1、 出会い
東北大震災以前に書いたものです。東北大震災には一切触れてはいません。
阪神香櫨園駅の上りホームは次第に混み合ってきた。神戸方面へ向かう会社員や学生が、八時台の電車に乗るために続々と構内の階段を上がってくる。駅は途端に人であふれる。
高遠は改札からホームへ上る階段が最も近い、七人ほど並んだ列の最後尾に立った。朝のひんやりした空気を吸い込み、ブリーフケースのベルトを肩に掛け直しながら見慣れた朝の光景を眺める。
香櫨園駅は幅三メーターほどの夙川に架かる高架駅で、川の土手は桜並木の続く遊歩道になっている。もうすぐ薄桃色に埋め尽くされ、ため息が出る程美しい時期を迎える。駅周辺には静かな住宅街が広がっている。阪神間という位置にありながら六甲山と瀬戸内の海に挟まれた街は緑も多い。
特急電車が風を巻き上げながら、通過して行った。この後、五分ほどで須磨浦公園行の普通電車が到着する。神戸の中心地三宮まで、二駅先の芦屋駅で特急に乗り換えて三十分ほどだ。電車の去った方向を見ていた高遠は、腕の時計を確かめた。
背後のエスカレーターをタンタンと駆け上がって来る足音がして、高遠は何気なく振り向いた。特急の通過した音に慌てたのか、上がってきた若い男がホームでホッと息を吐いている。そして不愉快そうに後ろを一瞥した。男の視線に誘われ、エスカレーターに目を向ける。そこにパンツスーツ姿の若い女性が現れた。やっと着いたと言わんばかりに足を止め、大きく息を吐いている。男はこの女性に行く手を塞がれたのだろう。焦っているときは何に対しても苛立つものだと思いながら、視界に入った女性を見る。二重のはっきりした大きい目が印象的で、笑みを浮かべ、持ち上がった頬にはえくぼが出ている。長い髪を後ろで束ねているので、白くほっそりとした首筋が目をひいた。OLなのだろうかと、彼は眉を上げる。綺麗な子だが、濃紺のパンツスーツに薄化粧で地味な印象だった。それに落ち着かない様子でホームを見まわしている。
ようやく一歩踏み出した彼女に、高遠は一瞬眉をひそめた。小ぶりのリュックを背負い、いからせた肩に腕を突っ張っている。手には黒いステッキの柄がしっかりと握られていて、スニーカーの足が歩みを進める度に、かくんと左右に体が揺れる。左足をかばうように歩いているのだ。
足が不自由なのか――高遠は、慌てて視線を線路に戻した。
背後をこつんこつんとステッキの音が響き、彼女は隣の車両の列へ並んだ。高遠は何気ない素振りで、二メートルほど離れた彼女を再び窺った。左手のステッキで体を支えながら立つと、右手に掴んだものをじっと見つめている。こげ茶の磁気面が見えたので、それが定期券だと分かった。彼女はそれを見ながら、にっこりと笑った。
その時、駅のアナウンスが普通列車の到着を告げた。彼女は顔を上げると、大事そうに定期券を上着のポケットに仕舞い、また強張った表情に戻った。不安そうに唇を引き結び、ステッキを握り直している。
可愛い子なのに気の毒にと、電車の来る方向を見ながら、高遠は心の中で呟いた。
――「普通電車、須磨浦公園行きの到着です。危険ですので、白線まで下がってお待ちください」
アナウンスが終わると、電車がゆっくりとホームに滑り込んで来た。キキッと金属音がして、重い車体がエネルギーを徐々に放出する。ドアが目印の位置に正確に止まると、混んだ車内で扉の開くのを待ちわびる人が見える。高遠はいつものように、降りる人に道を開け、ドアが開くのを待った。
シュッと油圧の音がして、ドアが一気に開くと、人が固まりになって降りて来る。学校の多い地区なので、この時間は学生も多い。乗る者は端に寄り、列を乱さず前に詰める。高遠の列が乗り込み始めた時、「キャッ」と小さな悲鳴が聞こえた。見ると、隣の車両のドアから降りてきた人が戸惑っている。あの足の悪い女性が降りてきた人に押され、高遠の方へ近づいてきた。女性はよろけて、今にも転びそうになっている。
「何やってんのや」
つっけんどんにそう呟くと、高遠は躊躇うこともなく彼女の腕を掴んだ。目を見開いて驚いた顔が、彼を見上げる。
「道を開けないと、降りた人が通れんよ。ほら、こっちに並んで」
「あ、はい。すみません」
真っ赤な顔になった彼女は、引っ立てられる罪人のように腕をつかまれ、横に立たされた。口を引き結んだ彼が、乗り込む人を見つめていると、
「あ、あの、電車に一人で乗るの初めてで。すみません」
と、彼女はちらっと視線を向けしょぼくれた様子で言った。
「はじめて?」
「はい、一人ははじめてなんです」
高遠は呆れた顔で、彼女のきりっと束ねた髪の垂れるうなじを見下ろした。恥ずかしそうに俯いた横顔は、きゅっと唇を噛んでいる。
ホームに発射を告げる電子音が流れ、アナウンスが響いた。高遠は乗りかけた彼女を支えるように右腕を掴んだまま、混みあった車両へ押し込んだ。背後ですぐにドアが閉まる。
「大丈夫?」と、おどおどと落ち着かない瞳の彼女に、腕を放して声を掛けた。
「はい、大丈夫です」
彼女は乗客の背に押しつぶされるようになりながら、軽く頭を下げた。長身の高遠にはなんでもないが、小さな女性には出入り口の混雑は堪らないだろう。特に足の悪い人にとっては。彼は電車の揺れに合わせて動き、背後のドアの開閉スペースに進んだ。
再び腕が引っ張られて高遠の意図が分かったのか、壁面に背をつけた彼女は、「すみません」とまた謝って、恥ずかしそうに笑みを浮かべる。高遠は「いや」と短く答えて慌てて目を逸らし、そのまま吊り輪を握って奥へ進んだ。知らない女性に感謝の視線を向けられることに、妙な照れくささを感じた。彼女はホッとしたように壁にもたれ、目を伏せている。
電車は押し黙った乗客を乗せ、速度を増す。
――「車内混みあいまして、ご迷惑をおかけしております。次は打出、打出でございます」
頭上からアナウンスの声が降るように聞こえた。高遠は彼女に背を向けた。
打出駅に停車すると、乗ってくる人ばかりですし詰め状態になった。彼は反対の扉まで押されながら、何気なく開いたドアの方を振り返った。開閉スペースに立ち、あの女性が顔を上げ彼のほうを見ていた。そして目が合うと、微笑んで頷いた。頬がほんのり赤くなっている。高遠は無関心なそぶりで顔を背け、前髪をかきあげるとその手でつり革を掴んだ。
芦屋駅に到着して、押し出されるようにホームに降り立つ。混んだホームで特急待ちの列に並んだとき、もう彼女のことは高遠の頭から消し去られていた。
*
「須磨店の売り上げが予想以上に悪いなあ」
ブラインドの下りた大きなガラス窓を背にした山本部長が、デスク上に広げたデータのコピーに目を落として、唸るように言った。不満そうに背を起こし、もたれた回転椅子をギッと鳴らす。斜め前のデスクで、キーボードを叩いていた高遠が顔を向ける。
「徒歩圏内に大型書店が出来ましたからね。最悪の状況でしょう」
そう応えて高遠は立ち上がり、山本のデスクの横に立った。須磨店の売り上げデータの下に赤いマーカーで線が引いてある。一月前にオープンした競合店に客が奪われているのは一目瞭然だった。売り上げの数値は昨年対比を三〇%割っている。部長は眉根を寄せると、高遠を見上げた。銀縁眼鏡の奥の目が、困惑したように細められる。
「野山をカバーして、何とか手を打つ算段をしてくれんか。このままだと、競合店に飲み込まれる。三田市の新店はもう店長の幸田君に任せても大丈夫やろ」
「分かりました。須磨店の野山に状況を確認して、店の様子を見てきます」
高遠はデスクに広げられたデータをつぶさに見た。気にはなっていたが、先月オープンの三田店の指導にずっと時間を取られていて、まだ店の様子を見に行ってはいない。
五年前に大手スーパーの二階にオープンした二〇〇㎡の須磨店は、高遠が担当する兵庫地区の要といえる一店舗だ。それが徒歩圏内にできた、駐車場を持つ大型書店に押され、売り上げを落としている。
高遠はデスクに戻り、PCに向かうと早速須磨店のデータを呼び出した。店長の野山は須磨店に雇われる前にも、大手の書店で十年間働いていた。今更自分が助言することなどあるのかと思いながら、高遠はデータを食い入るように見つめた。
高遠の勤めるアバンティ書店は、関西を中心に店舗を展開している。彼は神戸営業所の店舗運営部に属し、課長として山本の下で、兵庫県下の店舗管理を受け持っていた。
昨今の書店事情はいうに及ばずよろしくない。商店街に軒を連ねた小さい本屋は、この業界から締め出しを食らっている。高遠の勤める会社がまだしも業績を上げられるのは、大手のスーパーの中に系列企業として出店しているからだ。須磨店もそうした店だった。
「本部も心配しとる」
と、山本は鼻に掛かったメタルフレームを指で押し上げると腕組みし、小太りの体を高遠に向けた。高遠は頷いて、またデータに見入った。
神戸営業所のワンフロアのオフィスは、真新しい駅前のビルの八階にある。本部の出先機関で人数は少なく、五十歳の山本部長をトップに、あとは高遠を含めて五人のスタッフと女性の事務社員が一人いるだけだ。兵庫県下を治めるのは、多忙を極める。今は本部のある大阪や、古い店の多い京都より店舗数が多く、大小合わせ二十店になっている。営業事態は店長に任せることが常だが、数字的なことと、思わぬ事態に備えるのが運営部の責務だった。そして本部の意向を生かすことは、当然彼らの最重要な仕事だ。
向かいのデスクで、入社二年目の若い田崎が電話を受けている。彼の困惑した様子から、どこかの店舗で問題が起こったらしい。田崎は学生っぽさが残る顔を曇らせ、救いを求めるように高遠を見た。
「代わろう」
高遠はデスク越しに手を差し出し、田崎から受話器を受け取ると、神妙な顔で耳に当てる。受話器の向こうで、苛立った女性店長が早口に捲くし立てている。どうやらアルバイトが突然辞めたらしい。人繰りがつかず、人件費節約の方針に不満をぶつけている。高遠は明るく返事をしながら、ヒステリックに尖った声を受け止めた。
*
次の日の朝、高遠はいつもと同じ時間に家を出た。
澄み切った青い空を称えるように、小鳥のさえずりが聞こえる。木々はまだ空に枯れ枝を突き出しているが、暖かい春の日差しにエネルギーが噴出そうとしている。枝を重ねるように続く桜並木は、ちらほらと薄いピンク色の花が開き始めた。駅へ向かう人々の足取りも軽やかに見える。
しかし、彼の気持ちは快適とは言えなかった。昨晩、悩める後輩の田崎を、気晴らしに三宮の行きつけのバーに連れて行き、最終電車で帰宅したことで寝不足だということもある。つい男同士の気安さから、翌日に残るほど酒を飲んだのも事実だ。しかし一番の原因は、出かけに母に、
「美紀さんとはどうなったの?」と訊ねられたことだ。おまけに、
「もうそろそろ年貢を納めたら? 三十歳過ぎても、親元から通っているなんてねえ」と、靴を履いている背に溜息を吐かれたのだ。
佐々木美紀は大学時代に知り合い、彼と十年以上つき合っている女性だ。結婚を考えてもよい関係だったが、一月前に思わぬことでそれが叶わなくなった。まだ、母親にはそのことを告げてはいない。
美紀の名を口にされるのは、彼にとって今は面倒なことだった。母親の口から聞くと、結婚という世間でいう「おめでたい」ことが、彼の身にも現実味を帯びてくる。しかし今まで二人の間で結婚については話を深めたことはなかった。お互い仕事が充実しているからというのは、言い逃れに過ぎない。同い年で三十二歳になる二人は、けじめをつけるには遅すぎるくらいなのだが。
高遠は母の不機嫌な顔を思い出し、ふんと鼻であしらう。美紀を家に呼んでから、年貢を取り立てようと責める代官は母その人だ。
自動改札を通り、ホームへの階段をゆっくり上った。いつものように四両目の列に近づくが、高遠はふいに足を止めた。最後尾に昨日の足の悪い女性が、立って笑っている。
「おはようございます」
と、ゆっくりと近づいた高遠に、女性は軽く会釈した。
「おはようございます」
そっけない挨拶を返すと、彼女ははにかんで頬を赤く染めた。
「昨日は有難うございました」
彼女は後ろに立った高遠を振り向き、軽く頭を下げ小さな声で言った。
「いや、礼を言われるようなことはしてませんよ」
無表情に言うと、彼女は足元に目を落とした。言い方が冷たかったかと、彼女のほっそりとした肩をちらりと見やった。今朝は白い春用のハーフコートを腰のベルトで締め、テーラーカラーの襟ぐりからピンクの薄いセーターが覗いている。昨日よりは華やいだ格好で、うっすらと化粧もしている。でも、黒のパンツの裾から覗いているスニーカーが、折角のおしゃれな装いを台無しにしていた。それに手にしっかり持った黒いステッキも。
一つ咳払いすると、
「君はお勤め? 何処まで乗るの?」
と、平坦な口調で訊ねた。途端に、しっかり束ねた髪が跳ねるほど、彼女は性急に顔を上げた。
「あ、はい、勤めています。昨日からですが。職場は須磨なんです」
頬が赤らみ嬉々とした表情で答える彼女に、高遠は思わず微笑みかけた。
「昨日から? じゃあ新入社員なんやね。だから緊張してたんやな」
「はい。昨日は電車通勤……、電車に一人で乗るのは初めてで、緊張しました」
高遠は怪訝な面持ちで眉を上げたが、初めてと言った理由を聞き返えさなかった。何にしても知らなくて良い他人の事情を、逐一聞かされるのは気が重い。こうして見ず知らずの女性と挨拶を交わすことも面倒な気さえする。勤め始めてから十年間、この駅で乗客と言葉を交わすのは初めてのことだった。もし親しくなって朝から話題を気にしながら、電車を待つことを思うと億劫になる。
「すぐになれますよ」
とそっけなく言うと、ブリーフケースを肩にかけ直し腕を持ち上げて時計を見た。そして一歩彼女の後ろへ下がる。彼女の顔が高遠を追うように動いたが、すぐに前を向いた。高遠は電車のやってくる線路の先を眺め、あと数分だと口の中で呟いた。
しばらくして普通電車が走りこんできた。電車がスピードを緩めるのを目で追いながら、視界の隅に彼女の心細そうに動く頭と白い首筋を捕らえた。
車内はいつもより混んでいて、ドアに押し付けられた人が、開くと同時にホームに一気に吐き出された。発射の音楽が流れたが、まだ乗り切っていない。高遠の前で、彼女は動けないでいる。
「発車するよ」
高遠は後ろから彼女の背を抱えるように支え、そのまま自分の体を車内に押し込んだ。ゆっくりと背後で扉が閉まる。
彼女は丁度高遠の胸に抱かれるようにして、乗客との隙間に小柄な体をはめ込んでいる。今朝は身動きできないほどに車両は詰まっていた。彼女の前に中年の男の背が寄りかかっていて、高遠はつぶされそうな彼女を、抱きかかえるように体を挟んだ。
彼女ははっとした顔を向けて、
「すみません」
と小さな声で呟く。見上げた黒い瞳が高遠の視線とぶつかり、慌てて下を向く。
高遠は思わず顔をしかめた。不可抗力といっても密着した状態では、彼女の華奢で、その上しなやかな体を感じずにはいられない。回した手は彼女の肩甲骨の上で、呼吸のたびに上下する細かな動きを伝えてきた。
二駅だけの辛抱だ――と、高遠は背で中年男性を押しながら、彼女に負担が掛からないようにかばった。
――「次は打出、打出でございます」
アナウンスに耳を傾けながら、腕の中の彼女から匂い立つ甘い花の香りに息が詰まりそうになる。小さく咳払いして、俺も男だなと苦笑した。
スピードの上がった電車が揺れるたびに、彼女に回した腕に力を入れねばならなかった。密着して、不快感をあらわにしていないか気になり落ち着かない。彼女は観念した小動物のように息を潜めているが……。高遠は知りもしない女性のために、緊張を強いられている自分に苛立った。そして、つい言葉が口をついて出た。
「この車両は一番混むんや。もっと端の車両に乗り込んだら、楽なんやない? 君みたいな体の人には混んだ車両は大変やろう」
腕の中のほっそりした体が、途端に強張るのを感じた。高遠はハッとして彼女の顔を見下ろした。前髪の分け目から、白い額と伏せられた長い睫が見えた。
「すみません。迷惑をおかけして」
電車の音にかき消されそうな小さな声で、彼女は詫びた。高遠はあからさまに障害のことを口にした自分を心の中でなじった。彼女を傷つけたと思うと、ますます罪悪感が大きくなる。
「迷惑やなんて……」
と、綺麗に梳きつけられた彼女の頭に呟いたが、小さく溜息もこぼれた。
迷惑だ! 高遠は名前も知らない女性に、朝の自分のリズムをかき乱されていると伝えたくなった。困っているから同情しただけだ。他の人のように、知らない振りが出来なかっただけだ。馴れ馴れしく挨拶してきたのは君の方だ。矢継ぎ早に頭の中を、苛立ちが占領する。
彼女は打出駅に近づき電車がブレーキを掛け始めると、高遠の腕の中で体を回し、彼の胸に肩をつけた。そしてドアが開くと、体を無理やりに奥へと突っ込んだ。人が乗り込んできて、高遠も反対の扉まで押しやられた。二人の間に学生風の男が割り込み、完全に遮られた。高遠は手持ち無沙汰になった手に、ブリーフケースを抱え込んだ。
別に彼女に責任を負う必要などない。体が不自由だからと、そんな気持ちを抱く方が失礼だ。彼女がどう思おうと、親切心で言ったことだ。そう思ってチラリと彼女の顔を見ると、顎を上げた横顔が無表情に強張って見えた。
高遠は動き出した電車のドアの窓から、細めた目で見慣れた景色を眺めた。気分は最低だった。
*
疲れているのかもしれない――と、高遠は水割りのグラスに口をつけながら思った。スポットライトがグラスの氷を煌かせている。呟くようなギターの音色が響く、薄暗いバーのカウンターにひじを突き、ウイスキーの熱をふっと吐く。今夜はアコーステイックギターの旋律が妙に物悲しく、心の隙間に浸み込むような気がした。
「いい曲ね」
と、美紀がカウンターの中で、カクテルを作っているマスターに微笑みかける。
「ボンジョビですよ」
と、白髪まじりの口髭を蓄えたマスターが答える。浮かんだ笑みに、顔の皺が深く刻まれる。
「ここは落ち着くから、好きよ」
美紀はオレンジ色のカクテルの入ったグラスを傾けた。ストレートのセミロングの髪からのぞく形の良い耳に、黒いひし形のオニキスのピアスが揺れている。ぴったりしたハイネックの黒いニットに、タイトな膝上丈のクリーム色のスカート。ノースリーブの肩口から伸びた、細くてしなやかな腕がカウンターに肘を突いている。高遠はすっと伸びた鼻筋と少し目尻の上がった目が煌く、整った横顔を眺めた。自分と同じ歳の、世慣れた大人の落ち着きのある顔。職場でも、酒場でも、彼女は自分の品格を落とすようなことはない。いつも毅然として、知的で美しい。
しかし仕事帰りの二人の、週に一度のリラックスした時間のはずが、今夜はいつになくよそよそしい感じがした。
「で、どう思う?」
美紀がカウンターに肘を突いたまま、不意に高遠に顔を向けた。彼女のすっきりした顎に、細い指が当てられている。高遠は覚悟していたというように、こくりと含んだ酒を喉に落とした。
「どうって、東京本社へ転勤なら、いい話やないか。断るつもりはないんやろ?」
美紀はグラスを置くと、体を抱くように二の腕を掴み、重いため息を漏らした。
「行ったら、私、もう帰ってこないわよ」
美紀が鋭い視線を向けて、言葉をぶつけるように言う。千葉で生まれ育った美紀は、こういう時、いつも関東弁でぴしゃりと言う。冷たく見えるほど整った顔には、そのアクセントが似合っていると彼は思った。
高遠は再びグラスに口をつけた。舌先に苦い味を感じ、すぐに喉に流し込む。どう言えばいいのか、高遠の頭の中にはすでに言葉が出来ているが、それが声になって出てこない。
「貴方っていつもそうよね。自分が責任を負いそうな時はだんまりを決め込むか、気安く同意する」
美紀は顎をしゃくり、乾いた笑い声を立てた。
「まあ、だから学生時代からずっと、こんな煮え切らない関係を続けてこられたのかも」
高遠はシェイカーを振るマスターをぼんやり見る。三宮駅の北側にあるこのカクテルバーに、美紀と飲みに来はじめてから、十年になる。お互い就職をして、はじめての給料でデートし、開かれた未来に祝杯を挙げたのがここだった。あの時のはじけた彼女の笑顔と、グラスのぶつかる乾いた音を不意に思い出す。確かにお互い仕事にまい進していたということもあるが、煮え切らないと言うのは、十年経っても何の変化もない二人にぴったりの言葉に思える。
「ねえ、気づいてる? 私たちって喧嘩らしい喧嘩、したことないのよ」
「え? そんなことないやろ」
前を向いたままでうっすら笑みを浮かべた高遠を、彼女は睨めるように見つめた。
「私はいつも起爆剤の役目を果たしたけど、貴方が爆弾処理班として優秀だったからだわ」
「すごい例えやなあ」
高遠は声を上げて笑うと、目が合ったマスターに肩をすくませて見せた。髭のマスターは眉を上げて、困ったように片方口角を上げた。美紀はまた溜息を零すと話を続けた。
「煮え切らないのは、私のせいだなんて思わないでね」
「そんなこと思わんよ。でも、君にとって仕事が一番やってことは理解しているつもりやけど」
「そうね。おかげで私は、東京本社の新規事業に参加できる切符を手にした」
美紀はグラスに残ったオレンジ色の酒を、艶のある唇に流し込んだ。ジンをオレンジジュースで割ったカクテルが、彼女のお気に入りだった。
高遠はマスターにお替りを頼んだ美紀を横目に見た。そしてもう東京行きを決心しているだろうと思った。行くなと言ったところで、どうなるものでもない。生まれ育った関東へ転勤することに戸惑いなどあるはずが無い。それも間違いなく栄転だ。
美紀とは大学が同じで、サークルで出会った。高遠が文芸サークルに入ったとき、美紀がすでにいて、それからずっと仲間だった。勿論その美しい容姿に惹かれたが、知り合ったとき彼女にはすでに一つ先輩の恋人がいて、高遠とは気の合う友人にすぎなかった。そんな二人が特別な関係になったのは、美紀の恋人が大学を卒業と同時に海外へ旅立ったからだ。突然別れを切り出され、悲しむ美紀を置き去りにしたままで。
ずっと彼女の近しい場所にいた高遠は、慰め役になった。それがいつの間にか男女の関係になり、同じ関西に職場が決まったことから、ずっと続いているのだ。彼は、きっかけはさておき、惹かれた気持ちは変わらないと思っている。今まで波風の立つこともなく続いたのは、お互い必要とする気持ちが強いからだとも。
高遠は、女性でありながらいつも前向きに高みを目指す彼女に、敬意さえ抱いている。誰が見ても美人だと思う端正な容姿に加え、気さくで機知に富み、自分には勿体無いと思うほど魅力的だ。
転機というものは、突然訪れる。美紀も今、その岐路に立っている。上場企業の化粧品メーカーに勤めている彼女は、神戸のデパートで、広いブースを取り仕切るチーフとして働いてきた。そして、五年後には大阪にある関西支店の販促部に席を置いた。女性社員が優遇される職場とはいえ、美紀の出世は抜きん出ていたようだ。当然のように、今度は本社へ栄転ということだ。
高遠の頭の中に、結婚という結実がないわけではない。仕事を辞めて結婚しないか――美紀が一月前に転勤の話をほのめかせてから、彼はこの言葉を告げる義務感に駆られていた。十年以上も縛った責任を取るべきなのだと。でも、美紀がこうして傍からいなくなるという今でも、仕事を取り上げることは自分には出来ないと思う。ましてや彼のために家庭に入り、料理を作り子育てをする彼女がどうしてもイメージできなかった。
愛してないのか? 妙な疑問が湧いてくる。高遠はぼんやりと正面の酒のボトルの並んだ棚を見た。きちんとラベルを向けたボトルは、まるで観客のように二人を見ている気がする。愛していないわけがないと、ボトルに向かって打ち消す。そうではなくて、仕事に情熱を傾けている彼女の人生を、自分の願望に沿わせようと思うことは男のエゴだろう。一介のサラリーマンで厚遇とも言えない実情に、美紀が妻として満足してくれるとは思えない。今の高遠に言える言葉は他にはない気がして、ため息混じりに声を押し出した。
「君を縛り付けるつもりはない」
美紀の長い睫に縁どられた目が、一瞬細められる。
「君は仕事に熱意も持っているし、優秀な人や。企業の中でちゃんと戦っていける。チャンスをみすみす逃すべきやないと思う」
暫く沈黙があった。美紀はカウンターの上にしっかりと組んだ手を見つめている。高遠も言ってしまった言葉の重みを受け取っていた。
美紀がやっと沈黙を破るように、肩で大きく息を吐いた。
「それが答え? でしょうね。タカなら、そういうと思っていた」
「慌てて結論を出すのは止めよう。君が納得いくまで仕事がしたいなら、そうするべきやと思う。お互いのことはもっと後でもいいんやし」
高遠はそういうと、柔らかな笑みを美紀に返した。
彼から顔をそむけ、美紀はカウンターの組んだ手に力を籠めた。薄いピンクののマニキュアの指先が白くなるのを見て、ふっと力を抜き、指を一本ずつ離した。
「そうね。先のことは分からないし」
美紀は自分の左手を広げて、感情線を手首までなぞりながら、
「やれるだけ、やってみる」
と、平坦な声を出した。その広げた手を高遠が握ってきた。
「美紀なら頑張れるよ」
高遠の口角を上げただけの微かな笑みが向けられる。
美紀は握ってきた彼の大きな手の甲を、一方の手でゆっくり撫でた。この手はいつも暖かくて優しい。離すのは怖い。美紀は唇を噛んだ。高遠は欲しいものはいつも与え、我儘さえ許してくれる。思慮深く、思いやりに溢れた穏やかな恋人。精神的にも、肉体的にも満たされているはずだ。頑張れと送り出すつもりの彼に、違う言葉を期待していた。引き止められても、転勤に応ずる決心をすでに固めているくせに。
美紀は苛立ちを覚え、声を尖らせた。
「今夜は帰るわ。明日朝一で会議だから」
「分かった」
美紀の手は途端に温もりを失った。
高遠は美紀が乗り込む電車の改札で、「じゃあ」と言って踵を返した彼女の背を見送った。プロポーションの良い細身の体。すらりと伸びた足。高いヒールのパンプスがコツコツと靴音を立てる。
いい女だ――と、高遠は満足して見つめる。体の奥深いところでは、美紀をベッドの上に組み伏せたい衝動が沸き起こってくる。でも、彼女を冷静に見送れる冷ややかな自分がいた。
本当に離れてもいいのか? 別れることになるかもしれない。高遠の口元がきゅっと締まる。だが、呼び止める言葉はついぞ口をついて出てこなかった。彼は一つ溜息を零すと、振り向かずに駅を出た。
まだ春の夜風は冷たい。高遠は肩をすぼめ、ブリーフケースを脇に挟むと、両手をズボンのポケットに突っ込む。そして街の明かりに、星の見えない夜空を見上げた。
俺は見たいのかも知れない。美紀が俺を必要として泣き叫ぶ姿を。あの時、恋人に捨てられて嘆き悲しんでいたように、必死に求めて欲しいのかもしれない。
高遠は髪を乱すように、指を立てて掻き揚げた。
「臆病もんやな、全く!」
タクシーの屋根の灯がずらりと列を作る、三宮のJR駅前の通りを、苦笑しながら足早に渡る。まだネオンが煌々と灯る繁華街を通り、地下の阪神電車のホームへと続く階段を駆け下りた。
*
阪神香枦園駅は、川幅五メーターほどの夙川に渡された高架駅だ。ちょっと洒落た駅名の「香櫨園」は地名ではない。明治四十年にこの地域に開業した香櫨園遊園地が名前の由来となっている。大きな観覧車で名を馳せた遊園地は六年ほどで閉園となったが、印象深い名前だけがこの駅に残ったのだ。
普通電車しか停まらない小さな駅は、阪神淡路大震災の後に改装されたが、淡い茶色の駅舎は開通時のレトロな雰囲気を受け継いで、格子の窓に三角屋根を持つ一風変わった景観をしている。
同じく震災後に、護岸工事を施された夙川も、段差のあるコンクリートの川底をすべるように流れている。
六甲山系から細々と続く都会の川は、言うに及ばず長い間淀んでいた。少ない水量に、生活排水の不快な臭いのする緑色の川だ。そこには赤耳ガメがうようよいて、高遠も子供の頃は、どこの川にも亀がいっぱいいるものだと思っていた。勿論魚が泳いでいるような澄んだ川ではなかった。
ところが、阪神大震災で土手の古い石垣は至る所で崩れた。そのため補修工事が施され、人工的な美しい川に生まれ変わったのだ。コンクリートに固められた土手の上は、遊歩道になり、地震で倒れなかった松や桜が道を覆っている。芦屋市と隣接する香櫨園は西宮市の中でも、あの震災の被害が大きかった地域だ。潰れた家も多く、道路も寸断されひび割れていた。もうあの悪夢の日から、十七年も経っている。勿論街は完全に復興しているが。
高遠は改札を抜けると、いつものようにゆっくりと階段を上った。ホームの明るさが足元に届いてくると、頭の中に足の悪い女性のことが過ぎる。また同じ場所に並んでいるのだろうか……。足を止めることなくホームを何気なく見渡す。が、彼女の姿はなかった。高遠は内心ほっとした。少なくとも昨日、彼女に言った言葉は非難されても仕方ない。悪気はなくても、あんな傲慢な言い方をしたことを後悔していた。だから余計に顔を合わせ、バツの悪い思いはしたくなかった。
――「お待たせいたしました。到着の電車は須磨浦公園行き普通でございます。危険ですので白線まで下がってお待ちください」
アナウンスが終わると、まもなく電車がブレーキを軋ませ滑り込んできた。高遠は押し黙ったまま、いつものように順序良く乗り込む。
車両は静かに動き始めた。彼は締まったドアに肩をつけ、窓から降りた人が歩いてゆくホームを眺めた。
そして丁度一番先頭車両の停まる位置に来たとき、思わず声を出した。
「くそっ……」
走り行く電車を、ホームで一人ぽつんと彼女が見ていた。つまり、この電車に乗れなかったのだ。
アイボリーのジャケットにジーンズ姿の彼女が、高遠の立っているドアを見た。大きな瞳はぼんやりと走り去る電車を映して、溜息が聞こえてきそうなしょんぼりした顔をしている。
高遠は過ぎてゆくホームに向かって、舌打ちした。自分のせいではないと思っても、後味の悪い思いが残る。周りにいた誰も手を貸さなかったのかと思うと、妙に腹が立った。「すみません」と頬を染めている女性に、手を貸すことなど簡単なことだ。相手は障害があるのだから。だが、誰だって朝から面倒なことに関わりたくない。駅員でもないのに。出社すればそれ以上に厄介で面倒なことは、多かれ少なかれ待っているものだ。だから誰も、通勤時間は自分のリズムを守りたい。彼は具にもつかない言い訳を巡らせては、溜息を漏らした。
打出駅でドアが開くまで、高遠は浮かない顔で窓を見ていた。
お読みいただき有難うございました。
あくまで恋愛ものですが、阪神大震災は過去として場面が登場します。随分たちますが、被災した経験を元にしています。
東北大震災につきましては、私の未熟な筆では到底書けそうにありませんので、触れるべきではないと思っております。