6、 距離(1)
桜が見事に咲き誇った。昨日の好天は、開花を急かすにはうってつけの暖かさだった。高遠は清々しい気分で、青空が広がってきた頭上を見上げた。視界に入る桜は、冷ややかな朝の空気が温まるのを待つかのように、花びら散らすこともなく静かに枝を広げている。
肩に掛けたバッグの重みに、少し体を斜めに構えながら、駅の改札を通った。
「おはようございます!」
ホームで待っている杏奈に、張り切った挨拶をされ、高遠は照れくさそうに前髪を掻き上げた。
「おはよ」彼女の隣に立って、低い声で挨拶を返した。杏奈はにこやかな顔で、
「すごく気持ちの良い朝ですね。桜が歌っていました」
と、頬のえくぼをへこませる。
「歌ってる?」
「はい。桜坂を」
「フクヤママサハルの? そりゃあ、杏奈さんが歌ってたんやろ」
「あはは、ファンなんで」
杏奈の屈託ない笑みを見ながら、高遠はブリーフケースのジッパーを引き開けた。
「ほら、フクヤマよりいい歌もあるよ。こんだけ載ってたら」
不思議そうな顔をする杏奈の手に、須磨店の袋に入った分厚い歌詞集を手渡すと、彼女は早速袋を覗きこみ、途端に目を輝かせた。
「これは懐メロの? 有難う、高遠さん! あの、でも買ってきてもらったんですか?」
「買ったけど、あげるわけやないから遠慮はしなくていいよ。全部マスターしたら返してくれればいいから。ギターコードと楽譜もついてるから、練習しやすいやろ」
そう言って、杏奈が恭しく掲げた本の袋を指でポンと弾いた。でも、彼女を見ると、唇をきつく噛んでいる。
「ん? なんか気に障ったかな? おせっかいが過ぎた?」
「いいえ! 何だか、感激してしまって……。だって見ず知らずの私にこんなに親切に……」
高遠はふっと笑うと、
「見ず知らずやないやろ。君の口癖やな。ほら後ろを向いて」
と、杏奈の肩に手を置いた。
「重いから、リュックに入れといたほうがいい。もう電車が来る」
後ろを向かせた杏奈の背中のリュックのジッパーを開けると、受け取った歌詞集を突っ込んだ。
杏奈は唐突に後ろを向かされ、彼の手が背中のリュックに触れる動きを追った。ぎゅっと肩に重みが掛かる。二人の傍を、電車を待つ人が通ってゆく。杏奈は高遠にリュックを開けられてる自分が、どう思われるかと途端に狼狽えた。少なくとも、先週ここで会っただけの関係には見えないだろう。ずっと前からの知り合いか、仕事先の同僚、近所の顔見知り。そして彼は、足の悪い子に同情して世話を焼いている慈悲深い人……。杏奈の輝いていた瞳が曇る。今までも、他人から優しくしてもらったことは数え切れない。それは、全てが障害に対する同情心だと思う。それに素直に感謝することを心がけてきた。でも、今は自分の姿を嘆かないでいられない気分だった。
「はい、重くないだろ?」
と、ポンとリュックを叩いた高遠は、杏奈の俯いた顔を覗きこんで、たじろいだ。伏せ目がちに暗い顔をしているとは、思ってもみなかったのだ。
「杏奈……。いや、ごめん。勝手に失礼なことを」
高遠はまるで熱いものに触れたように、慌ててリュックから手を離すと、しどろもどろで謝った。女性の持ち物に、躊躇いもなく手を掛けるなんて、どうかしている。
「あ、違うんです。高遠さんに親切にして貰って、嬉しいんです。でも……、ちょっとだけ、同情してもらう自分が情けなくて」
「同情?」
「気にしないでください。心配だった電車通勤が楽しくなったのは、高遠さんのおかげですから」
杏奈がまた素直な明るい笑みを浮かべた。高遠は黙ったままで、行き場のなくなった両手をズボンのポケットに突っ込む。
同情? 障害のある彼女に同情している?――それは間違いない。でも、歌詞集を買ったのは彼女を喜ばせたいからだし、今も足のことなど忘れていた。
高遠が杏奈に話し掛けようとしたとき、普通電車がホームに滑り込んできた。言いたい言葉は溜息に変わった。
人が乗り降りする混雑の中で、彼は自然に杏奈の腕を掴んで、支えてやった。そうすることに、なんの躊躇いもしなかった。
ドアが閉まり、いつもの開閉のスペースに杏奈を立たせ、彼女をかばうように窓に手を突っ張った。そして静かに電車が動き出すと、不安そうに大きな目をしばたいている彼女に言った。
「俺には二つ違いの妹がいるんや。二年前に結婚して、今は名古屋に住んどるんやけど、もうすぐ子供も生まれる」
杏奈は話し始めた彼に、ほっとした顔で微笑んだ。
「赤ちゃんが? じゃあ伯父さんになるんですね」
「ああ、そういうこと。あいつが結婚したことが今でも信じられんけどね。なんせすごい妹やったから」
「すごい?」
「うん。男勝りで、腕力もあって。ダンナが気の毒なくらいや。俺はおなじ男として、あいつを嫁にした義弟を尊敬している。ダンナは数学の先生やけど、パワーでは負けている。絶対尻に敷かれてるはずや」
杏奈は口に手を当てると、まるで少女のようにあどけない笑みを浮かべた。
「今思い出しても腹が立つが、妹は小学二年の時、夙川公園の遊歩道でいたずらにあってね」
高遠がぎゅっと眉間を寄せたのを、杏奈は笑みを閉じて見上げた。
「通りすがりの人が大声を出してくれて、傷つくようなことはされへんかったんやけど。そのことがあってから、身を守らせないといけないって両親が思って、なんと空手を習わせたんや」
「空手?」
杏奈が目を真ん丸くして、顔の前に拳を突き出した。小さい手がしっかり握られている。
「そうや。それがなんやわからんが、どうも武道の才能があったみたいで、中学に入って早々、全国大会に出場するし、高校では海外へ遠征も行っとった」
「へえ、すごいですね!」
「体育大学を出て、中学の体育教師になったんやけど、きっと殴られた生徒は多いと思うよ。そりゃあ怖い女教師やねん」
と、高遠は大袈裟に顔をしかめて見せたが、杏奈はたくましい同性を賞賛するように目を輝かしている。
「学生時代の兄妹喧嘩なんて壮絶だったよ。まずは機銃のような言葉の攻撃だろ。それにやっと耐えた後、有無も言わさず正拳突きを見舞われるんやで。高校生の時、あいつの跳び蹴り喰らって、ふすまを突き抜けたことがある。ジョーダンやないよ。本当の話」
奈は「へえ!」と驚いた声を上げた後、両手で口元を押さえぶぶっと噴き出した。
「名は高遠みゆきという。あいつが里帰りしたら、香櫨園周辺は危険地帯になる」
高遠が憮然とした顔をすると、笑いを我慢できないという風に杏奈は顔を赤くして頬を膨らませた。電車が打出について一段と窮屈になっても、声を殺して笑っていた。
沈んでいた杏奈が明るい顔になったのを見ながら、高遠は、
「杏奈さん」と、混んだ車内を気にしながら小声で名を呼んだ。杏奈は真剣な声に、そっと顔を上げる。
「例えは良くないけど、そんな妹でも俺はとても可愛いと思ってる。顔や体や腕力やと、そんなもの何も関係ない。君を助けてあげたいと思う気持ちは、妹に思う気持ちと似ている。お兄さんの代わりは無理やけど、朝会う少しの時間でも君が喜んでくれたら嬉しいと思う。君は素直で前向きで、とても可愛い人や。障害のあるなしなんか関係ないし、同情とは違う気持ちやと思っている」
翳りを帯び潤んでくる彼女の瞳に、明るく振舞う心の奥底に秘めた悲しみや苦しみが浮いてきたように見え、高遠は胸が締め付けられる。
杏奈はゆっくりと目を瞑ると、
「ありがとうございます」
と言って、高遠の胸にこつんと頭を着けた。ピンクの小花の突いた髪留めで束ねられた髪が、細くて白い首筋へ落ちている。あまりに小さく繊細な、心許ない……今にも震えだしそうなか細い肩。
高遠は窓枠に突っ張った手と、体の横に垂らした手を同時に握り締めた。杏奈を、抱きしめてしまわないように。