4、 2番目の神様 (2)
亜希子は、朝食を終え、ダイニングテーブルで新聞を広げていた息子に不機嫌な顔を向けた。
「あんた、土曜日やいうのに仕事に行くの?」
「ああ。須磨店の土日の様子を把握しなあかんから。明日も朝から行くつもりや」
新聞越しに息子が答えると、亜希子は五十過ぎの下がり気味の頬を手で持ち上げるように、ダイニングテーブルに頬杖を突いた。そしてじっと顔を覗き込む。
「美紀さんは?」
かさりと新聞が半分に畳まれて、眉根を寄せた息子がうるさそうに視線を向ける。への字の口元が亜希子の問いを拒もうとしているが、母親としては我慢できない。
「まだ東京に行ったわけではないんでしょ? 美紀さん」
きちんと畳んだ新聞をポンとテーブルに置くと、溜息まじりに短い言葉が返ってくる。
「今日と明日は、東京で家捜ししとる」
「美紀さん、東京なん? あんたもついていったら良かったのに」
「あほいうなよ」けだるそうな言い方に、亜希子はムッとして声高に言った。
「あほはあんたやない。結婚考えてる人が遠くへ行くいうのに、そんなに落ち着いていていいん?」
「本人が決めてるのに、どうにもならんやろ」
「あんたは男やから三十になろうが四十になろうがいいやろうけど、彼女はそういうわけにいかんでしょ! 高齢出産は恐いんよ。ちゃんと話はしてんの?」
息子は疎ましそうに顔をしかめて立ち上がると、隣の椅子に掛けていたスーツの上着に袖を通した。上着を肩に落ち着かせ、亜希子の苛立った顔を一瞥すると、降参したという様に両手の掌を上げて見せる。
「わかってるけどな、話はしたって、昨日も言ったやろ。美紀は結婚云々より、新しいチャンスに掛けたいんや。そのためにいままでがんばってきたんやから」
「あんたはそれでええん?」
向けられた矛先が余程的を射たのか、息子が息を詰まらせるのを亜希子は見て取った。しかし大きく溜息を零しただけで、上着のポケットを確認して、さっさと出かけようとしている。
「歩!」
「先のことはわからん。とにかく行ってくる」
亜希子はブリーフケースを肩に掛けた息子が玄関から出て行くのを見送った。玄関ドアが閉まる音がすると、亜希子は大きく溜息を吐いた。
二年まえに娘を嫁に出したときと勝手が違うとは思うが、大学時代から付き合っていた美紀を紹介されてから、息子の嫁は彼女だと疑いもしなかった。紹介されてからずい分経っている。結婚をいつ言い出すかと心の準備はしていたのに、当の本人から彼女が東京へ行くなどと平然と言われ驚くばかりだ。美紀が息子に不満を持っているのかも知れないと案じる。いつも冷静で思いやりもある自慢の息子だが、自立して男と同等に働いている美紀からみたら、頼りないのかも知れない。亜希子の前でも二人は、恋人というよりは気の置けない友人という風にも見えた。
「そりゃあ、十年以上も付き合っているんやから」
亜希子はもう一度溜息をつくと立ち上がり、朝食の食器を片付け始めた。
流しで洗い物をしながら、嫁と一緒に台所に立つ自分を思う。同居は考えてはいないが、息子を大事に思ってくれる女性がいるというのは嬉しいことだ。なのに息子を放って、仕事だからと東京行きを決めた美紀に少し腹が立った。好きな人の傍に居たくないのだろうかと疑問が湧く。ずっと専業主婦だった自分には考えられないことだ。
「長すぎた春なんかねえ」
思わず一人ごちると、綺麗に洗い上げた茶碗を拭きながら、亜希子はまた溜息を吐いた。
週末の香櫨園駅のホームは、人影もまばらだった。スーツ姿の乗客は流石に少ない。高遠はいつもの場所に立って、腕時計を確認する。須磨店に着くのは、十時過ぎで開店早々の時間だ。
父が早朝から淡路島へ釣に出かけた後、きっと母が昨夜の続きを言い出すと思っていたが、「あんたはそれでええん?」と睨みつけられ、返事に困った。良いわけがないが、どうしようもないではないか。高遠は駅の屋根から覗く、晴れ上がった空を見上げた。
三つ違いの妹を嫁がせるまで母の意識はひとり娘に注がれていたのに、夫の転勤で名古屋へ引っ越してしまうと、途端に息子がクローズアップされてしまったわけだ。母親というものは家族の誰かに意識が集中していないと、落ち着かないものらしい。
高遠はバッグから一冊の単行本を取り出した。本屋大賞の一位の文芸書はずっとバッグの中で嵩張っていた。三田店のオープンの忙しさで読む暇もなかった本を、須磨までゆっくり読みながら行くつもりだった。売れ行きは好調で、流石に読み応えはありそうだ。
本を開いた高遠の後ろで、かつかつとヒールの音がした。
彼はふっと顔を向ける。白地に花模様の華やかなワンピースの裾が翻っている。艶やかな化粧の女性が、高いヒールの赤いパンプスで颯爽と背後を通り過ぎた。ブラウンのカールした髪が、歩くたびに肩で踊っている。
彼はまた本に目を落とした。文字を追っていた頭に、一之瀬杏奈の笑顔が不意に浮かぶ。彼女があんな華やかなワンピースを着たら、可愛いだろうな――と、高遠は口元を綻ばせた。
髪もひっつめて束ねないで、さらりと肩に垂らして、化粧っ気のない顔に薄く口紅をつけるだけで良い。スニーカーの代わりに、あんなヒール……と、考え、高遠は急に気分が重くなる。老人のようにステッキを突く杏奈の姿が浮かび、胸に痛みを覚えた。
年頃の杏奈がおしゃれに興味がないはずはない。小さなピアスが耳に光っていたこともある。笑顔の可愛い魅力的な彼女なら、どんなおしゃれな服も似合うだろう。しかし彼女が注目されるのは、現実にはあの引きずった足なのだ。
足は生まれつき悪いのだろうか? それとも事故か何かで? 治る見込みはないのだろうか? 高遠は知り合ったばかりの一之瀬杏奈のことを、あれこれ詮索している自分に戸惑った。でも、彼女に同情せずにはいられなかった。
ぼんやりとホームを眺める。
月曜日、杏奈はこのホームにいるだろう。朗らかな声で挨拶し、明るく笑って。
高遠は文字が頭に入らなくなった本を閉じて、ブリーフケースに突っ込んだ。全く同情という感情は厄介だと、高遠は腕の時計をもう一度見た。
*
期待通り、桜の花は三割方開花した。細い枝の先に、膨らんだ蕾が重そうに風に揺れている。明日はもっと開くだろうと、高遠は目を細めて、枝を見上げる。遊歩道が一面にピンク色に染められるのはもうすぐだ。そう思うだけで、この町の住人は気持ちが弾んでくるものだ。
自動改札にカードを滑らせ、そのまま階段を駆け上る。ホームは格子の窓から朝の日差しが降り注ぎ、明るい。
高遠がホームへ上がると、すぐにこっちを見ている顔に気付いた。足早にその列に向かう。
「おはようございます」
一之瀬杏奈は、思ったとおり明るい笑顔で挨拶をした。丈の短い綿のジャケットに腰にフィットしたベージュのチノパンで、ステッキを見なければ、足が悪いなどと思えないすらりとした立ち姿だった。高遠は彼女の耳に、小さな金色の花のピアスが光っているのに気付いた。
「おはよう」
高遠は杏奈の横に立ち、にこやかに彼を見上げる瞳に、照れくさそうに前髪を掻きあげた。杏奈は少し頬を染め、明るい声で、
「桜、随分ひらきましたねえ。うちの家の近くの木はもう七部咲きでしたよ」
と言って、嬉しそうな顔で、ホームから見える夙川を見下ろした。
「花見をしながらの通勤なんて、最高に贅沢!」
屈託のない杏奈の笑顔に、高遠も釣られるように笑って応えた。
「ここ二,三日のうちに、屋台も出るし、花見の人がわんさか来る。それはそれで住人にとっては迷惑な話やけどね」
「お祭ですね」
「そ、お祭や」
二人の前を、特急電車が風を巻き上げ通過していった。高遠は体を少し仰け反らせた杏奈の腕を軽く掴んだ。二人で通過したあとを目で追う。杏奈はチラッと高遠の横顔を見上げた。ごく自然に支えてくれた手が、まだ腕を掴んだままだ。その手は大きくて力強い。杏奈の頬がふいに火照った。
「ところで、ギターコンサートはどうやった?」
高遠はホームが静かになるのを待ちわびたように訊ねた。
「あ、はい、大成功で……とは、言えませんでした」
杏奈は首を傾けると、がっかりしたように目を伏せた。
「え? 楽しんで貰えなかったん?」
「いえ、最初はギターの音色を静かに聞いて貰えたんですが、ほら一億皆スターっていう時代ですから、聞くより歌うほうが楽しいみたいで……」
「ああ、カラオケのノリになったんやな」
「はい。あれ弾け、これ歌えで、めちゃくちゃです。私も昔の歌、あんまり知らなくて……。瀬戸の花嫁とか、さぶちゃんとかご存知ですか?」
高遠は顎を上げて、頭を掻いた。
「さぶちゃんっていうのは、北島三郎かな? 瀬戸の? ううん、俺に訊くなよ、まだ三十だよって言いたい気分やな」
杏奈は困った顔の高遠を見て、さも可笑しそうに笑い出した。
「あはは、すみません。だって、高遠さんって、何でも知ってる大人に見えるから」
「それって、何でも知ってるおっさんに見えるって聞こえる」
「いやだ。おっさんだなんて思ってないですよ。被害妄想です。三十歳でおっさんやなんて」
「繰り返された分、傷ついた」
高遠が大袈裟に片手で顔を覆うと、途端に杏奈は目を丸くして、慌てて謝った。
「ご、ごめんなさい! 失礼な言い方でした。本当にそんな風に思ってないです。私だって二十五歳ですもん。立派におばさんです」
「え? 君、二十五なの? もう少し若いと思った」
「子供っぽいっていうことでしょうか?」
杏奈の眉根が寄り、唇が尖った。高遠はくるくる変わる彼女の表情が、とても可愛く見えた。ついからかいたくなるタイプだと、噴き出しそうになるのを堪える。
「あれ? 若く見られたほうが女性は嬉しいやろ?」
「若いと子供っぽいは違います」
と、杏奈が不機嫌そうに言ったとき、前に並んだ中年の男性が、疎ましそうにチラッと振り向いた。杏奈は自分の口に手を当てて、恥ずかしそうに瞬きした。
「私たちすごい実の無い話をしていると思います」
「確かに」
杏奈の小声に耳を近づけながら、高遠は思わず笑った。
丁度電車が到着した。高遠は杏奈の腕を掴んだままだったことにふいに気づいた。友人以前の知り合いと言うだけの関係の女性に、断りもなく触れている自分にあきれ果てた。
でも彼女に触れたままの手が全く違和感がなかったことに、男と女として成り立った関係ではないからだと思う。彼女は同情を受けてしかるべき存在であって、高遠は人としてのマナー、ついては義務として彼女を手助けしようとしているのだ。
日本人は得てして、他人へ手を差し伸べることが苦手だ。それは社会として人とのつながりが希薄になったからだといわれるが、高遠はそうとばかりはいえないと思う。誰でも困っている人には手を差し伸べたい思う気持ちは、多かれ少なかれ持っているものだ。ただ、拒否されるのが怖いのだ。
事なかれ主義は世の中に蔓延している。彼自身、利害のない他人のために、心を砕く勇気はないほうだ。
そう思うと、杏奈の純真で素直な心はありがたいと思う。彼を、疎ましく思っている様子は全く感じないのだから。そして偶然とはいえ知り合えて、今朝のような爽やかな気分を味わうことが出来るのだから。
杏奈を電車のドアの横のスペースに押し込むと、高遠は安堵している杏奈に言った。
「対策をたてないとな」
腕を壁に突っ張り、背後の圧力から彼女をかばうように立っている高遠に、杏奈はくるっと瞳を向ける。
「対策?」
「そう、次の杏奈セカンドコンサートINやすらぎ苑を成功させる対策や」
杏奈は口元に手をやり、笑い声を抑えた。
「三宮まで、たっぷり時間はある」
彼女の顔が嬉しそうに綻んだのを、高遠は満足そうに見た。