9、 雨の土曜日 (2)
ワイパーがリズミカルにフロントガラスを拭うのを、杏奈は黙って見つめていた。が、ワイパーを見ているのか、雨に煙る街を見ているのかわからないくらい、気持ちは高ぶって緊張している。
軽いハンドルさばきで混んだ通りを易々と走らせる高遠の傍は、電車の中より落ち着かない。
「神戸港を見ながら、上手いケーキとコーヒーやな」高遠がちらっと笑顔を向ける。
「あ、ええ。でも、このまま香櫨園へ向かってもらっても……」
杏奈は両手を膝の上で握りしめて、高遠の横顔に言った。
「杏奈さんとのせっかくのデートタイムを三〇分で終わらせる気はないよ」
高遠はからかうように眉を上げて見せると、白いドーム形をしたオリエンタルホテルへハンドルを切った。つまらないジョークだとわかっていたが、頬が熱くなる気がして、杏奈は恥ずかしそうに俯いた。
ホテルの一階にある喫茶室へ入った。広々とした喫茶室は天上まで一面のガラス張りになっている。窓の向こうは桟橋で、中突堤から豪華な客船がゆっくりと出航していくところだった。デッキから手を振る人の様子まで見え、杏奈は目を丸くして見入った。
「大きい船ですねえ」ソファに浅く腰を掛けたまま息交じりで顔を向けると、高遠は微笑んで杏奈を見ていた。
「外国籍の客船や」
「素敵ですね。海外へ行くのかしら」
杏奈は瞳を輝かして言うと、うっとりと出航してゆく船を眺めた。
「何日も船に閉じ込められて航海するのは退屈やないかなあ」高遠がぽつりと言う。
小首を傾げながら、杏奈は彼に笑いかけた。
「船の中はいろんな施設や催しがあるでしょうし、もちろん一緒にいたいヒトと行くんですよ。恋人同士みたいな」
「ロマンチックやな」
と、高遠がにんまり笑ったので、杏奈は真っ赤になった。
黒い制服を着たウエイトレスが水のグラスをテーブルに置く。
高遠はスウィーツのメニューを杏奈に渡し、ケーキを選ばせた。杏奈はダージリンと洋ナシのタルトを選び、コーヒーを頼む高遠を微笑んで見つめた。
杏奈と違い、彼はゆったり構えている。
思えば男性と二人でお茶を飲むのは初めてのことだと気付いた。また一つ新しい経験をしているんだと思うと、杏奈は今日が特別の日に思えた。
でも、車から降ろしてしまった女性のことが頭を過ると、気持ちは沈んだ。
美しい大人の女性。洗練されていて自信にあふれた人。彼の恋人に違いない。
ソファに背を持たせ、船が去った中突堤を眺めている高遠に、杏奈は躊躇いがちに訊ねた。
「あの、本当に大丈夫ですか?」
高遠が怪訝な表情で「何が?」と顔を向ける。
「美紀さん、気を悪くなさったんじゃあないかと」
「美紀? ああ、彼女はあのデパートに努めている同僚に会うためにきたんや。転勤前に挨拶したいと言ってね。君を送っていくことになってちょうど良かった。彼女もゆっくり話せるだろうし」
「だったら、いいんですけど。お邪魔したみたいで」
杏奈は申し訳なさそうに、目を伏せて言った。
「美紀はそんなこと気にせんよ。東京行の準備で忙しいし」
「いつ東京へ?」
「来週の土曜日には引っ越しや」
「そうですか。離れ離れで寂しくなりますね」
杏奈が言うと、高遠は一瞬視線をコンクリートの突堤に向け、笑みを閉じた。
「そうやな。十年以上付き合ってたから、寂しいやろうな」
と、窓に向かって言う。
十年――杏奈は見開いた目で高遠を見た。彼は照れくさそうに前髪をかき上げると、口元にうっすらと笑みを張り付けた。
「学生の時からのつき合いなんや。気がついたら10年以上経ってたって感じやけど」
結婚は? と訊ねかけて、杏奈は言葉をのみこんだ。友人未満の自分には、踏み込んではいけない話題に思えた。
「確かに寂しくなるな。美紀が引っ越したら」高遠がまた窓を見ながらひとり言のように言った。
ウエイトレスがお茶を持ってきた。
杏奈はテーブルに置かせるおいしそうなタルトとお茶の香りに鼻孔をくすぐられながら、高遠にとって、この時間は無意味なものなのだと思った。
杏奈とは、朝同じ電車に乗り、不自由だから手を貸しているだけの関係なのだ。いままで高遠から携帯番号を尋ねられたこともないし、通勤時間以外に親しくなろうという気持ちはまったく無いようだった。杏奈は取るに足らない存在なのだ。
胸がぎゅっと締め付けられる気がして、杏奈は大きく息を吸う。
でも何気ない風で、タルトを食べ始めた。甘い香りが口にいっぱい広がる。
「美味しい!」満面の笑みで、高遠に言った。
高遠は顔を輝かせてケーキを口に入れる杏奈に微笑みながら、
「雨やなかったら景色も最高やし、言うことないんやけどな」
とコーヒーを飲みながら言った。青い空の下で陽光あふれる神戸港を見せられなかったのは、残念で仕方なかった。
杏奈は紅茶をこくりと飲むと、首を振った。
「私、雨は嫌いやないです。ほら、何だかシャワーみたいに街を洗い流してくれるでしょ? 埃っぽいものや汚れたものを全て綺麗にしてくれそうな気がしません? 特に雷雨とか嵐とかになると、わくわくしてました。どんな雨上がりやろうって」
杏奈の言葉に、高遠は声を上げて笑った。
「わくわく? 嵐が怖くないの?」
杏奈は少し答えに戸惑うように首を傾げながら、両手に包み込んだティーカップを見ながら言った。
「雨だと……、なんていうか、天気の良い日みたいに外を気にしないでいられたんです……。自分だけ家の中に取り残されているって思わなくて良かったから」
そうして少し寂しそうな笑みを、高遠に向ける。
高遠は白いカップを静かにソーサーに戻すと、眉を寄せ躊躇いがちに訊ねた。
「ずっと車椅子やったって言うてたけど、足の状態はそんなに悪かったの?」
杏奈はティーカップをソーサーに戻すと、虚ろな表情になった。
「潰れた家は古い木造の家でした。助け出されたとき、左足の上に太い梁がどんと乗っていて、膝から下が潰れた状態でした。運よく右足は腿の骨折だけで完治したんですが……。でも私……、右が治っても歩けるような気がしなくて……、痛みの恐怖が残っているというか……。骨折が治っても車椅子から立ち上がれなかったんです。地震の後は何もかもがめちゃくちゃで、両親も怪我をして家も全壊ですし、私に関わってばかりいられない状況でした。それに入院した病院も混乱が続いていたし、いろいろ重なって、一年ほどリハビリも出来なかったんです。そのまま右足で立つのも怖くなって……。だから、もう車椅子で生きてゆくしか仕方ないと思っていました」
高遠は辛そうに目を細め、テーブルの上で手を握り締めた。かける言葉さえ見つけることが出来なかった。
でも、杏奈はふっと笑顔になり、明るい口調になった。
「高校三年の時、大阪の医大へ進学した兄が、その大学病院で再手術を勧めてくれたんです……。5年間手術とリハビリを繰り返しました。足を成形して、歩くための筋肉を一からつけていくんです。リハビリは本当に苦しかったけど、歩けるって言う希望に勝る薬はなかったようで、こうして杖だけで歩行できるようになったんです」
「五年? 君は……、すごい人だな」
と、高遠の慈しむような優しい目に、杏奈は頬を染めて微笑んだ。
「いえ、すごいことなどないです。その間、何度も挫折したし、両親や兄を困らせてばかりいました。でも、目的を持っていると乗り越えていけるものでしょう? いろんな人に助けて貰いましたし、その方たちに応えたいと思ってとにかく必死でした。いっぱい支えられて、励まされて、叱られて、今の私があるのだと思います」
高遠は眩しそうに彼女を見た。えくぼをへこませ、きらきらと黒い瞳を輝かせて笑う顔が、とても綺麗だと思う。
杏奈を苦しめた震災。高遠も胸をえぐられるような痛みを感じ、奥歯を噛み締める。
「あの地震は……、本当にひどかった……。都市が、それも近畿圏屈指の大都市が破戒されて何ヶ月も麻痺してしまい、大勢の人が亡くなったんやから。あの時の恐怖や混乱は、被災地におらんとわからん」
杏奈は神妙な顔でこくりと頷いた。
「高遠さんのおうちは無事やったんですか?」
「うん。家も家族も無事やった。戸建ての近所の家が何軒か倒れたり、けが人が出たりして、大騒ぎになったけど……」
そう言った後、高遠はフラッシュバックする記憶に、一瞬言葉が詰まった。
「高遠さん?」宙に向けられる彼の虚ろな目を、杏奈は不安そうに覗き込んだ。彼の黒い瞳は雨にけむる神戸の空を映すように、鬱々として翳っている。
高遠は沈んだ表情のままで、一口コーヒーを流し込んだ。そして、ポツリと言葉を零す。
「同級生が亡くなった。十六歳で……」
「え?」
「同じバスケ部のマネージャーやった女の子で……。一人で死んでいった」
杏奈がフォークを皿にカチャンと落とした。両手をテーブルの上で握り締めている。杏奈の顔が強張り、蒼白になっているのに気づいたが、高遠は話すのを止められなかった。震災で同じく命の危機に遭った彼女と向かい合って、ずっと心の奥で凍っていた過去の記憶が溶け出してきたかのようだった。
「家が潰れたのですか?」
杏奈が震えた声で訊ねた。
「二階建ての木造アパートの一階にお母さんと二人で住んでいたんや。看護師だったお母さんが夜勤で留守の日に地震に遭った。一階は押しつぶされて……、建物の下敷きになったんや」
「お気の毒に……」
瞳はまっすぐに高遠を見ていたが、杏奈の口元にあてがわれた手が、小刻みに震えているのがわかった。
高遠は慌てて、明るい表情を向けた。
「いや、こんな話するべきやないね。もっと楽しい話をしよう」
杏奈はゆっくりと頭を振ると、黒い瞳を涙で滲ませて言った。
「話してください。彼女のこと……。私、同じ目に遭いましたが、命は救われました。でも、死んでもおかしくない状況で……今でもあのときの恐怖や痛みは忘れられません。わかってもらえる人……、興味本位ではなく、心から悼むことが出来るのは同じ被災者だけやから。高遠さんは彼女のことを話して、思い出してあげるべきです。私、もし死んでたら……、きっと大事な人には忘れて欲しくないって思います」
高遠はまるで時間が止まったかのように、杏奈を見つめた。決意したように彼女は、澄んだ瞳を向けてくる。
「大事なお友達やったのでしょう?」
杏奈が促すように首を傾け、口元をきゅっと引きしめた。
高遠は迷いを押し出すように、大きく息を吐いた。すでに頭の中には沙織の笑顔が浮かんでいる。十七年も前のことなのに、不思議なほどはっきりと。
「うん、大事な友人やった。バスケが好きでマネージャーを買って出た子やから、プレーについても何かとうるそうて、練習中も誰彼なしに檄を飛ばしていた。中学の時は選手やったんやけど、背も低いし上達しなかったから、女子バスに入るのはあきらめたらしい」
杏奈がこくりと頷いた。
「男勝りで行動的で、大きな声で笑う明るい子やった。その頃の俺っておとなしいほうで、女の子と親しく話したりするのが苦手やったんやけど、彼女だけは違っとった。押しの強いっていうか、何にしても積極的なタイプ」
高校一年の頃が鮮やかに蘇る。杏奈のまっすぐな瞳に向かって、戸惑いもなく沙織のことを語れる自分が不思議に思えた。
「大きな目をくるくる動かして、生意気なことをポンポンいう沙織が、初めは苦手やった。でも、俺が、中学からバスケやっていたこともあって、一年生でレギュラーとして練習することになったんやけど、夏の大会を目前にして捻挫してしもて……。試合に出るチャンスを棒に振って落ち込んでいた時に、泣き言の聞き役になってくれたんや。彼女の励ましで、気持ちが吹っ切れた。それから親しく話すようになったんや」
体育館の裏で、落ち込んで膝を抱えた高遠の隣に座ってきた沙織。苛立ちを沙織にぶつけている自分。高遠は二人の情景を思い出し、その切なさに思わず口元で手を組んだ。
「優しい人やったんですね」
杏奈は目を伏せた彼の顔を覗き込むように見ながら訊ねた。
「うん。もちろん俺にだけじゃなく、皆に……。マネージャーがぴったりの子やった。すごい世話好きで」
杏奈が目を細め、笑みを浮かべる。ピンクの唇が弧を描くのを見て、高遠は微笑み返した。
「彼女が好きやった」
組んだ手に力を込め、高遠は自分の声が微かに震えるのを隠すように窓へと視線を向ける。
「初めて好きになった女の子やった。彼女といるだけで、嬉しかった。彼女に認めて欲しくて必死に練習したし、他の奴と話しているのを見ただけで腹が立った……。そやけどいざ話すとドキドキしてうろたえるんや。全く、思春期っていうのはややっこしいもんやな」
杏奈がくすっと笑うのが聞こえて、高遠も照れたように目を伏せる。
「なかなか気持ちを打ち明けられず、マネージャーと部員の関係は変わらんかった。それが、ちょうど地震の前の日、急に電話があって呼び出されたんや。一月の寒い日の夕方、夙川公園で二人で会った。沙織ははっきりと好きやと言ってくれた。あんまり突然やったし、舞い上がってしまってね。なんや照れくさくって、俺も同じ気持ちやっと言えんかった。情けないことに」
高遠は再び大きな窓に目を向けた。広がる海は雨に煙っていて、水平線が灰色の空に溶けたように消えている。ぼんやりと対岸のポートアイランドの船着き場を見た。朱色の荷下ろしのリフトが冷たい雨に消沈したように立っている。
高遠君は私の特別だよ――不意に沙織の声が聞こえてきた。夙川の土手で別れ際に振り向いた沙織は、赤い頬をして言ったのだ。自分は一言も答えてやれなかったのに。
「あの時に好きやって、言うべきやった。家に帰ってから、明日会ったらつきあってくれって言おうと決心したけど……。もう二度と逢えんかった」
高遠は独り言のように、後悔を呟いた。沙織も気持ちを聞きたかったはずだと思うと、胸が詰まり目を伏せる。
「地震の朝、家の中はめちゃくちゃで、家族とともに香櫨園小学校に避難した。妹や両親を守らなあかんし、実のところ沙織の安否は避難所に落ち着くまで考えなかった……。偶然バスケ部の友達にあって、急に沙織のことが心配になったんや。でも連絡も取れず、その友達に無理やりつき合わせて、JRの近くの彼女の家へ向かったんや」
幼馴染でもあった谷川は、自分の家も半壊だったが、両親を説き伏せて高遠についてきてくれた。早朝は通じていた電話も、避難するころにはどこにも掛からなくなっていた。沙織の無事を確認したら他の友人の安否も確かめようと話しながら、自転車で夙川沿いを北へ向かった。
「阪神電車の高架を潜り抜けて、目を見張ったよ。駅より北はもっとひどい状況やった。マンションがバッタリ倒れているし、古い大きな塀の家が屋根だけになっている。人が寝間着のままで出ていて、潰れた建物に集まっていたが、皆途方に暮れた顔をしていた。道路は、崩れた家や物に阻まれて、迂回しないと通れない。顔に怪我をした人が、浜の回生病院まで抱きかかえられ運ばれていったし……。血まみれの人を見て、二人で恐々としながら自転車を押してあるいていったんやけど、途中で助けを頼まれてしまって……」
高遠は脳裏に浮かんできた光景を消し去るように、ぎゅっと目を瞑った。
「二時間後に沙織のアパートに着いたときは、もう病院に運ばれていた。後を追って県立病院へ行ったけど、沙織は亡くなっていた……」
虚ろな視線をテーブルに落とし、握った手の関節が白くなった自分の手をじっと見つめた。