笑顔と共に
天界軍総本部が生み出した、最悪の生物が巨人のような拳を振り上げる。
まるで杭を打ち込むように、ファーリスの脳天へ大地を裂くような鉄槌が降り注がれた。彼女の華奢な体など、紙のような薄さへ変えられてしまう威力で叩き潰してきた。
しかし。
ファーリスは、うっすらと目を細くして刀の柄に手をかけた。
瞬間。
トン、と。
振り下ろされた怪物の巨大な右腕が、あまりにも軽い音と共に肩から切断された。
剣筋など見えない。
そもそも、鞘からその刀が抜かれたのかどうかも不明な、神速としか言い様のない居合切りだった。誰もが呆然とその鮮やかで圧倒的な一撃に目を奪われた。敵のジルクスも口を半開きにして、あまりにも滑稽な顔で立ち尽くしている。
当然、鼓膜をかき回すような怪物の悲鳴が上がる。
振り下ろそうとしていた右腕が一瞬で失われて、体勢を保てなくなった異形の怪物が派手に地面へ倒れこんだ。痛みに苦しむ激しい絶叫と共に、その巨体はのたうち回りながら無様に転がっていた。
少しの時間ができた。
よって、すぐさまクロアの腕の中にいたサタンが声を上げようとする。
「っ!! ファー姉ちゃ」
しかし。
「―――いいから行きなさいッッッ!!」
そこで、誰も聞いたことがないだろうファーリスの怒声が炸裂した。彼女の横顔から伺える目はとてつもなく据わっていて、おだやかで優しいいつものファーリス・エルサンガーの面影は一切ない。ゆえに、サタンは彼女の豹変とも言える表情にビクッと身体を震わせた。
だが。
「って、こういうキャラは私には似合いませんね」
ニッコリと、普段の温かい微笑みを彼女は浮かべてくれた。
サタンは何か言いたそうに口を開くが、そこでクロアが言った。
「……ファーリス」
「はい」
二人は一瞬だけ視線を交差させて、
「任せるぞ」
「任されました」
クロアはサタンを抱え直して、踵を返して走り出す。その遠ざかっていく背中を見て、ファーリスは軽く苦笑していた。
そして、沈黙していたアルスメリアは、
「……ありがとう」
それだけを言い残し、急いでクロア達のもとへ駆け出した。ファーリスは仕方なさそうに、「ええ」とだけ言葉を返す。
ありがとう、と彼女は言った。
それはつまり、理解していたのだ。ファーリスが自分のために、『妹の成れの果て』である怪物を相手にしてくれたことの意味を。
どれだけ見た目が醜悪だろうと、それでも中身は妹が混じっている。
だから、おそらくアルスメリアでは躊躇する。その油断が彼女の死を招き、最悪の運命となるだろう。
かといって、クロアもまたアルスメリアの妹とは深い関わりを持つ。
ならばもう、決まっている。
アルスメリアの妹という存在に、躊躇いなく刃を突き立てられる存在など、ただ一人。
「あーあ、本当はもうちょっと、クロアさん達と冒険していたかったんですけどねー。本当に、私って損な役ばっかり背負うんですよ。昔からそうです」
嘲笑しているジルクスを見とらえて、彼女は面倒くさそうに溜息を吐いた。
そして、足にグッと力を蓄えて、
「―――けどまぁ、こういうのもカッコイイ役割かもですね」
一瞬だった。
本当に一瞬で、その姿がフッと消失する。そしてファーリスの身体は、気づけばジルクスの真後ろに出現した。
カチン、と。
その鞘から少し抜いていた刀を、彼女は丁寧にしまう。
同時に、ピーっと呆然としていたジルクスの首元に赤い線が浮き上がってきた。まるで絵の具が滲んでいくように、内側からその赤線は現れる。
「は?」
困惑した声を彼が上げた瞬間、ボンッッ!! という炸裂音と共に血しぶきが首元から噴き出した。噴水のような勢いで四方八方へ鮮血は飛び散り、気づけば辺り一帯に血の池地獄と呼ぶにふさわしい血だまりができあがる。
彼は目を見開いて、ガクガクと震える膝で体重を支えていたのだが、
「ば、か……な……!?」
ついに力尽き、無抵抗に地面へ崩れ落ちる。完全に息の根は止まっていた。あの一瞬で、確実に仕留めたのだ。それだけ、ファーリスの魔力を込めた抜刀術はレベルが高く、元帥という地位につく者としての力量は計り知れないことが分かる。
「さーってと。それじゃさっさと始めましょうか」
ファーリスはグッと伸びをして、息を吐いてから薄く笑う。
ユラユラとようやく起き上がった巨大な怪物を見上げて、北方軍元帥のファーリス・エルサンガーは不敵でおだやかな微笑みを作る。
宣言した。
いいや、宣言してやった。
「この腐った天界に縛り付けられているその命、私がきちんと解き放ってあげます」
だから、と彼女は付け足して。
残っている左腕を振り上げて吠える、天界軍総本部の天使達の『被害者』である怪物を哀れんで、
「これは殺し合いじゃない。魂をあるべき場所へ返す、ただのボランティア活動です」
彼女は『雪刀』に魔力を込めて、薄く笑いながら飛び出した。