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杏奈  作者: 内田 花
3/16

3、 2番目の神様

「杏奈ちゃん! 大丈夫やった? 重かったやろう!」


 高齢者グループホーム「やすらぎ園」の玄関に到着するなり、ケアマネージャーの高松洋子が走って来て出迎えてくれた。四十歳半ばの勝気な顔をしかめ、独身の女性マネージャーは、須磨浦公園駅まで車で迎えに行くつもりだったが杏奈から連絡が来ないので心配していたと早口で言った。


「心配掛けてすみません。丁度朝食の忙しいときやし、歩いてくる時間も十分あったので」


「まだ仕事始めたばかりなんやから、無理は禁物やで。まあ、ギター演奏は皆楽しみにしていたさかい、お願いできてうれしいけど」


「はい、私も役に立てれば嬉しいです」


 杏奈はギターを置くと、慌てて室内用のスニーカーに履き替えた。


「朝食手伝いますね」


 ギターをロッカールームの隅に立てかけると、彼女は慌てて壁のフックに掛かった水色のサロンエプロンを身につけた。ロッカーに鍵をかけると、ステッキを握り広い食堂へ向かった。


 コの字型に並んだ食堂のテーブルに、朝の食事がトレイで配られ、二十人の老人が、無言で箸を動かしている。杏奈は「おはようございます」と、明るい室内に飛び込んだ。世話をしている五人のスタッフが顔を上げて、声を掛けた。次いで一番若い入所者の岩崎さんが、茶碗を掲げて、振り向いた。


「ああ、あんなちゃんや。おはよう」


「誰や?」


 と、岩崎さんの隣のおばあちゃんが尋ねる。


「新しいスタッフの人や。忘れたんかいな」


 岩崎さんはずり落ちた老眼鏡の奥から、皴に囲まれた目を細めて、杏奈を見た。


「岩崎さんは何でもよう覚えたはる」


 と、中年のスタッフの典子さんが、大袈裟に感心してみせると、


「わしは婆さんのことは忘れるけど、若い女の子のことは忘れへんのや」


 と、岩崎さんはひゃひゃと気の抜けた笑い声をあげた。


「覚えてもらって有難うございます」


 杏奈はテーブルの端で、老人たちにお茶を用意しながら言った。岩崎さんの冗談に笑ったのはスタッフだけだった。杏奈はもくもくと背を丸めて朝食を食べる老人たちを見回した。


 ここはとても奇妙な「家」だった。まだ建って五年めの施設は、まるで避暑地のペンションのように白木の木造の洒落た建物だ。三角の屋根をした白い外壁の二階建てで、周りには柵が巡らしてあるが、その庭には様々な花が咲いている。病院や公共の老人ホームと違い、ここが老人介護の施設だとは思えない。室内は明るくて、車椅子の人でもトイレや入浴がしやすい設備が備えられている。広い集会場もあり、大型のテレビとゆったりくつろげるソファが置かれたリビングもある。入所者には個室が与えられ、プライベートは守られて、家族との面会も昼間は自由だ。食事や掃除、庭の手入れも、スタッフの指導の下で可能な限り入所者で行う。勿論身体的に制限のある人には無理強いはしない。ここは紛れもなく、支えあいながら人として生活する場所なのだ。


 杏奈はグループホームというネーミングの通り、「家」だと思っている。淋しく不便な一人暮らしよりはずっと快適で安全な、楽しい生活が送れると思っている。


 ただ、我が家での生活と大きく異なるのは、門に夜だけでなく昼間も鍵が掛かっていることだ。入所している老人たちが、認知症を発症しているからだ。身体的には健康を損なっていなくても物忘れがひどく、病気に付随して感情をセーブ出来なかったり、鬱状態だったりと、脳の萎縮による症状は当たり前の生き方を制限してしまう。鍵はあくまでも入所者の安全を考えてのことだ。


 杏奈はまだ颯爽としてスタッフと対等に話題が提供できる岩崎さんが、自分の息子を他人だと言い張った話を聞いてショックを受けた。 


 ここで働くに当たって、所長でもある高松マネージャーが、


「寄り添ってあげる……。そういう気持ちで、接してあげて欲しい」


 と言ったことが、日に日に重みを増してくる。治してあげたいなどという気持ちは、健常者の傲慢に過ぎない。まだ勤めて四日目の彼女にも、ここが社会から切り離された空間であることがはっきりと理解できた。まるで幼子に接するように、入所者のすべてを受け入れる。それは思いやりでしかないと杏奈は思う。


「あなたは少なくとも、介護される立場にもいたのだから、入所者の気持ちは理解しやすいでしょう」


 採用面接の時に言われて頷いたものの、マネージャーの言葉に膝の上の手を握り締めた。否応なしに社会から隔てられる気持ちは、言葉に出来ない辛いものだ。生きている価値がないと言われているようで、人の手を頼って生きるということに、杏奈自身何度失望感を味わったかしれない。幼い自分でもそうだったのだから、人生をしっかり生きてきた老人たちが希望を失くしているのは感じる。たとえ快適な日々が送れても、住み慣れた我が家を離れ、隔離された施設で生きることは辛いだろう。


「登美子さんは歌が好きやから、杏奈ちゃんの演奏、楽しみにしてるんやな」


 車椅子に座ったまま、子供のようにスプーンを口に入れられている白髪の老女に、唯一の男性である介護スタッフの鈴木さんが笑いかけた。若い鈴木さんの笑顔に、登美子さんは皮膚の垂れた頬を少し持ち上げ、皴だらけの口元を開いて笑った。


「一緒に歌いましょうね」


 杏奈はにっこり笑いかけて言ったが、登美子さんは聞こえなかったように、また食事の乗ったスプーンに向かって口を開けた。


 杏奈は暫く登美子さんを見ていた。どんな曲を弾いてあげようかと考える。彼女はこの施設の一番の年長で、もうすぐ九十歳になる。すでに一人で歩くことは出来ず、車椅子で生活している。認知症は重く、話をすることはほとんどない。寝たきりになるのは時間の問題だと、マネージャーから聞いている。そして、この施設で介護できなくなり、老人ホームへ移ることになる。杏奈には厳しい現実だったが、このホームは空きのない老人ホームを待つ間の施設ということだ。いろんな事情で家族の世話を受けられない人は、どうしようもないことなのかもしれない。


 登美子さんの家族も、年に数回息子が訪れるだけだという。本人にとっても介護する家族にとっても、老いだけではなく認知症であるというのは、重い枷となるのだろう。登美子さんは息子を見ても、嬉しそうな顔もしないとスタッフから聞かされた。それがこのホームの現実なのだと、杏奈は胸が締め付けられる思いがした。


 朝食が終わり、スタッフはそれぞれに慌ただしく仕事に就く。杏奈は食事の後片付けを手伝うために、スタッフの河合さんとキッチンへ向かった。


「杏奈ちゃん、足は大丈夫なん? はじめての電車通勤は大変やろ?」


 キッチンで朝食の食器を片付けながら、河合さんが心配そうな顔を向ける。杏奈は、施設の近くに住んで、パートとして働く主婦の河合さんが好きだった。ここへはじめて来たときから、娘と同じ歳やと言って、何かと案じてくれる。


「ええ、本当は大変やけど、でも良いこともあったんです」


「良いこと?」


 杏奈は恥ずかしそうに赤くなって、口ごもりながら話した。


「はい。今日はギターが重いし、混んだ電車にどうやって乗ろうかって心配やったんやけど、実は香櫨園の駅で二番目の神様が現れて……」


「二番目の神様? 」


「そうなんです。私が困っていると、その人、ギターを持って電車に乗ってくれたの。その前は混んだ電車に乗せてくれたし」


「知ってる人なん?」


 と尋ねられて、杏奈は頬を染めると小さく首を振った。


「全然知らん人」


「へえ! しらん子に手を貸すなんて優しい人やねえ」


「はい、すごい優しい人やと思う」


 杏奈は食器を棚に入れながら、高遠のことを思い浮かべた。乗客の頭一つ抜きん出た長身は、スーツを着ていても目立った。彫りの深い顔に二重の力のある目が少し怖い感じだが、笑うと暖かい表情になる。少し長めで、ラフに掻き揚げた髪型を思うと、仕事は銀行なんかの堅いところではないのかもしれない。二十四歳の杏奈より八つ年上のどきどきするくらい素敵な人。


 足が不自由なことへの同情以外、彼の気遣いに何の意味もないのは分かっているが、「じゃあ、月曜日に」と言って微笑んだ顔を思い出し、熱くなった頬に手を当てた。


「二番目ってことは、一番目の神様もいたん?」


 ぼんやりしている杏奈をからかうように、河合さんが顔を覗きこんだ。


「あ、はい。一番目は震災のとき、助けてくれた人です」


「ああ、杏奈ちゃんは阪神大震災で怪我をしたのよねえ。家が潰れてその下敷きになったって、高松マネージャーから聞いてびっくりしたのよ。足はそのとき怪我したって」


 河合さんは目を細め、辛そうな表情になって杏奈を見つめた。


「ええ。私はまだ八歳で小学生だったし、気がついたら真っ暗な中で身動きできない状態で……。地震だったっていうのも、病院で聞くまでわからなくて、とにかく胸を押されていたから息も出来ず苦しいばっかりでした」


 杏奈はそう言いながら、息苦しさを感じた。呼吸が速くなり、体が強張る。


 平成七年一月十七日の、あの早朝の記憶は今でも彼女に混乱と恐怖を呼び起こす。十七年も経つのに、あの日のことは体の芯に打ち込まれた楔であって、おいそれとは忘れることが出来ない。杏奈の人生が暗転してしまった忌むべき日なのだから。


 まだ夜明け前、二階の部屋で寝ていた杏奈は、突然ベッドが大きく揺れて下から突き上げられた。まるで手の中のお手玉みたいに翻弄されたかと思うと、大きな音とともに闇に閉じ込められた。杏奈はそのまま気を失った。

 気付いたときには、バリバリと木が裂ける音や、人の叫び声が聞こえたが、視界には闇しかなく体は動かない。声も出せず、微かに息をするのがやっとだった。あまりの苦しさと焼きつけたような痛みのために気が遠くなる。暫くすると悪夢から目覚めようとするかのように、再び意識を取り戻すが、またうつろうように意識が遠のく。

 そうして何度目かに気がついたとき、明るい光が差し込んでいるのが見えた。丁度顔の上から二メートルくらいの高さに、ぽっかりと穴が開いていて、そこから眩い光が降り注いでいた。そしてそれを遮る黒い影が動くのが分かった。


――生きてるんか?


 突然その影が声を掛けた。返事をしようとしたが声が出せず、瓦礫の下になっていた唯一動く手を無理やり引き出し、ゆっくり上に伸ばした。漏れてくる光の中を上る手は、幽霊のように手首をたれ、力がなかった。すると上からがっしりとした軍手の手が下りてきて、小さな杏奈の手を力いっぱい掴んだ。


――生きてる! 生きてる! がんばれ!


 上擦った声だったが、杏奈には何十メートルも離れたところから叫んでいるように聞こえた。


――あゆみ! 生きてるんか?


 頭を寄せ合うように、もう一つ顔が覗く。


――大丈夫や! はよう、みんなを呼んで来い!


 声を聞きながら頭を動かそうとすると、突然視界がぐるぐる回った。頭が割れるような気がして、杏奈は目を閉じた。ホッとしたのか、体中から力がなくなっていく気がした。


――あかん! 目つぶったらあかん! あけとけ! 


 手が強く握られた。指が折れそうだと思いながら、覗いている顔を見た。誰だろうと目を凝らす。「あゆみ」と呼ばれたその人の、陽が当たった顔に見覚えはない。だが若い男の人だとわかる。大きな手の、「あゆみ」という名前のおにいちゃん? 杏奈は朦朧としながら、男の人なのに同級生の田中さんと同じ名だとおかしくなった。

 大きな手の、「あゆみ」という女の子みたいな名前のおにいちゃん――。


 

「命の恩人なん? その神様は」


 河合さんが、杏奈の強張った肩に手を置いた。


「そうです。家が崩れて、屋根が落ちた下に埋まった私を見つけてくれて……。でも、誰か分からないんです。父も母も怪我をして病院に運ばれたのですが、家はペッシャンコで、私だけ見つからなかったんです。幸運にも怪我のなかった兄が、自転車に乗った高校生くらいの二人に助けを頼んで、その人たちが覆っていた瓦屋根を剥いで見つけてくれたんです。でも私が助け出されたときには、もう姿はなかったって言っていました」


「高校生! よくまあ、見つけてくれたねえ。ほんまに神様みたいな子らや!」


 河合さんは高校生くらいと聞いて、目を丸くした。


「はい。近所の人も救出に手を貸してくれてたようですが、呼んでも返事がないから死んだとみなされたんでしょう。他に何件も潰れていましたから、手が足りないのはどうしようもないし、生きている人から助けるのは当然です。私は諦めなかった兄と彼らのおかげで、それからすぐに助け出されました。あのまま見つけられずに埋まっていたら、出血多量で死んでいたと思います。足はめちゃくちゃでしたし」


 河合さんはぽっちゃりした体で、杏奈の肩を抱きしめた。


「ほんまにあんたには神様がついてるんやね。足が不自由でも、あんたは明るくてほんまにええ子やもん。二番目の電車の神様も、あんたを助けんとおられんかったんやろ。私らも同じ気持ちやで。辛いことは何でも言いや。力になるさかいに」


 そういうと、河合さんは潤んだ目を指で拭い、優しく杏奈の肩を叩いた。


「有難うございます。私みたいな子、何にも出来へんのに雇ってくれたマネージャーにも、迷惑がらないでいろいろ教えてくれる河合さん達にも、本当に感謝しています。くじけんと頑張ろうって思っています」


「ここは人を思いやる職場や。それが一番の仕事やで。大丈夫、杏奈ちゃんなら、入所者さんたちの天使になれるわ」


 と、河合さんは鼻を啜ると、にっこりと笑った。杏奈も笑って頷くと、また食器の片づけを始めた。


 杏奈は自分が今までになく輝いているだろうと思った。足に力を入れてみる。ステッキは必要だが、自分の足で歩くことが出来て、仕事も出来るのだ。それがどんなに嬉しいことか……。世界は果てしなく広がってゆく気がした。車椅子で卑屈になって生きていた頃、自分を閉じ込めることばかりを考えてきた。何も出来ない、何もしたくない、誰にも会いたくない。でも今は違う。何でも出来る気がして、何でもやってみたくて、いっぱい人に会いたい。


 杏奈は家に戻ったら、東京の兄に電話しようと思った。震災のとき救出を諦めないでくれたこと、車椅子の生活にふさぎこむ杏奈にギターを教えてくれたこと、そして義足を付けることを勧めてくれたこと……。兄、恭介の愛情なくして、今の杏奈は存在しない。


「あの二人は、神様仏様や!」と、命を取り留めた杏奈に救出の様子を話してくれたとき、中学生だった兄は泣きながらそう呟いた。それから、杏奈は手を握ってくれたその人を、神様と呼ぶようになった。


 神様はいつも励ましてくれた。杏奈がくじけそうになるたびに、神様の大きな手の感触が力をあたえてくれるように蘇ってきたし、リハビリで辛かったとき、神様の叫んだ「がんばれ」が聞こえた気がした。どこの誰かも分からない少年が、杏奈の支えの一人になっていた。


 人は誰かに、そして何かに支えられ生きていくものだと杏奈は思う。今まで、本当に沢山の人に支えられて生きてきた。両親、兄、命を救ってくれた病院の医師たち、励ましてくれた学校の先生、そして義足の設計士とリハビリの療法士……。あげればきりがない程に、支えられてきたのだ。


 自分も支える人になりたい。いつか……。杏奈は頬を紅潮させて、唇を噛み締めた。


「杏奈ちゃん! さあ、ギター弾いてあげてくれる? 皆、お待ちかねやで」


 キッチンの入り口から、高松マネージャーの張り切った声が聞こえた。杏奈は「はい!」と、大きく返事をした。


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