2、 出会い(2)
「高遠さん。言われていることは分かりますけど、あっちはうちよりも広いんですよ」
須磨店店長の野山は、不愉快極まりないという表情で、高遠を見た。高遠より年上で、本屋の経験も長い彼にとって、本部からやってくる人間は小うるさい蝿くらいの感覚なのだろう。店舗の実情を良く知らないで、データ上の判断だけで文句を言ってくる。うるさいだけで何の役にも立たないと、野山の顔に書いてあるようだ。いつもの横柄な態度を無視しながら、高遠は事務的な口調で応じた。
「いや、そんなことは分かっている。しかし、目新しさであちらに向いている客を、元通りに取り戻すには引きつける何かが必要やろう」
狭い事務所のデスクに、野山と向かい合い、広げたデータを指で叩いた。
「何かって、なんです?」
腕を組んだ野山の口元が歪み、皮肉っぽい笑いを浮かべている。高遠はそれを無視するように、データの一枚を彼の前に突き出した。
「定番の売れ筋と死に筋をデータで出して、総入れ替えをする」
野山の頬がひくっと動いた。目が険しくなる。
「待ってくださいよ。オーダーベストは入れ替えて、棚はもう作っているのに」
「分かっているが、今までと同じ棚じゃあ、大型店には太刀打ちできん。変化と興味を持たせないとな。ここは専門書以外の商品は十分に押さえられていると思う。だが棚の構成に関してはほとんどオープン時から変わっていない」
「当然でしょ。変える必要もないのだし」
野山のへの字に曲げた口元を見て、彼は苦笑いした。高遠が本部の人間であっても、五年間この店を動かしてきたのは野山だ。それも順調に売り上げを伸ばし、神戸地区では根幹となる店に育てた。彼の功績は本部でも認めている。高遠もそのことに意義を唱えるつもりはないが、須磨店がかってない脅威に晒されているという事実を知らしめないわけにはいかない。
「三〇%の昨年対比割れは大きすぎる。あっちが広くて目新しいというだけなら、利便性や集客は絶対うちの方が有利だし、同じものを売っていて同じサービスなら十分対応できるはずだ。何とか一〇%まで回復したい。でないと人件費にまで調整がはいるぞ。とにかく早急に棚の見直しを始めよう。ここ一年のアイテム数と販売実績をデータにしてみる」
野山は高い頬骨を片手で撫で付け、小さく息を吐くと、
「分かりました。データは早めにくださいよ」
と、諦めたように言った。高遠は人件費を口にした時点で、野山は了解するだろうと思っていた。どの店も、パートやアルバイトが主になって回しているといっても過言ではない。須磨店も、もう一人の若い社員を除いて、後は全てアルバイトだ。人件費を削られれば、それだけ野山の負担は増す。
「明日の午後、持参する。もう一度詰めよう」
高遠はデータのコピーを整え、自分のブリーフケースに突っ込むと、デスクから立ち上がった。野山は浮かない顔をして、彼に続き事務所を出た。
正午近い店内は、結構込み合っている。スーパーの袋を提げた客が雑誌を手にレジに並んでいる。手際よく応対する二人のレジ係りの女の子を見ながら、高遠は頷いた。接客態度は申し分ない。客が切れると、レジ係りの二人は緊張した顔で高遠に会釈した。この店の状態は分かっていて、高遠に叱責されるとでも思っているのか、落ち着かない目で見ている。彼は安心させるように微笑んで見せた。
高遠は新店にかかりっきりだったために、一月ぶりに見る店内をチェックし始めた。ついて歩く野山は、先回りして店内を説明する。棚は整然として、新刊も話題書も問題なく積まれている。十分目の行き届いた売り場が作られている。
「難しいな。何も問題はない」
「そうでしょ。皆、よくやっているし」
野山はにんまりと笑い、胸を張るように腰に手を当てた。高遠は売り場を見回せる入り口に立つと、独り言のように呟いた。
「少し、遊んでみるか」
野山は怪訝な顔で、顎に手を当てた彼の顔を覗きこんだ。
*
次の日、高遠はいつもより三十分早く家を出た。
須磨店の改善策を早めに出社して纏めたいという気持ちだったが、少しばかり昨日の足の悪い彼女の、落ち込んだ顔がちらついたこともある。今朝は彼女に会うことはないだろうと思うと、気持ちは軽くなった。些細なことを気にする自分がいやになると顔をしかめ、高遠は階段を上って、いつものホームの中央の列に並んだ。
三十分早いと、見覚えのある顔はホームにはない。思えば大阪本社から、今の神戸営業所に配属になった四年間、変わらずこのホームの位置に立っている。高遠は三十二歳の平穏な日常に満足感さえ抱いているのだ。
ふっと美紀の顔が浮かぶ。彼女を引き止めて結婚を口に出来ないのも、この日常を壊したくないのだろうかと、高遠はぼんやりと思った。あと二週間で、彼女は高遠の傍から離れていく。二人の未来を保留にしたことに意味はない。単に結論を先延ばしにして、逃げているとしか言いようがない。美紀を説得し彼女の将来に責任を負うことや、結婚に伴う様々な段階のわずらわしさを思うと、話し合う気分になれなかったのだ。
わずらわしさ?――彼は眉をひそめた。
一人の女を幸せにしてやることが、わずらわしい?――高遠は薄い雲が切れ、青い空が広がりつつある頭上を見上げた。もやってくる心に歯止めをかけるように、くっと奥歯を噛み締める。俺は彼女が欲しくないのか?
「あっ」
高遠の背後で小さな声があがった。釣られるように後ろを振り向く。
あの女性だった。思わず高遠も視線を止める。大きな瞳が丸く見開かれていて、エスカレーターを上がったところで立ち止まっている。遭いたくないものに遭ってしまったと、ありありと表情に出ていた。高遠はその表情の原因が、二度出会っただけの自分だと思うと苦笑してしまった。
彼女はきまりが悪そうにぺこりと頭を下げると、踵を返して先頭車両の着く方へ歩き出した。高遠はステッキを突き立て、肩を揺らしながら歩く背を呆れて見た。彼女の手には身に余る程の大きな黒いギターケースが提げられているのだ。軽いはずはなく、不自由な体はふらつくようにゆっくりしか歩けない。背中にはバッグの代わりに小さめのリュックが背負われている。今日はGパンと黒いチェニックの下にコットンのシャツというラフな格好で、スーツ姿より幼く、そしてか弱く見えた。
高遠は苛立ちを抜くように鼻を鳴らすと、彼女の後を追った。
背後の靴音を聞いて、彼女はホームを開けるように壁際に体を寄せたが、横に並んだのが高遠だとわかると、ぎょっとしてまた大きな目を向けた。
「重そうやな」
「あ、えっと、ギターなんです」
「見ればわかるよ。貸して」
彼女はギターケースに手を伸ばした高遠から、一歩後ずさり、反抗するような目で見上げた。
「け、結構です! 自分で持てますから」
「分かっているけど、これを持って電車に乗る気?」
「勿論です!」
「そりゃあ大変や」
高遠は、口元を尖らせ目を三角にしている彼女の様子が可愛いくて、思わず微笑んだ。そして、宝物のように身に引き寄せられたギターケースを無理やり彼女の手から奪い取ると、くるりと背を向けて後部の車両の位置へ進んだ。
「あ、あのう……。本当に大丈夫ですから」
彼の後をついて歩きながら、彼女は困惑した様子で話しかけてきた。
「先頭車両はね。三宮駅で出口に一番近いから混むんや。最後尾なら芦屋を出たら座って行けるよ。説明不足やったね」
彼女はステッキの音を立てながら、黙って彼についてくる。
「しかし、なんでこんな重いもん持っとうわけ? 趣味でやっとんの?」
高遠が先に最後尾の電車の位置に並んで尋ねると、俯き加減で傍に立った彼女は恥ずかしそうに言った。
「グループホームのおばあちゃん達が聞かせて欲しいって言うので……」
「グループホーム?」
「あ、はい。要介護の人達が共同で生活している施設なんです。主に軽度の認知症の老人なんですが、リクレーションの時間にギター演奏を頼まれたんです」
「へえ。じゃあ結構弾けるんやな。すごいやん」
高遠が明るく笑いかけると、彼女はやっと顔を上げて微笑み返した。
「ギターは兄の影響で、中学時代からずっと弾いていました。うまいほうだと思います」
頬を赤らめて、笑みが零れんばかりの彼女は、自慢気に少し胸を張った。それを見て、高遠も口元がほころんだ。おせっかいを焼いた自分に苛立っていた思いが、ふっとどこかへ飛んでいく。
「お兄さんが先生か。仲の良い兄妹なんやなあ」
「はい。今、兄は東京に住んでいるので、お正月くらいしか会えないんですけど。気晴らしにと教えてくれたんですが、最初はちっとも楽しくなくて、いつも最後には喧嘩になっていました。兄もまだ高校生で、女心を理解できる歳ではなかったですし」
彼女は首を傾け、肩をすくめて見せた。茶目っ気のある目が、ちらりと向けられると、彼は思わず声を出して笑った。
「ははは、それはそうやろう、高校生じゃあね。俺なんかこの歳になってもわからん」
「え? 奥さんの気持ち?」
「いや、残念ながらまだひとりもん」
「あ、すみません。失礼なことを訊いてしまって。あの、いつもきちんとした身なりをされているので、奥さんがいらっしゃるのかと……」
彼女は赤くなって慌てて詫びた。空いている右手で、胸元を掴んで、黒い瞳を戸惑ったように、おどおどと動かしている。高遠は既婚者だと思われたのは少しショックを受けたが、不快な気はしなかった。それよりも名前も知らない若い女性との会話が、自然に交わされているのを心地よく感じた。
「身なり? ああ、そうやな。はよう年貢を納めろとせっついてくる、怖い代官の世話にはなっているな」
「はあ?」
彼女は、今度は目を見開いて彼を見上げた。大きな黒い瞳には、彼女の感情が率直に現れるようだ。クェッションマークが浮かんでいる。高遠は微笑んで答えた。
「おふくろ」
「ああ、お母さん!」
彼女は納得したと頷くと、小さくぷっと噴き出して頬のえくぼをへこませた。高遠は本当に可笑しいという表情を見て、何だかくすぐったい感じがした。
「家はこの駅から近いの? 俺は川添町やけど」
「そうですか、海のほうですね。私は松下町です。阪急夙川へも歩いていけますが、この駅が好きなんで」
「ああ、分かるよ。もうすぐ桜で埋まってしまうし」
「はい。毎日お花見気分で通勤できますね。楽しみなんですよ。はやく満開になればいいのに」
「ほんまやね」
電車を待っている手持ち無沙汰な時間が、わずらわしいと思っていた女性に埋められていく。彼女は全く高遠を警戒している様子はなく、以前からの知り合いだったように言葉を返してくる。彼は妙に心が弾む気がした。
「ずっと関西にいると、東京は遠く感じるなあ」
彼女の兄が東京だと言ったのを思い出し、高遠も美紀のことが頭に浮かび、つい溜息が零れた。
「そうですね。今は忙しいらしくて、お正月に顔を見せたきりです」
「そりゃあ、淋しいなあ。東京なんて新幹線で日帰りできるけど、実際会いに行くのは大変やろなあ」
溜息をつき笑みを閉じた高遠の横顔を、彼女はじっと見つめている。
「どなたか東京に?」
彼女がそう言った時、構内にアナウンスが響いた。
――「普通電車、須磨浦公園行きが到着致します。危険ですから白線まで下がってお待ちください」
「さあ、俺の前に来て。足元、気をつけて」
高遠はギターを持ち替えて、その脇にブリーフケースを挟んだ。空いた右手で彼女の腕を掴む。
「すみません」
と、彼女ははにかんだ笑みで振り向いた。
滑り込んできた電車は八時台よりも空いていた。高遠は乗客から顰蹙を買いそうなギターを下げ、彼女の後から乗り込んだ。ギターケースを抱えるように二人の間に立てると、彼女は申し訳ないといった顔で、ケースに手を置いた。高遠が、
「危ないから、手すりをつかんでろ」
と言うと、彼女はおずおずとその手を吊り輪の下がったバーへ伸ばした。高遠は少し話を交わしただけで、まるで彼女の保護者気取りになっている自分が可笑しくて、一つ咳払いすると話しかけた。
「さっき、グループホームって言ってたけど……」
「はい。高齢者介護施設『やすらぎ苑』と言います。そこで介護のアルバイトをしているんです。こんな体なんで、まあ十分に役に立っているとは言えないのですけど……」
彼女は見上げていた目を伏せた。
「介護か。大変な仕事やね。ギターを聴かせて貰えるなんて、お年寄りにしたら嬉しい事やろ。楽しい時間を提供するのは大事な仕事や」
高遠の言葉に、彼女は大きな目をパッと輝かせた。
「はい」と、明るい声で返事をして、零れんばかりの笑顔になった。
車は打出駅を過ぎ、次は芦屋駅というアナウンスが車内に響いた。彼女はにっこりと笑いかけると、
「次で特急に乗り換えられるんですね」
と、ギターケースに手を伸ばそうとした。高遠は車内をぐるりと見渡すと、
「二本早い電車に乗れたから、このまま三宮まで乗っていくよ。重いだろうし」
と、何気ない様子で告げた。
「え? あの、このギターのためにそんなの悪いです!」
「いや、ゆっくり乗っていくのもええと思っただけやから」
彼女は戸惑った顔をしたが、高遠が笑いかけると釣られて笑顔になった。
「有難うございます。今日は甘えさせて頂きます」
他の乗客を気にしながら、頬を染めて頭を下げた彼女に、高遠は心底同情せずにいられなかった。可愛くて申し分ない女性なのに足が悪いというハンディは、彼女を少なからず苦しめてきただろう。世間は障害のある人に心ならずも暖かいとは言えない。彼女に対して自分がそうであったように。
芦屋を過ぎると、座席が一つ空いた。高遠はそこへ彼女を座らせると、自分はギターを抱えたまま、その前に立った。普通電車は各駅に停車するため、とても長い時間乗っている気がした。三宮までは二十くらいの駅がある。
そして特急停車駅の御影に着いたとき、彼女の隣が偶然空いた。高遠はギターケースを足の間に持たせて座った。
「すみません。倍以上時間が掛かりますね。お仕事間に合いますか?」
彼女が眉根を寄せて、彼に顔を近づけた。
「大丈夫や。いつも余裕を持って出勤してるから」
彼女はほっとしたように微笑んだ。そして話せるのを待っていたかのように、
「あ、あの私、一之瀬杏奈といいます。名前も言わないですみません」
と、ぺこりと頭を下げ言った。
「こちらこそ。高いに遠いで高遠です。そのまんまやけど。杏奈さんって可愛い名前やね」
彼女は高遠に顔を覗きこむように見られ、頬が赤くなった。彼はからかうように首を傾げて、その横顔を見た。
「苗字より呼びやすいらしくて、みんな杏奈って言います。父がつけたんですが……。学生の時に読んだトルストイの『アンナ・カレーニナ』に感銘を受けて、女の子ならアンナにしようと決めていたらしいです」
「トルストイとはすごいなあ。でも、アンナ・カレーニナって、不倫の話やったよね」
「まあ、概ねそうです」
彼女の目が天井に向けられた。高遠は不倫の話と言われて、口を尖らせている彼女がとても愛らしく見えた。
「俺も読んだよ。大学が文学部で必要に迫られてだけど。確かにすごい小説や。でも、登場人物の性格を思うと、どっちかというと賢い『キティ』の方が君に合っている気がするなあ」
「ふふ、流石に父もキティとは名付け難かったんでしょう」
杏奈の唇がほころんで、白い歯が覗いた。
そんな彼女を見ながら、高遠は学生時代に読んだ、分厚い文学全集の表紙を思い出していた。トルストイは「戦争と平和」を読んでいて、その重厚さに圧倒された。大学の図書館で、『アンナ・カレーニナ』を手に取ったときも、同じく世界観の大きい重苦しい話に違いないと覚悟してページを開いた。予想に反して、それは欲情に溺れる女性のありとあらゆる感情が細やかに書かれた物語だった。夫がいながら青年に恋するアンナを半ば嫌悪するように、そしてそこまで溺れる愛に憧れを抱いて読んだのを覚えている。
破滅させられるほどの男女の愛なんて、現実にあるのだろうか? 小説やドラマの中の戯言ではないのか? 高遠は十年以上関係のある美紀にそんな気持ちを抱いているのかどうか考えずにいられなかった。
「高藤さん、どうかしましたか?」
「え? いや……。もうすぐ三宮やな」
「はい。本当に有難うございました。ご迷惑かけてすみません」
彼女は座ったまま、丁寧に頭を下げた。
「大したことやないから、礼はいいよ。それより、どうやって持って帰る気?」
「ギターはこのまま施設に置いておくつもりです」
「そうか、それなら心配ないな。それから……」
と言いかけて、高遠は少し言いよどみ、彼女を見た。彼女は首を傾けながら、まっすぐに視線を向ける。
「えっと、いつもの電車に乗るんなら、俺が並んでいる列に来ればいい。君を乗せるくらいなんでもないし」
彼女はステッキを持った手も持ち上げ、手のひらを胸の前で広げて振った。
「と、とんでもないです。見ず知らずの高遠さんに、甘えるわけには……」
高遠は口元に拳を当てて、噴き出した。
「見ず知らずの『高遠さん』って、ちっとも見ず知らずやないなあ」
「ああ、そうですね」
杏奈も手を口元に当て、くすくす笑う。
「だったら、ホームにいてください。杏奈さんを気にして、朝から探し回る方が嫌だしね。明日、明後日は休み?」
「はい。土日は休みです」
一之瀬杏奈は頬を上気させ、大きな瞳を細めて嬉しそうに微笑んだ。ピンク色の口角の上がった唇は、弧を描いて締められ、頬に小さなえくぼを作った。
電車がゆっくりしたスピードになり、キキッと金属の擦れあう音とともにブレーキが掛かった。高遠は彼女の横にギターケースを持たせかけ、席から立ち上がった。
「じゃあ、杏奈さん。また月曜日に」
「有難うございました。高遠さん」
杏奈に見送られながら、高遠は開いたドアからホームへ降りた。