメリアは扉を開いて外へ出る。
約五百人の警備隊の天使たちを前に、ただ一人、彼女は凛々しい瞳でその強敵たちを見捉える。
クロアとサタンが、息を飲んだ時には遅かった。
彼女は警備隊たちに気づかれる寸前に、一番近くで待機していた天使の背中を取った。背後から、死角から、その天使の顔を両手で引っつかんで、強引に後ろへ回して首の骨を折る。
さらに、その天使が腰にさしていた二本の刀を奪い取る。
そして鞘から刀身を抜き取り、いらなくなった二つの鞘をその辺へ投げ捨てる。その音で警備隊の天使たちはアルスメリアの存在に気づき、一斉に彼女へ視線が集まった。
わすかな静寂。
突然の謀反人の登場に、警備隊は度肝を抜かれたようだ。
しかし、それも本当に一瞬。
「む、謀反人だァァああああああああああああああああああッ!! 殺せっ、殺せェェええええええええええええええええええええええええええええええええええええええええええ!!」
誰かが大声を上げて、それが合図となった。約五百人の武装した天使たちがアルスメリアに向かって走り出し、彼女の首を刈り取ろうとする。だが、そこでアルスメリアは応戦をしなかった。彼女はクルリと踵を返すと、四天宝から警備隊を引き離すために、右方向へ繋がる廊下を駆けていく。
彼女はこちらを、最後に見つめていた。
うっすらと開いている扉の隙間から、その満足そうな表情が見えた。
咄嗟に、胸が締めつけられたサタンが思わず飛び出そうとする。
「アル姉ちゃ―――」
「サタン」
しかし。
ぴしゃりと、サタンと手をつないでいるクロアが言った。既にアルスメリアを追ってほとんどの警備隊は消えている。これで、アルスメリアの犠牲で、四天宝へたどり着くことは容易いことになった。
だからこそ、彼女の行動を無意味にしないためにも、
「追うな」
「で、でも……!! あ、アル姉もファー姉も、こんなの……やっ、やだよ!! だ、だって、や……約束して、み、みんな一緒って、約束して……ッ!!」
その銀の瞳を涙でいっぱいにしているサタンを、クロアはぎゅっと抱き寄せた。小さくて、はかなくて、今にも散ってしまいそうな、女の子だ。
だから、守らなくてはならない。
こんなか弱い子供は、もう、クロアだけしか守ることができない。
二人は、いない。
ならば、彼女たちのためにも、クロアが絶対にサタンを守る義務がある。
みんながいなくなった。
二人が、アルスメリアとファーリスが犠牲になった。
その言葉に対して、クロアは涙をこらえながら、あの二人のように笑みを浮かべて言った。
サタンの頬に手を添えて、優しく力強く、言った。
「―――それでもだ」
それでも、進むしかない。
どれだけ心が折れそうでも、その歩みを止めてはならない。
だから。
二人は静かに抱き合って、今はただ、その残酷な現実に涙した。