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接近

「ちょっと早めに歩くよ」

 そう言って、早足で桐生先生が歩く。

 早足といっても、相変わらず人を上手に交わしながらスイスイと歩く。私の肩を抱くようにして誘導してくれるので、はぐれることも他の人にぶつかることも無くって、歩きやすい。

 本当に、水が流れるように歩く人だわ。その流れに乗った、笹舟になった気分。

 雄二さんのあの表情から逃れるように、無意識に関係の無いことを考えてしまう。


「帰れない、んだよね」

 駅に着いたところで、桐生先生が確認してきた。

 あの顔を見たら……より一層、『帰れない』という思いが強くなる。

 それどころか

「怖い。一人になるのが」

 ホラー映画のようにこっそりと背後に立って居そうで、さっきから振り返ることもできない。

「OK。じゃぁ……」

 と、私の部屋とは反対方向の駅まで切符を買うように言われた。

「とりあえず、俺の部屋に避難」

 そう言って桐生先生は、パスケースをかばんから取り出した。



 普段使うことのない駅で、降りて。駅前のコンビニへ。

「入り口で見張っておくから。必要だと思うもの買ってきて」

「晩御飯、とか?」

「ああ、それも頼める? あと……一晩逃げるつもりで」

 ってことは、泊まる覚悟。


 お弁当を二人分、それに少しおにぎりを買い足す。明日の朝食用に菓子パンと”桐”のチーズも。

 後は、泊まるのに必要な雑多なものを細々と。

「お待たせ」

「重そうなほう、貸して」 

 差し出された手に、お弁当の入った袋を渡す。”細々”は、かばんの中へ。



 そうして、再び肩を抱かれるように誘導されて。

 

 たどり着いた桐生先生の部屋。

「どうぞ。散らかってるけど」

 そう言って、私を先に部屋に上げて。桐生先生は、ドアの外をもう一度ぐるっと見渡してから部屋に入ってきた。

 ドアロックと、チェーンがかかる。  



 とりあえず腹ごしらえ、と、お弁当を出す。

「いっぱい買ったな」

「桐生先生、いっぱい食べるかなって」

「ああ。まあ、食べるけど」

 苦笑をしながら、こっちは明日の朝か、と言って菓子パンの袋を覗く桐生先生。

「あ、チーズ」

 ガサゴソと袋に手を突っ込んで、取り出したパッケージを見た切れ長の目が細くなる。

 何か言いたそうに私の顔を見た後、袋に戻して。

「食べようか。話はその後で」



 当たり障りのない、世間話。互いの家族のこととか、学生時代の思い出話とか。

「へぇ。本間先生って、お姉ちゃんなんだ」

「そんなに意外?」

「うーん。一人っ子かなって、思ってた」

「妹と、十歳離れているから、ほとんど一人っ子みたいなもんだけど」

「じゃぁ、妹さん、中学生?」

「うん。検査の大森さんのところと同い年みたい」

 そんな会話を交わしながら、夕食を済ませて。

 軽くゴミを片付けている間に、桐生先生が紅茶を淹れてくれた。


「さて。話してもらっていい?」

 軽く、指を組むようにしてテーブルに肘をつく桐生先生。

 差し向かいでご飯を食べていたときより、少し距離が近くなって、四角いローテーブルの左隣の辺に胡坐をかいて座っている。


 気付いたら、イジイジと左の親指で薬指、中指、もう一度薬指、そして小指と爪を撫でていた。

 昔、父に言われた”言い訳を考えているとき”のクセが出ていた。

 指を止めて。

 深呼吸をして口を開く。

「破談、にするかしないかで揉めているの」

「破談って……彼氏じゃなくって婚約者だったんだ」

 ひとつうなずくと、隣から深い吐息が聞こえた。

 しばらく、目を閉じている桐生先生の顔を眺めてから、テーブルに視線を落として話を続ける。

「ここ、二ヶ月ほど。休日の夜、電話料金が安くなる時間くらいから日付が変わるまで延々電話がかかってて」

「ちょ。それって、四時間くらい?」

「そう」

「その間、ずっと相手してるの?」

「切っても切っても、何度でもかけ直してくるの」

 思い出しただけで頭の痛くなる、大学ノートに溜まった時刻と通話内容の記録。

 ノートは二冊目が終わろうとしているし。

「なるほど、それでか」

 ポソっと漏れたつぶやきに桐生先生の顔を見ると、目をじっと見返された。

「本間先生のね、眼に最近、力がないんだよ」

 と、言いながら彼の指が目元に寄せられる。

 大きな手の温もりに、ふっと目を閉じる。

「疲れてたんだな」

 うん、と声を出さずにうなずく。

 掌が頭の後ろに回されて、額に硬いものが当たった。そっと目を開くと桐生先生の着ていたストライプのシャツが目に入った。


「ね。この前、俺が送っていったせいで怒った彼氏さんが『破談に』って言ってる?」

「ううん。私のほうが破談にしたいの。彼は大阪に一緒に暮らしている人もいるのに、破談にするのは嫌だって」

「現地妻?」

「みたいなものかな」

「本間先生、会ったの? その人に」

「うん。きちんと話をしようと思って、大阪に行ったら部屋にいた」

 頭をゆるく撫でながら、しばらく黙っている桐生先生。

 顔を上げようと思ったら、それを妨げるように手に力が入って、額を彼の肩に押さえつけられた。

「ちょっと、整理していい? 本間先生が先に別れようとして、彼に女性がいることに気付いた。この順番でいい?」

 うん、とうなずく。

「何で別れようと思ったのか、訊いていい?」

 そこは訊かないで。まだ、言えない。

 嫌、と頭の動きで伝える。

 きちんと、雄二さんとけじめをつけて。まっさらな状態で、この恋に向かい合いたい。


「うーん、じゃぁ……」

 手の力が緩んだのを感じて、頭を上げた。

 それを待っていたように、大きな両手で顔を挟み込まれた。

「質問を変えるよ。あの、チーズ。どうして今日買ったの?」

「それは……」

 あの雄二さんの顔を見たら、今夜を乗り切る力が欲しくって。いつものように買ってしまった”桐”のチーズ。この二ヶ月、私の心の支えになっていた桐生先生の分身。

 目を逸らそうとするのに、がっちりと切れ長の目に囚われる。

「俺の目を見て。本間先生の、その眼で」

 催眠術にかけられたように、視線が固定された。

「あれは、”俺”だよね? 本間先生?」

 どうして? どうして判ってしまったの?


 気付いたときには、肯定のジェスチャーを返していた。



 ふっと、目の力が緩められて体が自由になった気がした。

 のは、一瞬。

 顔を挟んでいた両手が背中に回って抱き寄せられ、完全に体の自由を奪われていた。

「き、りゅ、せんせ?」

「本間先生、彼氏さんとの話。ケリが付いたら……」

 そこで言葉が切れて。

 グッと腕に力がこめられる。


「だめだ。それまで待てない」


 耳元で、いつもより低い桐生先生の声が

「あんな男に。あんな顔で、こんなに怖がらせるような奴に二度と会わせたくない」

 そう囁く。

「このまま、俺のモノにしたい」

 吐息のように漏れる言葉に、全身が痺れた。


「して。桐生先生のモノに……」


 ゆっくりと腕の力が抜かれて、互いの顔が見える。

 桐生先生の目を見つめる。


「この眼が。ずっと欲しかった」

「目、だけ?」 

「いいや。全部。沙織のすべて」 

 欲しい、と咽喉声で囁いて彼の顔が近づく。

「きりゅ」

 呼ぼうとした名前を、唇で止められた。

「達也」

「?」

「達也って」

「た、つや、さん」

「うん。沙織」



 心の奥底が欲した人と交わした”情”は

 六十兆個の細胞すべてに染み渡った。



 けれども、心の隅でわかっていた。

 まだ、何も終わっていない。

 まだ、何も始められない。



 だから


 意識が途絶える瞬間に願ったことは。



 このまま、



 息も


 絶  え  て  欲  し  い 

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