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 翌日の朝一番で、鍵を付け替えて。

 ほっとしたのも束の間。


 その夜も、雄二さんから電話がかかってきた。

 別れない、別れない、別れない。と同じことを繰り返す。

 切っても、切ってもかかってきて。日付が変わるころにやっと静かになった。



「本間先生、また、風邪ひいた?」

 医事課にカルテを持ってきた桐生先生にそんなことを言われたのが十月の上旬の月曜日だった。

 あれから週末ごとの夜、雄二さんから電話がかかってくる。

 壊れたレコードのように、何度も同じことを繰り返す。

 いい加減、嫌になった昨日は電話に出なかった。あれほど、電話のベルが神経に障るものとは思わなかった。マンガのように座布団でくるんで、耳をふさいで。

 やっと切れた、と思うと、十五分とか二十分後にまたかかってくる。この日も日付が変わって、やっと静かになった。

「ううん。ただの寝不足」

「夜更かしは、お肌に悪いよー」

 そういって、笑いながら待合室を抜けていく桐生先生。

 夜更かし、したくないよ。

 目が乾燥して、コロコロする。今週末もまた……だったら、倒れるかもしれない。

 実家に連絡して、話し合いの場を作ってもらおう。



 水曜日の夜、雄二さんに電話をかけた。出たのは、あのお姉さんらしき女性。

「ああ、こないだの子やね。大丈夫? えらい電話攻撃かけてるみたいやけど」

「ご存知でしたか」

「そら、後ろで全部聞いとるし」

「平気なんですか?」

「ええ加減、諦めたらええのにとは思ってるけどな」

 はよ諦めて、ウチのことみてくれへんかなー。

 そう言いながら笑う気配がする。

「で、どないしたん? ほっとっても電話、かかるやん」

「きちんと、話をつけようと思いまして」

「まだ、帰ってへんよ。今日は、九時すぎるって」

「わかりました。だったら、そのころにかけ直します」


 電話をかける。それだけのことに気合が必要だった分、肩透かしを食らって心の芯がポキっと折れてしまいそう。

 あれ以来、何度も買い足して冷蔵庫に常備してある”桐”のチーズを出してきて齧る。


 桐生先生。

 もう一度、電話をする力を貸してください。



 かけ直した電話で、雄二さんは話し合いには応じてくれたものの、”私の実家で”という条件に難色を示した。自分ひとりに対して、私の両親と私では不公平だというので、雄二さんの両親も同席してもらうことになった。

「そういや、週末はどこへ行ってたんだ? あの医者のところにでもしけこんでたか?」

「そんな関係じゃありません。大体、桐生先生はドクターじゃないです」

 桐生先生を医師だと思い込んいる雄二さんの誤解を解くことで、彼の妙なこだわりがとけないかと訂正をしてみる。

「だったら。何で、あいつだったんだよ。学歴も収入も、俺よりいいわけじゃないんだろ?」

 何で、なんて。

 私にもわからない。

 ただ、本能としかいえないような深いところで心が動いてしまった。

「なあ。俺から離れるなよ。そばにいてくれよ」

「そばには”さちえさん”が居るじゃないですか」

 『こっちを見て欲しい』って言ってくれる人が居るじゃないですか。


 だから、もう

 私の手を離してください。



 土曜日の勤務を酒井さんに代わってもらって、朝一番で実家に戻る。雄二さん一家との約束の時間は、お昼過ぎ。

 土曜日で授業のある美紗が帰ってきたら、すぐに食事にできるように母と昼食の支度をしていた。


「そのー」

 かぼちゃを切ろうと包丁に体重をかけながら、言葉を選ぶように母が口を開く。

「何?」

「あなたが好きになったって相手とは、どうなってるの?」

 どうにもなっていない。

 お米を研ぎながら、うなだれる。

「まだ、仲のいい同僚」

「雄二さんとのお話を断って、その人とも上手くいかなかったら。あなた後悔しない?」

 そう、なんだよね。

 『彼女はいない』って、歓迎会のときに桐生先生、言っていたけど。

 ”魔が差した”にしても。なんとも思っていない相手に、しかも彼女持ちの状態でキスするような人とは思えないけど。

 すべては私の希望的観測。

 玉砕、になる可能性もある。 

 でも

「後悔しない」

 お鍋に水を入れる母に、手近にあった蓋を渡す。

「これっきり結婚できなくっても?」

「うん。手に職は持っている。一人でも生きていける」

 雄二さんに『仕事をさせたのが間違い』といわれても。

 学資を出してもらって手に入れた資格が、両親から貰ったの最大の財産。

「寂しいかもしれないわよ?」

 そう言って、私のほうをじっと見る母の目を、同じように見返す。母の瞳の中に、小さいころから『お母さんによく似ている』と言われてきた私の目が映る。

 しばらく、見詰め合って。

「覚悟のうえ、ね」

「うん。ごめんね。お母さんの孫、生むことはないかもしれないけど。でも。このまま、桐生先生を諦めることはできないの」 

 そう答えると、母は鰹節を削ろうとしていた手を止めて、私の頭をなでた。そして、うなじにかかった手が母の肩口へと私の頭を導く。

 子供のころ、同じように抱き寄せられたとき。目の前にあったのは母のおなかだったのに。

 私、大きくなってしまったんだ。母と背が変わらないほど。

「孫の心配はしなくっていいの。あなたが幸せになれる道を選びなさい」

 耳元でやわらかく言った母は、軽く私の背中を叩くと、再び鰹節を手にした。



「お姉ちゃん、お帰り」

 学校から帰ってきた美紗は、私の顔を見るとそう言って、すっと目を逸らした。

 あー。みっともないこと、知られてしまったかな

 婚約者がいるのに、他の人を好きになるなんて。思春期真っ只中のこの子には『フケツ!』って言われても仕方ないかも。

 そのまま、美紗は私に背を向けると、二階へ上がってしまった。


 お正月以来になる家族四人での昼食は、お通夜の席のようだった。

 美紗は、ひとことも話さず食事を終えると、部屋に篭ってしまった。



 約束の時間を少し過ぎて、雄二さんとご両親。それから結婚していると聞いていたお姉さんが訪れた。

 座敷に通して、母がお茶を淹れる。

 互いの両親が自己紹介をして。


「婚約を破棄したい、と伺いましたが」

 口火を切ったのは、父親の澤田氏だった。

「申し訳ありません。沙織にはまだ早すぎたようです。深く考えもせずに、結婚のお約束をして」

 父が言って頭を下げる。母と私もそれに倣う。

「早すぎたとはいえ、約束は約束でしょ? どう、責任をとるつもりです?」

「どう、させていただけば、お許しいただけますか?」

 雄二さんの母親の澤田夫人の言葉に、父が問いかけると

「そりゃ、”誠意”よね。母様」

 姉の里美さんが口を挟んだ。

「姉様、許すも何も。俺は、破談になんかしないから」

「あら、他の男に色目を使った子を許すつもり?」

「ちょっと寂しかっただけだよね? 沙織?」

「もう、雄ちゃんたら。優しいんだから」

 雄ちゃん?

 聞きなれない呼び名に、マジマジと正面の姉弟を眺める。

「何? 沙織さん。その目は。文句を言える立場だと思っているわけ?」

 里美さんの責めるような言葉に、彼女の胸に頭を抱かれた雄二さんの口元が嗤った。


 目が、目が、目が。

 そんなに、この目が嫌いか。


 心を守るバリアーを防衛本能が張るように

 脳裏に穏やかな声が聞こえた気がした。

 『本間先生の目、俺は大好きだよ』


 桐生先生……。


「そちらも、女の方と一緒に暮らしておられると聞いてますが」

 母が、座敷テーブルの上で指を組んだり解いたりしながら言う。

「すぐにでも結婚して、沙織が大阪に来てくれるなら別れますよ。沙織が来てくれないから、関係を持った女ですし」

「息子は、こうまで言ってます。このお話、続けられませんか」 

 澤田氏はそう言うけど。

 『こうまで』じゃないと思うんだけど。

 雄二さんこそ先に浮気、してたんじゃないの?

「申し訳ありません。私自身の心が雄二さんに向かなくなってしまっています。このお話、なかったことにさせてください」

 改めて、額を床につける。

「おかしいだろ!! 俺が振られるなんて! そんなこと、許されないし、許すもんか!」 

 子供がダダをこねるようにわめき散らす、雄二さんの声が座敷に響く。


 許す? 許される? 

 許しを与えるのは、いったい誰?


 近づきすぎて、ぼやけた畳の目を見ながら聞いた雄二さんの言葉は、また私の理解を超えていた。

「こんなに勉強も仕事もがんばってきたのに、婚約を破棄されるなんて割に合わない。沙織に俺を振る権利なんかないんだ。そんなもの、誰が沙織なんかに与えるもんか」

 唖然として、顔を上げてしまった。

 目が合う。珍しいことに、私と目を合わせることを厭わず

「俺、言ったよな? 沙織に”必要なもの”は、すべて俺が選んで与えてやるって。俺を振る権利は、お前には、必要ないんだよ」

 彼はそう言って壊れたように嗤った。



「そうよね。澤田のおうちにつりあってもない子が、何を勘違いしているのかしら」

 そういえば……良いとこの息子って誰かが言ってたっけ。

 澤田夫人の言葉に、学生時代の噂話がよぎる。

「ホント。こんな”ちんちくりん”の相手を雄ちゃんがしているだけでも有難いって、わかってないのかしら」

 悪かったわね。チビで。雄二さんも決して大きなほうじゃないけどね。

 里美さんに、内心で舌を出しながら、桐生先生と並んだときの雄二さんの姿を思い浮かべる。


 母娘が互いの言葉にあおられるように、私に対する悪口雑言を並べ立てる姿に、とうとう父が堪忍袋の緒を切った。

「いい加減にしていただこうか。人の家の娘をなんだと思っている。こんなお宅に、大事な娘を嫁がせるわけにはいきませんな」

「じゃぁ、誠意を見せてもらわないと」 

 調子に乗ったような里美さんの言葉を父が一刀両断する。

「さっきから、誠意、誠意と、はしたないお嬢さんだ。お里が知れますな。そもそも、嫁に行った娘が指し出口をはさんでくることからして、我々を馬鹿にしている」

 そして、

「澤田さん。こちらとしては、法律的な対処も辞さない覚悟で、この話、なかったことにさせていただく」

 父が、本気の低い声を出した。



 澤田さん一家が帰って、母と座敷を片付けて。

 二人で台所で気が抜けた風船みたいになっていた。

「沙織」

「うん?」

「あなたが、怖いって言ってたの、解った気がするわ」

「そう?」

 あー。今日もまた帰ったら電話がかかってくるのかな

 もう、今日は相手してられないや

「ねぇ、お母さん」

「なあに?」

「今日、泊まっていっていい?」

「疲れたもんね」

「うん」

「いいわよ。ゆっくりしていきなさい」

「ありがとう」


「沙織」

 台所に入ってきた父の声にピッと背中が伸びる。

「はい」

「あいつから、電話がかかるって言っていたな」

「はい」

「毎回かかってきた時間と、内容を記録しておきなさい」

 父は、さっきまで叔父と連絡を取っていたらしい。法律の仕事をしている叔父は子供が居ないこともあって私たち姉妹をとてもかわいがってくれている。その叔父からのアドバイス。

 メモ帳……だったらすぐに一杯になるか。帰りに大学ノートみたいなのを買って帰ろう。

「ごめんね。お父さん。叔父さんにも迷惑をかけて」

「本当にな。若かったとはいえ、あんなのにひっかかるとはな」

 これも授業料。

 そう言いながら、父は冷蔵庫からビールを取り出した。

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