8、 雨の土曜日
週末、朝から久しぶりに雨が降っていた。
高遠は約束どおり美紀と昼前に会い、食事をして、神戸の繁華街の元町へ車で出てきていた。
神戸デパートで買い物をしたいという美紀の希望だったのだが、土曜日の午後のデパート周辺は人通りが多く駐車場もいっぱいだった。仕方なくデパートから一区画離れた通りに車を停めて待つことにしたのだ。
エンジンを切った運転席でぼんやりとフロントガラスを伝う雨の筋を眺めた。しずくに歪んだ灰色の風景は、虚ろな気分の背景としては申し分ない。
時折ワイパーを動かし、通りを行き交う車を確認する。かれこれ一時間、カーステから流れる音楽と、重い空気の愛車の中でぼんやりと待っている。来週には東京へ引っ越す美紀との時間は、あまり残されていないのに、こうしてぼんやりしている自分に呆れるばかりだった。
手持ち無沙汰な両手をヘッドレストに差し入れ、頭の後ろで組んでため息をついた。
高遠は幼いときから、あまり感情を出さない子供だった。母は、公務員でいつも冷静な父親とそっくりだとよく言ったものだ。
勿論怒りも嘆きも人並みに感じるが、それを飲み込む理性的な自分が好きなのだ。美紀に対しても、物分りの良い男でいたいと思っている。
「ごめんなさい。待たせちゃって」
美紀が扉を開け、デパートの紙袋を三つ助手席に置き、自分は赤い傘を窄めて、しずくを振り払っている。
「済んだ? ブースの皆には会ったんか?」
そう訊ねながら、高遠は美紀の買い物を後部のシートへ移した。
「買い物は済んだけど、売り場のスタッフ全員には挨拶できなかったわ。大川主任がまだ来てないみたいなの。彼女には挨拶したかったんだけど」
助手席に座った美紀はドアを手早く閉めて、さも残念そうに隣の高遠を見た。大川主任というのは、彼女の後任で、同僚というより友人だと彼も知っている。
「大阪の阪急デパートの手伝いに行っているらしくって、あと一時間ほどしたら戻るだろうって」
「会いたいんだろう?」
美紀がチラッと高遠の横顔を見た。
「そうね。でもいいわ。また会う機会はあるし。彼女には電話で断っておく」
エンジンを掛けようとスターターボタンに伸ばした指を、彼はハンドルに戻した。
「会いたいなら、もう少し待っていてもええで。顔を見て、別れを言いたいやろう?」
美紀は長い指をぴんと張って、顔の前で振った。
「いいのいいの。会ったら、話が長くなるし、これ以上貴方を待たせたくないわ。私の都合ばっかり押し付けてごめんなさい」
高遠は、すまなそうに首を傾ける美紀に、
「準備もあるし、引継ぎもあるしじゃあ、あんまり神戸に出て来れないやろ。俺はいいから、会ってこいよ」と、顔を寄せて微笑んだ。
美紀は暫く思案するように、唇を舐めながらフロントガラスを見ていたが、
「有難う。じゃあ、どこかでお茶を飲んで、もう一度ここへ戻るわ」
と、ウエーブの掛かった髪を首筋から後ろに払って微笑む。
「OK」
メタリックブルーの車が静かにエンジン音を響かせる。ワイパーが窓に溜まった雨の雫をかきとると、視界が開けるように混雑したデパートの前の通が現れる。高遠は体を捩り、背後を確認するように、サイドの窓から後方の歩道に目を走らせた。
視線の先に、デパートから出てくる買い物客の色とりどりの傘が目に入る。その後ろに、片手に持ちきれないほどの荷物を持った女性がいた。
高遠は目を細めて、その人を見た。雨の中、傘をさしていない。足元を見ながら、歩きにくそうに体を揺らし、雨に打ちつけられる肩を冷たそうにすぼめている。
訝しげに見つめた高藤の目に、傘の代わりに握られた黒いステッキが見えた。
「杏奈さん!」高遠は驚いて、声を上げた。
「タカ? 知ってる人?」美紀が後ろを振り返って、彼の視線を追った。
「ちょっと待ってて」
高遠はそういうと車のドアを開け、雨の中へ飛び出した。
雨は思ったより強く降っていた。顔に掛かる雨の粒をよけるように俯きながら、ポツポツと歩いてくる彼女の元へ走った。
「杏奈さん!」
足元を見ていた顔が上向く。目の前に立ちはだかった男性が誰か分かって、杏奈は目を見開いて驚いた。
「た、高遠さん?」
杏奈の前で、高遠は仁王立ちになって、声を荒げていた。
「何してるんや! こんな雨の中を!」
「え、あ、あの……」
杏奈は、傘もささず濡れ鼠で歩いている自分の身を縮めるように肩をすくめ、また俯いた。首筋に雫が伝っている。
「あほか、君は! びしょ濡れやないか」
そう怒鳴ると、片手に提げていた買い物袋を奪い、有無を言わさず杏奈の肩に腕を回すと、抱きかかえるように車へ引き返した。
「とにかく乗って!」
後部座席のドアが乱暴に開けられ、杏奈は押し込められるように乗せられた。ついで押し付けるように彼女の買い物袋が渡され、ドアはバンと強く閉められた。
杏奈は高遠が、運転席に乗り込むのを呆然と見ていた。
「濡れたわね」
助手席から、女性が彼にハンカチを渡すのを見て、杏奈はそろそろと口を開いた。
「あ、あの、すみません。傘がさせなくって……」
高遠がヘッドボードに腕を回し、後ろを振り向いた。杏奈の前髪から、雫が垂れている。
「そんなこと分かっている! なんでタクにも乗らんと、雨ん中歩いていたんや!」
高遠の眉根の寄った険しい目に、杏奈はおどおどと応えた。
「え、駅まで、すぐやし。ちょっとくらい濡れても仕方ないかと……」
「ちょっとくらいって、この雨やぞ。誰が傘もささんと歩いてるねん! 止むまで待つとか、荷物を送るとか、方法はあるやろ!」
「はい。すみません。あの、車、濡らしちゃって」
杏奈は俯いて、しおれた花のようにこうべを垂れた。
「タカ、何もそんな言い方しなくても」
隣から美紀が彼の腕を掴んで、顔を覗きこんだ。
美紀の諌める顔を見て、高遠は大きく溜息を吐いた。雨の中をとぼとぼと歩いている杏奈を見たとき、なぜか無性に腹が立った。杏奈は濡れたまま、怯えるように身を縮めている。
「あ、いや、ごめん。怒ってるんやないよ」
高遠が濡れた前髪を掻き揚げて詫びると、
「あら、怒ってるわよねえ」
と、美紀がクスッと笑って、杏奈に顔を向けた。高遠自身、杏奈を怒鳴りつけたことに狼狽えて、言葉が出てこない。
杏奈はポケットからハンカチを取り出すと、濡れた顔を押さえる様に拭った。そして、
「すみません」と、もう一度沈んだ声でつぶやいた。
「もう謝らんでいいよ。俺こそ悪かった」
高遠がホッとしたように笑みを浮かべると、杏奈も漸く透き通るような白い顔を赤く染め、口角を上げた。
「あ、美紀、この人は一之瀬杏奈さん。同じ香櫨園に住んでる人や」
「ああ、そうなんだ。はじめまして、佐々木美紀です。ふふ、びっくりしたでしょ? 突然怒鳴られるんだものね」
杏奈は美紀の整った美しい顔に見惚れる様に息を呑んで会釈した。
「あ、いえ。高遠さんはいつも親切にしてくださるんです。今日は一人で買い物に来ようと思ったんですけど、雨がひどくなってしまって」
「ほんとね。昨日までいいお天気だったのに。沢山買い物をしたのね」
「はい。勤め始めたので、何かと入り用なものがあって。いつもは母と一緒なんですが、もう一人で何処へも行けるので……」
高遠は前を向き直り、杏奈の言葉に唇を引き結んだ。買い物に一人で来たことに、彼女は満足しているようだ。いつも背負っているリュックの変わりに、ブランド物のショルダーバッグを肩に提げている。
光沢のあるベージュの春先用のハーフコートを羽織った下に、胸元に白いレースを覗かせ、深いVネックの透かし編みのカーデイガンを着ている。
開いた襟元には、鎖骨に嵌るようにゴールドの小花の着いたチェーンが光り、濡れて首筋にへばり付いている髪を耳に掛けると、そこにキラリと光る花の形のピアスをつけている。
雨に濡れた顔にはうっすら化粧もしていて、パンツから覗いた足元は、いつものスニーカーではなくて、ローヒールの黒いタッセルだった。
彼女がおしゃれをして胸を躍らせ、元町までやって来たのがわかる。この雨の中を……。
「足が……、お悪いの?」
「美紀!」
唐突に足のことを訊いた美紀に、高遠は叱責するように顔を向けた。
「あ、はい。小学生のとき怪我をして……」
と、杏奈は高遠が思ったより、軽い調子で美紀に答えた。彼女の問いに傷ついている様子は見えない。
「怪我を? 交通事故か何か?」
美紀は当然のような顔で、再び訊ねた。同情を顔に浮かべながらも、この突然の同乗者を知ることに遠慮は必要ないというように、高遠の険しい顔を無視した。
高遠が杏奈の様子をバックミラーで覗くと、こたえに戸惑うように、俯いたまま唇を舐めている。だが、すっと顔を上げ美紀を見ると、はっきりとした口調で答えた。
「事故とかではないんです。あの、震災で……」
「えっ? 震災って、阪神淡路大震災?」
美紀が素っ頓狂な声を上げてシートを掴み、顔を後部座席に突き出した。
震災? 高遠は瞬時に体が硬くなるのを感じた。
「はい……。家が潰れて、その下敷きになったんです」
杏奈の言葉が頭の中に響く。高遠は息が出来なくなるほど胸が締め付けられた。バックミラーに映った杏奈を凝視したまま、瞬きも出来ない。
杏奈が地震の被災者……その言葉が、彼の頭の中をぐるぐると回る。
「本当なの? あ、ごめんなさい。私、関東出身で、あの震災で被害に遭った人って周りにいないから、びっくりしてしまって」
美紀がうろたえながら、自分の言葉を後悔するように口元に手をあてがった。
「分かります。もう十七年も前のことですから。潰れた家だって、何処も建て直されていますし、地震の跡なんてないですもん。被災者も立ち直って、もう忘れている人もいます。でも、私の場合はそうはいかなくて……。三年前にやっと車椅子から、こうして自由に歩けるようになったんです。だから、今は一人で出かけたり、勤めに行くのが嬉しくて……」
杏奈は顔を強張らせている美紀に、明るい顔を向けて話した。高遠はそんな杏奈をバックミラーの中に見つめるしか出来なかった。体が凍り付いて、指の震えを止めることができない。
「車椅子……だったの?」と、美紀が遠慮がちに訊ねた。
「はい。十九歳まで、ずっと……。私、二度と歩けないって思っていたんです。命が助かっただけでも感謝しないといけなかったんですけど、歩けなくなったことで、何もかも失くした気がして……。学校も休みがちでしたし、人に会うのも辛くて家に閉じこもっていました。でも、今はステッキがあれば一人で歩けますから、毎日がとても楽しいんです」
「そう。すごいわ。強い人なのねえ」
「いいえ、やっと立ち直ったばかりですから。でも、ひとりって大変なんです。職場には手を貸してくれる人もいますから、何とかやってますが、電車に乗るのも大変でした」
そういうと、チラッと高遠の頭の方を見た。
「ねえ、タカも香櫨園だから、震災の被害に遭ったんでしょ? 大丈夫だったの?」
美紀が杏奈の明るい様子に気を取り直したように、微笑みかけてきた。美紀から震災のことを訊かれたのは、初めてだ。高遠は彼女から目を逸らすと、サイドブレーキを外した。
「もういいやろう。そんな話は」
苛立った口調に、美紀が眉をひそめる。
「どうかしたの?」
「いや。それより、彼女を家まで送ってゆくよ。どうせ君、大川さんに会うやろ? 俺が待っていない方がゆっくり話せるんと違う?」
美紀が目を尖らせたのが分かったが、高遠はハンドルに手を掛けた。二人のやり取りを聞いて、運転席のシートの背を掴み、杏奈が身を乗り出すようにして大きな声を出した。
「高遠さん! とんでもないです! 元町から電車に乗りますから、降ろしてください」
「いや、ひどい雨やし送っていくよ。その荷物じゃあ傘はさせんやろ?」
と、高遠は杏奈に微笑みかけた。
美紀は不愉快な顔をしていたが、それでも杏奈の足を思うと、むげに逆らうことも出来ないと思ったのだろう。高遠が「すまん」と言うと、引きつっていた顔をふっと緩めた。
「杏奈さん。いいじゃない。送ってもらいなさいな。私も今から用があるし、この人も退屈しちゃいそうだから」
と肩を一度すくめ、笑いかけた。
「終わったらケータイ掛けろ。また迎えに来たる」
隣の美紀に高遠が笑いかけると、彼女は首を振った。
「いいの。私は傘がさせるから、電車で帰るわ。それより、今夜はうちに来て。待ってるから」
美紀は彼の肩に手を置くと、指に力を籠めた。
「分かった。買い物を届けに行くよ」
杏奈は困った顔をして、美紀が車のドアを開けるのを見ていた。
「じゃあ」と、高遠と杏奈に視線を送り、助手席のドアをバンと閉めると、慌てて赤い傘をさし、そのまま神戸デパートの方へ向かった。
「た、高遠さん! いいんですか?」
「ああ、彼女はほんまに忙しい人なんや。来週には東京へ転勤やし。あれでも上場企業の係長やで。俺につき合ってる場合やないから」
「そうなんですか……、東京へ。すごく綺麗な人ですね」
つぶやくように言うと、杏奈は雨の筋が流れる窓に、美紀の姿を追った。
「杏奈さん、助手席の方がホールド良いから、前においで。香櫨園まで、ドライブしよう。雨降りだけど」
彼が振り返って言うと、杏奈は少し躊躇っていたが、「はい」と返事をしていつもの笑顔を見せた。
杏奈が助手席に乗り込むと、
「その前に、どこかでお茶飲もう。怒ったら喉が渇いた」
と、髪を掻き揚げる。杏奈は戸惑うように瞬きをして小さな声で言った。
「あの、やっぱり怒っていたんですね……」
「あのね、雨の中でびしょぬれになっている女性を見たら、男は腹が立つもんなんや。覚えておきなさい」
「え? そうなんですか? あの、覚えておきます」
杏奈は目を見開いて、真顔でこくりと頷いた。
全くこの子は……と、高遠は笑いをかみ殺した。