世界で一番の幸せものとは
「クロアさん」
日が落ちて満月が姿を現したとき。
そろそろこの別館を方位している天界軍も、何かしら動きを見せてくるだろう時にファーリスが近寄って来た。場所は館内の中にある、とある大きな広間。どうやらこの寮を使っていたアルスメリアが、秘密の抜け道を知っているとのことらしい。この館内で生活する天使たちのために、いつ出動命令がきても即座に天界軍総本部へ迎えるよう、専用の地下通路が用意されているらしい。
ここを使って、なんと彼らは『天界軍総本部に戻る』のだ。
これは天界軍たちも予想外のことだろう。自分からもっとも険しい山、天界軍総本部に戻るということは、うじゃうじゃ存在する敵兵たちの根城に進むことと同義。
そこを突くのだ。
どうせ逃げられない。奴らは地の果てまで追ってくる。ならば、一気に敵の大将様である大天使ミカエルの首を取りに戦場へ赴く。
その作戦を決行寸前の時に。
ふと、ファーリスは隣に立っているクロアに尋ねていた。二人は林立する本棚をずらしていき、通路の扉を探しているアルスメリアを眺めながら言葉を交わす。
「何だよ、急にマジな声だして」
「はは、まぁらしくないですよねー。それは自分でも分かってまーす」
「んで、何だよ急に」
あらためて聞くと、ファーリスは呟くように告げた。
視線を落として、声を小さくして。
「私、今までずっとニコニコしながら生きてきました。怒られても、泣きそうになっても、とにかく笑ってごまかしてたんです。本当は泣きたい時も、いつだってニコニコ嘘の笑顔を浮かべて生きてきました」
「……そんで、どうした」
「―――何が幸せなんでしょうね。いつも嘘ばかり自分についてた私には、幸せというものの姿も目が映してくれません」
「……」
形のないものを求める少女は、いつも自分を騙して生きてきた。おかげで大切なものを感じることができず、徒労に終わる人生を歩んできたのだ。
だからこそ。
彼女は、この機会に知りたいのだろう。
幸せというものの、形を。
「んなモン、決まってるだろ」
クロアは当然のように教えてやる。彼女が長いあいだ時を流れて、それでも、何一つ分からなかった難問を解いてみせる。
「世界で一番笑顔になった奴が、世界で一番の幸せ者だ」
キョトン、とした顔になるファーリス。
首をひねる彼女に、クロアは面倒くさそうに教えてやった。
「本当に、腹の底から笑顔になるときはどんな時だ? 楽しいとき、面白いとき、安心するとき―――笑顔のスイッチってのは、そういう『幸せな時』なんだよ」
「……」
「だったら、死ぬまでに百回笑うより千回笑え。そうすれば、百回しか幸せになれなかった奴より、千回幸せになった奴の方が幸せ者なんだよ」
「……」
幸せという形は、笑顔ということだ。ならば必然的に笑顔をたくさん浮かべた者こそが幸せ者であり、逆に、生きていて笑顔をちっとも浮かべられなかった者は可哀想な敗者だ。人生という長い道のりに負けて、笑ってゴールテープをきることもできない哀れな生き物で終わる。
だから。
本当に幸せというものを欲するならば。
「とにかく笑ってろ。テメェがいつも浮かべてる笑顔が、たとえ『偽物』だとしてもだ。一億の『偽物』の中に、十の『本物』があるかもしれねえ。だからひたすら笑ってろ。ひたすら笑顔を咲かせて、毎日を生きて見せろ。―――その中で拾えた『本物』こそが、きっとお前の幸せを作ってくれる」
断言したダーズ・デビス・クロアは、そこで急に歩き出してしまった。どうやらアルスメリアが目的の通路の入口を見つけたようで、ずらされた本棚の先に一枚の扉があった。いよいよ出陣。もう、ここから先には地獄しか待っていない。一切の休息も安堵の空気も存在しない、ただ命の奪い合いだけが待つ戦場へ向かうのだ。
(そっか)
ファーリスは、先を歩いていくクロアの背中を見つめる。彼の隣には小さなサタンがいて、彼女のためにクロアは今までどれだけ笑ってきたのだろうと考えた。
数え切れない。
きっと彼の幸せは、既に確立しているのだ。
(私の幸せは、きっと……)
くすりと笑ったファーリス。
すると、そこで腕の袖がくいっと引っ張られた。前からサタンが歩き寄ってきたのだ。純粋無垢な銀の瞳を下から覗かせて、微塵も汚れていない目を真っ直ぐに向けてきて、彼女は心配するようにこう言った。
「我輩の幸せは、みんなと一緒にいることだよ?」
「……はい」
「だから、ファー姉とアル姉とクロアがいれば、どこにだって行ける。ずっと一緒にいたいから、ずっと一緒にいる」
「ふふ、大丈夫ですよ。サタンちゃん、私たちはどこにも行きませんから」
「うん。じゃあ―――ファー姉の幸せは、なに? 我輩はみんなといることが幸せ。じゃあ、ファー姉の幸せは、なに?」
「……そうですねぇ」
何が幸せか。そんなもの、とうに答えは出ていた。何が幸せかを分かっていたから、それを守りたかったから、こうして天界を敵に回して立っている。たった四人で世界を相手に戦っているのだ。故に、自分の幸せなど理解していたファーリスだが、あえて彼女はこう言った。
微笑んで。
サタンの頭を優しく撫でて。
「幸せ、見つけてみせますね。この一世一代の反逆の中で」
幸せを知らないままで、今はいよう。
自分が本物の笑顔を浮かべるときが、一体、誰達と一緒にいるときか分かっているが認めてはダメだ。生きる意思が小さくなる。これから向かう戦場の中で、きっと、何度も絶望的な窮地に立つことになるだろう。
だからだ。
幸せを知らないまま戦うことで、『幸せを知らずに死にたくない』と生きる力を固められる。生の源を増幅させることで、この戦いを絶対に生き残ってみせるのだ。
天界軍総本部へ繋がる、地下通路の扉を開ける。
中には地下へ繋がる階段があり、ここから直接目的の戦場へ侵入できることが分かった。
四人の反逆者は地獄がパックリと開けている口の中に入るように、躊躇うことなく茨の道へ続く階段を降りていく。