7、 距離(2)
「おはようございます。高遠さん。この頃、遅いですね」
始業ぎりぎりにオフィスへ入ってきた高遠に、事務の田中京子が笑いかけた。
「おはよう。ああ、一番最後か?」
と言ったところへ、若い田崎が飛び込んできた。
高遠はチラッと田崎を見たが、勿論、遅刻寸前の田崎に眉をしかめるわけにはいかない。普段なら三十分以上は前に来て、すでに仕事を始めているのだが、今週はずっと普通電車に乗っているため、数分前の出社だった。
「一本遅い電車ですか?」
すでに社員達にお茶を配り終えた田中京子は、最後に高遠のデスクに湯呑を置き、怪訝な顔で尋ねてきた。事務仕事を一手にまかなっている彼女にとって、社内のことは些細なことでも気になるようだ。
「ああ、普通電車で来るから。もう、年やから乗換えが面倒なんや」
高遠が気だるい様子で返事をすると、
「いやだあ、まだ若いのに……って言えない年ですね。確かに」
と、切り替えされた。二十代前半の彼女にしたら、三十男というのは若くはないらしい。高遠は思わず苦笑いした。
「京子ちゃん、きっつー!」
いつも出勤が遅いと睨まれていた二十四歳の田崎は、鬼の首を取ったように皮肉る笑いを浮かべた。仕事を始めた他の社員も、薄笑いを浮かべている。
若い社員が多い神戸支社は田崎以外の三人の同僚たちも、一応二十代だ。二十五歳の田崎と、さほど年齢の差を感じていなかった高遠も、八歳の開きがあると思うと落胆する。
二十五歳……。入社して三年目。高遠が大阪の梅田店に店長として勤務し始めた歳だ。突然大型店舗を任され、がむしゃらに突っ走っていた。
そして、一之瀬杏奈と同じ年。田中京子とはしゃいでいる田崎を見ながら、杏奈からみたら随分年上に思えるのだろうかと、ふと考えた。アラサーの独身男。まさか「キモイ」などとは思われていないと思うが……と、真剣に考えている自分に呆れ果てた。
高遠はあれから二週間、毎朝、杏奈と三宮まで普通電車に一緒に乗ってくる。世間擦れしていない杏奈と、ずっと会話をしながら通勤するのだ。
だが、それが面倒だとか苦痛だとか思ったことはない。
彼女の飾らない話を聞くのは楽しかったし、礼儀をわきまえた態度は崩さないが、時として高遠を笑わせた。それに世間一般の話題や職場でのことを率直に語り、いつも彼に助言を求める杏奈の態度が心地よかった。
朝の五〇分は、いつもあっという間にすぎる。そのときだけの話し相手で、電車に乗るときに手助けするだけだが、ホームで彼女に会うのを楽しんでいる自分がいる。
杏奈はグループホームで、覚えた歌を披露していると彼に嬉しそうに話す。毎日リクレーションの時間にギターを手に歌っているそうだ。
家で懐メロのCDを聴いて、高遠が渡した歌詞集の歌を覚え、職場ではスタッフも一緒になって練習していると大きな瞳を輝かせる。
時折、曲が分からない高遠のために、ホームで旋律を口ずさんでくれる。朝はマナーを守って静かになどと思っていた彼は、間違いなく迷惑な乗客になっていた。
でも、天真爛漫な彼女に、思わず微笑んでしまうのだ。
一昨日だったか、杏奈が、
「兄に、高遠さんのことを話しました」
と唐突に言って、彼は驚かされた。初出勤のとき駅のホームで会って親しくなったと、正直に言ったらしい。
「兄ったら、馬鹿やろう! 知らん男とむやみに話すなって、携帯の向こうで怒鳴るんですよ。高遠さんのことを知りもしないで、めちゃくちゃ言うんで、ブチッと切ってやりました」
腹立たしげに唇を突き出して、目を尖らせている彼女に思わず苦笑した。離れている兄にしたら、当然心配になるだろう。
駅で会うだけの高遠のことが話に上ったことに当惑したが、杏奈が信頼してくれていると思うと、彼はにんまりと顔が綻んだ。
だが彼女の兄が心配するようなことは決して起こらないと断言したい気持ちだった。杏奈に対して、朝の通勤時間以外に会おうなどという考えはない。
だから、携帯番号の交換もしなかったし、名刺すら渡すつもりはなかった。彼の中に、なぜか杏奈と親しくなりすぎることに躊躇いがあった。電車を降りると、もう杏奈は関係のない他人だ。
杏奈もそのことは理解しているようで、彼に何も求めては来なかった。
高遠は須磨店の資料をブリーフケースに詰め込むと、席を立った。
「高遠さん、今日は終日須磨店ですね?」
「ああ、連絡は携帯にしてくれ」
田中京子に答えると、足早にオフィスを出た。
*
午前中に須磨店へ着くと、店長の野山と数人のスタッフが、今朝入荷した書籍の入れ替え作業を始めていた。
女性客が多いので、美容、育児、教育の棚を増やし、そのジャンルだけでダンボール三十箱の入荷になった。
「今日中に終えろよ」棚をチェックしながら高遠が言うと、
「わかっています。土日は丁度スーパーの新聞折込が入るから、集客はできるでしょうし」
と、野山は白いカッターシャツの袖をまくり、濃紺のネクタイを少し緩めた姿で、手際よく本を納めながら答えた。
年中無休の店舗にとって、営業しながらの店内の作業は大変だが、野山はスタッフに適切に指示を与え、効率よく進めている。この業界に十年いる彼の力はやはり大きいと、高遠は安心して作業を見守った。
高遠はダンボールを一つ抱え、出入り口の正面のイベント台に向った。店舗を仕切ったガラス越しに、外の通路から見えるように一五〇センチほどの高さの書架が三台並び、それぞれにフェアや話題書を並べている。
「三井さん、これ話題書コーナーの棚に面陳して」
どさりと隣に箱を置くと、女性スタッフは肩までの髪を撫で付けながら、
「はい。ああ、須磨の作家さんの本ですね。さすが高遠さん、用意できたんですね」
と、笑って段ボール箱を開封した。
「五十冊だけ、他の店からかき集めてきた。神戸以外では売れてないから。地方紙には紹介されたんだけどね」
「大手の出版社じゃないと、広告は出ないし、いい本でも売れにくいですね。作家さんも気の毒やわ」
「こんだけ毎日新刊出てたら、選ぶ客も迷うよ。地元の本くらいは勧めてやらんとな」
「そうですね。すぐに並べますから」
彼女はそういうと、面が傾いていて表紙を見せるようになった木製の棚の前に立った。そして一面に本を並べ始めた。
時代小説らしく日本画で風景画の描かれた大人しい文芸書も、同じ表紙がずらりと並ぶと訴求効果はある。高遠は彼女の背後に立って、満足そうに腕組みして棚を眺めた。
昼前の買い物客が、二階にも上がってくる。これから昼過ぎまで客が増えるのが、食品スーパーのあるショッピングモールに入っている店の特徴だ。
丁度数組の客が続いて入ってきた。高遠はスタッフと同時に顔を向けた。
「いらっしゃいませ」
買い物袋を提げた女性と、幼い子を連れた母親の後ろに、カップルが話をしながら入ってきた。
「え?」
高遠とスタッフの方を一瞥もしないで、紙袋を提げた青年の横を体を左右に揺らしながら歩いている女性。
「杏奈さん!」
入り口から奥まったところに立つ高遠には、全く気付いていないようだった。
二人で青年が持ったメモを見ながら、笑いながら店内を見回している。何か本を探しているようで、男が指差した場所へ体を向ける時、彼は軽く杏奈の背を支えるように手を当てた。
彼女はそれを嫌がる風でもなく、ごく自然に体を寄せて歩いて行く。
そして、彼が何か言ったのか、またくすくす楽しそうに笑った。
高遠は棚の影から、二人の様子を黙って見ていた。朝会った時の綿の薄いジャケットにGパン姿の杏奈は、いつものように髪を束ねていなかった。肩甲骨の辺りまでまっすぐな黒髪が垂れている。片方の耳に髪をかける素振りが、とても女性らしく見えた。
男性の方は同じくらいの若さで、二人は気の置けない親しい感じだった。
今は仕事中のはずだから、一緒の青年は職場の同僚なのかもしれないと、高遠はじっと二人を見た。
「高遠さん? どうかしました?」
スタッフが彼の視線の先を、辿るように追っている。
「いや、知ってる人かなと思って」
そう答えて、再び二人の後姿を追った。
ステッキをしっかり持っている杏奈の横で、話しかけながら数冊の本を棚から抜いている青年に、彼の視線が釘付けになる。どういう男だろう。口元を引き結ぶと、大股に二人の元へ近づいた。
「杏奈さん」
振り向いた杏奈は心底驚いたようで、これ以上見開かないと思うほど、目を大きくした。
「高遠さん!」
「偶然やね。仕事中やないの?」
杏奈は満面笑みになって、片手で高揚した頬を包んだ。
「高遠さんこそ! あ……、あの、このお店に勤めてらっしゃるのですか?」
彼のスーツの胸に下がっている社名と苗字の入った名札を見た彼女は、大きな目を一段と見開いた。
「ああ、この店というわけではないんだけど、今日は手伝いだ」
「そうなんですか。私はグループホームの買い物に来たんです。入所者さんに頼まれたものとか、日用品やなんか足りないものを買い足しに」
「そっか」
と言って、高遠は彼女の隣で静かに笑みを浮かべている青年をチラッと見た。
「あ、こちらはホームの介護スタッフの鈴木さんです」
彼は高遠に軽く会釈した。杏奈は青年を振り向くと、手のひらを差し出した。
「高遠さんです。えっと、私の住んでる香櫨園の方。朝の電車で一緒になるの」
杏奈は高遠の紹介を少し困ったように、口ごもった。高遠は鈴木ににっこりと微笑んで、「いらっしゃいませ」と、挨拶した。
鈴木は好青年という感じだった。さほど背は高くなかったが、細身の体にギンガムチェックのシャツにGパンがよく似合い、まだ学生っぽさが漂っている。二重の目が澄んでいて誠実で真面目そうだ。笑みを浮かべた穏やかな表情は、介護という仕事柄身についたのかもしれない。
「杏奈さん、欲しい本言ってくれたら探すよ」
高遠が親しみをこめて微笑みかけると、
「有難うございます。あの介護資格の本が欲しいんですが、鈴木さんにお勧めの本を教えてもらおうと思っているので」
と、安奈は頬を赤くして、躊躇いがちに鈴木の方に目を向けた。
高遠は何だか自分が二人の邪魔をしているような気がして、
「この奥が資格書の売り場だから、ゆっくり見てください。何かあったらスタッフに声を掛けてくれたらいいから」
と笑いかけると、踵を返して仕事に戻った。
資格書のコーナーから杏奈がちらちらと見ているのに気付いたが、店は混んできて高遠も客に呼び止められたり、棚の入れ替えを急かしたりしているうちに杏奈と鈴木の姿は消えていた。
レジのスタッフに尋ねると、介護資格の本を二冊買って帰ったようだ。
店内を眺めながら、高遠は溜息を零した。
須磨で最も大きいこのショッピングモールへ、彼女が来たって不思議でも何でもない。職場は須磨にあるのだから。その同僚と楽しそうに同行しているということは、仕事も順調なのだろう。いいことじゃないか。
ただ、高遠の中に滞る思いが、彼自身を困惑させた。杏奈はえくぼ付きの可愛い感謝の笑顔を、あの青年に向けるのだ。いつものように、自分にではなく……。そのことが少しばかり不満だったのだ。おまけに大人気なく、相手の男を値踏みするようにじろじろ見た。
「全く兄気取りだな」とぼそりと呟くと、高遠はまた短く溜息を吐いた。