暗雲
叔父のアドバイスに従って、電話の会話や着信を記録して。
実家からの電話は、ワンコール鳴らして一旦切ってから改めて……と、一手間かけてもらう様になった。
二週間に一度くらいの割合で、澤田氏と雄二さん、父、私で話し合いの場を設けた。
話し合いは、ずっと平行線。
そして、徐々に電話の頻度が上がった。
神経が焼き切れそう。
十一月の中旬、その週末の日曜も話し合いのために実家へ戻っていた。
玄関を入ったところで顔を合わせた美紗の表情に。
我が妹ながら
ぞっとした。
「お母さん」
いつだったかと同じように、昼食の支度を母と並んでしながら、ひっそりと声をかける。
「どうしたの? 変な声で」
「美紗、だけど」
手を止めて、母の横顔を観る。
天井を向いて、一文字に口を結んで。
下を向いて、唇を噛む。
そんな一連の動きの後で、母がやっと口を開いた。
「気が付いちゃった?」
「うん。おかしい、よね」
「中学校でね……」
仲間はずれに遭っていたらしい。
「いつから?」
「体育祭の少し前みたい」
九月の終わりころ?
母が気づいたのが十日ほど前。一ヶ月以上、一人で抱え込んでいた美紗。
異常に気づいた母が尋ねても、『何もない』の典型的な返事で。知り合いの同級生のお母さんに訊いて、やっとわかったとか。
「先生は?」
「気づいていなかったみたい」
「そっか」
いつ頃からか、美紗は家族の誰とも目を合せず、口数も減っていた。そして異様な”表情”をしていた。
今日の美紗は、私と目が合うと、『おかえり』と張りのない声で言ってすっと目を伏せた。なのに、その口元にはかすかな微笑を浮かべていた。
多分、授業中しか見ていない先生には、わからない。反抗期のイライラした表情が並んでいるだろう教室では、比較的穏やかに凪いだように見えるだろう顔。
けれど、あの微笑みは……人形の顔に浮かんでいるような、心の感じられない硬質な微笑みだった。コロコロと、ゴム毬が弾むように笑い転げていた、春の美紗とは大きく違っていた。
何で、美紗はそんなに……。
何が、美紗をそうさせた?
体育祭、九月。九月? 九月!
「お母さん!」
「何、びっくりするじゃない」
「私、私」
「はい、落ち着く」
背中をぽんぽんと軽く叩く母の手。
「私の、このゴタゴタのせい? 美紗がおかしくなったの、私のせいよね?」
「沙織のせいじゃないわ。お母さんが美紗をちゃんと見てなかったの」
「でも」
「あのね。目が合わない美紗を、『反抗期だろう』くらいに見ていたお母さんのせいなの。美紗に落ち度がないのと同じくらい、沙織も悪くないの」
本当に?
「でもね、沙織が美紗に悪いと思うなら」
母は私の肩に両手を置いて、目を覗き込んできた。母の瞳に、情けない顔の私が映る。
ああ、子供のころ。泣きそうになって、なだめてもらっていた時にも見たっけ。
「幸せになりなさい。美紗に、誇れるくらい」
無くしてしまった美紗の表情は、こんな立派な華の栄養になったのよと。
相変わらずの平行線で終わった話し合いの翌週。土曜日から一泊二日で病院で慰安旅行があった。
全員が参加するわけにはいかないので、土曜日の勤務を各部署で調整しながら、三回に分けての旅行だった。
同じ日だった桐生先生とは往復のバスの座席が遠くって、休憩のサービスエリアとか旅館の廊下でちょこっと話した程度だったけど。
普段話す機会のない、調理師さんとか付属保育所の先生とかと宴会をして、パジャマトークをして。
電話のかかってこない、休日を満喫した。
週があけての、月曜日。
その日は終業後に新薬の勉強会があって、一時間ほど会議室でメーカーさんの話を聞いていた。説明を聞いて乗り気になっているドクターに捕まった薬局長より一足先に、先輩たちと会議室をでる。
「桐生先生 どうしたの?」
堀田さんが尋ねるのも無理はない。着替えないままの、桐生先生が戸口の横に居た。
「お疲れ様です。終わりましたか?」
そう言って、にっこり笑った桐生先生に
「本間先生、ちょっと」
おいで、おいでと、手招きされて廊下の片隅に連れて行かれる。
「彼氏さんらしき人が、待合室に居るんだけど」
小声で囁かれた言葉に、動揺した。
月曜日なのに。仕事は?
何よりも、今夜どうしたらいいの? 逃げる場所がない。
家に逃げ込めても、明日の朝になったら出勤のために出てこないといけない。
どうしよう、どうしよう。
帰れない。今夜は、帰れない。
でも、どこに行けば……。
「……ませんせい、本間先生」
つかまれた腕が強くゆすられて、われに返った。
「大丈夫?」
大丈夫くない。
「帰れない、ってなに?」
言えない。桐生先生にだけは言っちゃいけない。
巻き込んでしまう。
でも、言ってしまって楽になりたい。
「何してるの? こんなところで」
会議室から、薬局長が出てきた。
いつの間にか、先輩たちは薬局に戻っちゃってるし。
「ちょっと……」
と、桐生先生が言葉を濁して笑う。
そう? って薬局長は資料のほかに、なにやら書類を抱えて立ち去る。
「本間先生?」
「はい」
「ちゃんと、話して。でないと、彼氏さんに殺されてるんじゃないかって心配」
真剣な顔で覗き込まれた。
「殺人でもしそうな思い詰めた顔で、会議室を睨んでたんだよ。彼氏さん」
「桐生先生は、顔を合わせたの?」
「真っ向からは会ってないよ。こう、リハビリ室の窓から待合室と会議室が見えるでしょ?」
左手を”コ”の字型にして、右の人差し指でたどりながら説明する桐生先生。リハビリ室と会議室が裏庭をはさんで向かい合っている間をつなぐように待合室の大きな窓がある。
「戸締りをしてたら、待合室の窓のところに彼氏さんらしい人が立っているのが見えて。『何見てるのかな?』って視線をたどったら、会議室のカーテンが開いていて中が丸見えだったんだよ。窓越しでも十分変な雰囲気を醸し出してたから、そーっと横を通り抜けて知らせに来たんだけど」
さすが、合気道使い。あの体捌きですり抜けたんだ。
あ、でも
「桐生先生、ロッカー」
「は?」
「リハビリって、更衣室は?」
薬局みたいに、くっついてるなら、また待合室を通ってリハビリ室に戻らないといけないんじゃ?
「ん? 地下倉庫の横だけど? 男子更衣室」
あ、良かった。
「俺もあの時、一回逢っただけだから、本当に彼氏さんか確信がないけど」
確認する? って言われて。
どこか、こっそり待合室が見えるところ。薬局の中だったら……薬品用の大型冷蔵庫の陰から、こっそり見えるかな?
「見つからないようにね」
裏口から一緒に薬局に戻って、冷蔵庫の陰から覗く。
うわっ。
声が出そうになって、手で口を塞ぐ。
薬局カウンターの真正面。一番前の座席に、人相の変わった雄二さんがいた。
すっと桐生先生が待合室からの視界を遮るように立つ。
指差しで、調剤室の奥へ行くよう促される。
「あたり?」
必死で頷く。
怖い。
本当に殺されるか、監禁されるか。会ったらただで済まなさそう。
桐生先生の危惧もあながち考えすぎじゃない。そんな、恐怖に駆られる。
「あれ? どうしたの?」
酒井さんの声に、桐生先生がシーって指を立てる。
着替え終わった先輩たちがロッカーから出てきていた。
「ちょっと雰囲気のおかしい人が待合室に居て」
ヒソヒソと、桐生先生が説明するけど。
ちょっとじゃない、ちょっとじゃ。
書類棚の前で桐生先生の話しを聞いていた薬局長が
「ああ。じゃぁ」
と、内線電話を操作する。
〔もしもし、薬局です。お疲れ様です。待合室がまだ電気がついているみたいで〕
〔はい。薬局は処方、残ってないですし〕
もう二言三言、話をして受話器が置かれた。
「これで、とりあえず待合室からは退場」
森本さんの説明によると、照明を落とす時点で待ち合いに居る人は、お見舞いなら病棟へ、時間外診療なら外来の中の待ち合いへと、誘導がされるらしい。
待合室で話し声がする。
ノックの音がして、当直の事務員さんが入ってきた。あ、今日は事務課長が当番なんだ。
「お疲れさん」
「お疲れ様です」
先輩たちの声に隠れるように、頭を下げる。
事務課長が、トコトコと私の前にやってきた。
「待合室に居る人がね、本間さんの知り合いみたいなことを言ってるんだけど?」
その言葉に、思いっきり首を横に振る。
「帰ってもらったほうがいい感じ?」
必死でうなずく。
帰ってくれるものなら。
「お願い、できますか?」
「はいよ。じゃぁ、本間さんはすでに帰ったってことで。あぁ、桐生君」
「はい」
「もう上がり、だよね。本間さん、送ってあげれる? 一人にするのはマズイ感じの人なんだよね」
「わかりました。とりあえず着替えてきます」
「うん、よろしく」
事務課長とそんな会話を交わして、桐生先生が裏口から出て行く。
「で、薬局長。桐生君が戻るまで……」
「私はもう少し残業するつもりでしたし。最後に出ます。そうですね、三十分ほど後に」
「だったら一応、カウンターと待合室に出るドアは内鍵をかけておいてください。今すぐにね」
そんな打ち合わせが行われて、先輩たちは裏口へ、私はロッカーへと向かった。桐生先生を待つ間に私も着替える。
「すみません、薬局長」
「もともと、さっきの新薬がらみで書類を作らないといけないから、気にしないで」
着替えている私の横で、パソコンに向かいながら薬局長がなんでもないことのように言う。
本当にこの部屋は、ロッカーなんだか倉庫なんだか事務室なんだか。
「事務課長が当直の日で良かったわね」
手を動かしながら、薬局長が話しかけてきた。
「あの人、この病院のトラブルシューターだから」
「トラブル……?」
「揉め事を収めるのが、異常に上手いの」
初老で穏やかそうな事務課長。揉め事とは縁の無さそうな人なのに、見かけによらない。
コ、コンッ
ノックの音に、ビクッとしてしまった。
「桐生です。お待たせ」
その声に、背中から力が抜ける。
「もう、着替え終わったわね?」
薬局長が確認してから、ドアを細く開ける。
「本間先生、出れる?」
「はい」
「タイムカードは押しておいたから。まっすぐ職員出口へ行くよ」
「桐生先生、本間さんをお願いね」
「山崎先生も気をつけて帰ってくださいね」
「ありがとう。じゃ、本間さんお疲れ様」
「お疲れ様でした。お先に失礼します」
裏口から出て、職員出口へ。
そっと、あたりを窺ってから、桐生先生が手招きをする。
それに従って、ドアを出る。
そして二人で、病院を後にした。