決意
あの夜。
桐生先生は、布団に戻った私の目を掌で覆うと
「彼氏さんはあんなことを言ってたけど。本間先生の眼、俺は大好きだよ。だから。自制が効かなくなるから。今日は閉じておいて」
と、耳元で言った。
「さっきのことは、熱の見せたマボロシだから、忘れて」
とも。
目を塞がれた暗さに睡魔が忍び寄る。夕方に飲んだ感冒剤の効果もあって。
そのまま、朝まで私は眠った。
翌日起きると、一人だった。
咽喉もマシになったし、ふらふらもしない。
テーブルの上に、破った手帳の切れ端とコンビニの袋に入った菓子パンが置いてあった。
【おはよう。食べれそうだったら、朝ごはんにどうぞ。鍵はドアポストから落としておきます。月曜日には元気な顔を】
書き置きは、kiriのチーズで押さえてあった。
kiri = 桐、か。何の駄洒落だ。
クスクス笑って。
涙がこぼれた。
心が。
もう、雄二さんには戻れないことに気づいてしまった。
日曜日は一日おとなしく寝ておいて。月曜日には、再び仕事。体調も戻った。
「本間さん、だいじょうぶ?」
ロッカーで顔を会わせた薬局長に尋ねられた。
「はい。ご心配をおかけしました」
「目に、力が戻っているし……うん。大丈夫そうね。じゃぁ、今週もしっかり働きましょ」
そう言って薬局長は私の背中を叩いて、ロッカーから出て行った。
桐生先生とは、あれから何もなかったように院内で顔を合わせたら挨拶をして、馬鹿話をして。
あの日のキスは、熱が見せた夢?
冷蔵庫に残る”桐”のチーズを齧りながら、自分の心を覗く。毎晩。
二週間。自問自答した。
そして、実家に電話をかけた。
雄二さんとの婚約を破棄したいと。
電話に出た母はため息をついて
〔そう。やっぱり〕
と言った。やっぱり?
〔早すぎると思ったの。お父さんもお母さんも。だから、結納はまだって止めてたのに、あなた指輪を貰ってしまうし……〕
指輪を貰ってなかったら、口約束ってことでただの別れ話で済んだのに。って、母のボヤキが続く。
しまった。そういうことか。
指輪が、一気に手かせに思えてきた。
〔で、一体何があったの?〕
たずねる母の声に、春から感じていた彼の冷たい感じを説明しようとして。
それは、卑怯なんじゃない? と思ってしまった。
〔沙織?〕
〔他に、好きな人ができました。このままの気持ちでは、雄二さんと結婚できない〕
〔あなたは、もう!〕
悲鳴のような母の声。
〔どうして、よりによって!〕
ごめんなさい。お母さん。
床を見つめて、母の次の言葉を待つ。
電話の向こうでのやり取りがボソボソと漏れて聞こえてくる。
〔もしもし〕
父のいつもより低い声がした。
〔端的に聞くぞ。その相手との関係は?〕
〔職場の同僚〕
〔そんなことを聞いてるんじゃない。”関係”を持ったのか?〕
うっわー。本当に端的だ。
〔まだ、ただの同僚です〕
ほっと息をついたのが聞こえた。ごめんなさい。お父さん。
〔けど、この前病院で具合が悪くなって送ってきてくれたときに雄二さんと鉢合わせした〕
〔この、馬鹿!〕
ヒッと、体が縮み上がる。父に怒鳴られたのって、いつ以来だろ。
〔雄二さんが来るのが判っていて、男に送らせるなんて。おまえ、馬鹿なことを〕
〔知らなかったの〕
〔何?〕
〔雄二さん、連絡なく来てて合鍵で部屋に入ってて〕
ハァーっと、父が疲れたような吐息を漏らす。
〔その鍵はどっちからだ?〕
〔どっちって?〕
〔お前が渡したのか、向こうが欲しがったのか〕
〔雄二さんが、婚約者なんだから鍵くれるかって〕
〔で、お前はあっちの鍵を持っているのか?〕
貰って、ない。な。
〔それは……おかしくないか?〕
〔おかしい?〕
うーん?
首をひねっていると、父が話を変えた。
〔おかしいかどうか、一人でゆっくり考えるんだな。で、雄二さんとその同僚、か? 会ってどうなった?〕
この前の顛末を話す。キス云々はなかったことにしたけど。
〔それで、コロっといってしまったわけか〕
ああ、もう。この馬鹿娘が。と、父の呟きが聞こえる。
〔で? 家に電話をしてきて、どうするつもりだ?〕
〔近いうちに雄二さんと話すつもりだから。その前に連絡をと思って〕
結納をしていないから、両方の親はまだ顔を合わせていないけれど、話の流れによっては互いの家を巻き込むことになってしまう。
事前に両親の耳へ入れておくのがせめてもの孝行かな、と。
破談にしようとしてるクセに、何をきれいごとをって声も頭のどこかで聞こえるけど。
雄二さんとの、話し合いの結果をまた電話することにしてこの日は電話を切った。
いざ、雄二さんと話をしようと思っても、電話がつながらない。
忙しいんだろうな……とは思う。世の中は空前の好景気だとか言ってるし。
連絡がつくのを待っていても埒が明かないと、九月下旬の週末に大阪まで出向いた。
アドレス帳に住所は書いた。本屋で大阪の地図も買ったし。
夏に一度来たことがあるというのに、何回かある電車の乗換えのたびに駅員さんのお世話になって。
さらに最寄り駅の駅前の交番で地図を描いてもらって。
やっとついた、彼の部屋。
ドアチャイムを押す。
「はーい」
え? 女性の声?
部屋、間違えてないよね。
表札を確認している私の前で、ドアが開く。
「どちらさん?」
小柄な部類に入る私より、少し背が高くって色っぽいお姉さんが出てきた。
「ここ、澤田雄二、さんの部屋ですよね」
「雄二ー。客やでー」
「誰だよ、こんな時間に」
奥から、シャツを引っ掛けたような姿で、彼が出てきた。
「何? 文句あるのか。その目」
部屋に上がって腰を下ろすなり、視線のことを言われた。
”ある”のが、普通よね?
負けずに、見返す。
「先に、浮気したのは沙織だろ?」
「浮気なんかしていません。何を根拠に、そんな事を」
「お前、風邪引いたとか言ってた日。あの先生、お前の部屋から出てきたその足で薬屋行ったんだよ」
「見てたんですか」
何やってんのかしら、この人。
軽蔑の気持ちが入っただろう、私の目から視線をそらせて、
「俺があれだけ言わなきゃ、くれなかった合鍵で鍵かけてな。大体、お前もあいつも病院関係者なら、薬屋に行く必要ないだろ? 薬でもなんでも必要なもんは手に入り放題だろうが」
そんなわけ、ないでしょうが。
「って考えたら。答えはひとつだろ? 病院で扱ってないモン買いに行ったって」
避妊具とかな。
そういって、下卑た顔で雄二さんが笑うのを肩にしなだれかかったお姉さんがたしなめる。
なんだか、まじめに話すのが馬鹿馬鹿しくなってきた。
さっさと、終わらせよう。
「本題に入らせてもらいますね。雄二さん。もう、終わりにしましょう」
持ってきた指輪をケースごとテーブルに置く。
「なんだよ。それ」
タバコに火をつけて、そのままあらぬほうに視線を泳がせる雄二さん。
「言葉通りです。私と別れてください」
「浮気が本気になったか」
「どう、思われても結構です。とにかく、婚約の解消をお願いします」
「ええー。雄二、婚約者なんかおったんや」
知らんかったー。とか言いながらお姉さんが雄二さんの指から取り上げたタバコをふかす。
「お前、茶々いれるな」
「はいはい。ほな、代わりに茶ぁー入れたるわ」
自分で言って、自分で笑いながら台所に立つお姉さんは、くわえタバコのまま勝手知ったる風にお茶の支度をしている。
「解消なんかするか。させてたまるか」
「はい?」
「あの先生になんか、くれてやらんぞ。沙織は俺のモンだ」
私の顔を睨んだ雄二さんの顔は、額に青筋が浮かんでいた。
「三高だかなんだか知らんが。医者だからって、俺より背が高いからって、お前を渡すもんか。お前に”外の世界”を見せたのが、やっぱり間違いだった」
何?
今、なんて言った?
『外の世界?』
「お前に”必要なもの”は俺が用意してやるから、お前は、俺の手の中だけで生きれていればいいんだ」
言い募るその言葉に、背筋が寒くなる。
『手の中だけで生きていればいい』?
怖い。
雄二さんの皮をかぶった、異星人を見ているみたい。
怖い。
このまま、ここから帰れなくなってしまいそう。
怖い。
自分から、相手の”手の中”に入り込んでしまうなんて。
怖い、怖い、怖い、怖い。
こわい、こわい、こわいこわいこわい……
視線をはずすと、次の瞬間にベロッと皮がはがれて
異星人が現れてきそうな恐怖感に目が離せない。
狂気を孕んだ彼の目に
視界を、思考を支配されそう。
「あらー?。雄二ったら。昨日はウチのこと『一生、離さへん』言うてくれたやないの?」
お茶を入れながら、混ぜっ返したお姉さんの声に止めていた息を吐く。
呪縛が解けた気がする。
「誰が、お前みたいなあばずれ。お前なんか、沙織の代用品だ」
「なんやて? もういっぺん言うてみ」
こっちを向いたお姉さんと目が合った。
彼女の視線が、戸口のほうに流れる。
ここから逃げられる? お姉さん、私を逃がそうとしてくれている?
「ほら、どないしたん? 彼女みたいな大人しい子にしか格好つけられへんの? こっち向いて、ウチの顔見て、もういっぺん言うてみぃ」
投げかけられた挑発に、雄二さんがお姉さんの方に向き直る。
「なにを」
「そんな、アカンたれやから三高男に寝取られんねん」
「なんだと? もういっぺん言ってみろ」
ぎゃあぎゃあと、言い争う声にまぎれて、荷物と靴を持って飛び出す。
何しに来たんだろ? 遠い大阪まで。
トボトボと駅に向かって歩く。
途中やっぱり迷子になって、コンビニの店員さんに道を聞いて。
帰りの電車に乗った。
〔もしもし、こんばんは。本間、です〕
〔美紗?〕
〔あ、お姉ちゃん?〕
お母さん、お姉ちゃんからー。って声が受話器の向こうで聞こえる。中学生になったっていうのに、妹は相変わらず幼い。
その子供っぽい声になんだかほっとする。
まだまだ、毎日が楽しくって仕方がない年頃だもんね。いいなぁ。あのころに戻れたら、こんなややこしい事、ないんだよなぁ。
〔沙織?〕
〔こんばんは。今日、大阪に行ってきたんだけど〕
ああ、って、母の声が緊張で硬くなる。
〔別れないって〕
女性が居たことを含めて、今日のやり取りを話す。
〔で、どうするの?〕
〔とりあえず、指輪は置いてきた。また、時間を置いて話をするけど……正直な話、一対一で会うのは怖い〕
常軌を逸したようなあの表情。『渡すもんか』ってあの声が、電車の中でも私を追いかけてくるようだった。
〔じゃぁ、うちで話をするようにしなさい。怖いのだったら、一人で会ったらダメ〕
ああ、部屋の鍵を交換しておきなさいって、お父さんが。
その一言に、ぞっとした。
彼は合鍵を持っている。もしも、留守の間に、眠っている間に。部屋に入られたら……。
誰にも助けてもらえない。
誰にも気づいてもらえない。
実家への電話を切るのは正直、怖かった。
けれど。心配をかけちゃいけない。種をまいたのは私なのだから。
受話器を置いて、時計を見る。
終電まで、あと二時間ほど? それを過ぎても、タクシーとか、来る方法がないわけじゃないし。
電話のベルが鳴る。
恐る恐る受話器を上げる。
〔沙織? 勝手に帰るなよ。それに、えらい長い電話だったな。医者とラブコールか?〕
ゲラゲラと壊れたように笑う雄二さん。
怖い。
〔あの、お姉さんは?〕
〔うん? 気になるか?〕
カランと、小さな音。氷?
酔っているのか。
〔さちえ なら、風呂。どうした? 俺と別れるのが、惜しくなったか? そうか、そうか〕
クスクス笑いながら、何かを飲む気配。遠くでテレビの音。
彼の話を聞いているような聞いていないような、うつろな返事を返す。
まじめに話を聞いてるとおかしくなりそうな酔っ払いの繰言。
だけど、この電話がつながっている間は、彼は大阪に居る。ここまでやってこない。
朝まででも、話し続けたらいい。
夜が明けたら、鍵を変えるから