風邪
九月上旬のある土曜日。朝から声が出なかった。
木曜あたりから咳が続いていたのが、昨日の夜中にかなり咳き込んで。朝起きたら、咽喉がカサカサしていた。声帯に声が引っかからない。
「おはようございます」
ささやき声で言った私に、薬局長と酒井さんがぎょっとした顔を向けた。
ロッカーとは名ばかりの薬品倉庫の一角で着替えながら、薬局長が話しかけてくる。
「本間さん、風邪?」
「みたいです。朝起きたら、こんな声で」
話している間も、コンコンと乾いた咳が出る。
薬局長から処方箋を出してもらう手続きを教わり、自分で調剤をする。
咳止めを一回分飲んで、
さあ、始業。
今日は私のローテーションは昼までの勤務。半日がんばれば休みだから、部屋に帰ってゆっくり寝て治そう。
患者さんの呼び出しは、最初からマイクを使わせてもらった。マイクを手で包むようにして声を送り込む。そんな方法で、何とかこなす。
「あらあら、風邪? おだいじにねぇ」
顔なじみになったおばあちゃんたちがそう言ってくれる。中には、
「ハイ、飴ちゃん食べ。咽喉には、絶対飴ちゃんやから」
って、かばんから出した飴をカウンターに置いていく人も。
”飴ちゃん”って。なんか、かわいい。
「ありがとうございます。後でいただきます」
「あんた、薬局やねんから。風邪ひいとったら、薬が効かへん気がするやろ」
と言いながら帰っていく人の後姿に頭を下げる。
温かい、”血の通った”会話に、胸のどこかが潤う気がする。
この潤いが、”ケア”なのかな。
土曜日は三人出勤体制なので、二人が休み。三人のうちの一人が半日で、残りの二人が一日勤務。それをローテーションでまわす。
一日勤務の二人が交代で昼食を済ませてから半日勤務の昼食と、いつもと違った昼休みになる。
「本間先生。向いの席、いい?」
おうどんをすすっていると、桐生先生の声がした。うなずくと、定食のトレーがテーブルに置かれる。
すごい。ご飯大盛り。
「今日は、一日?」
「ううん。昼まで」
だし汁のおかげで少し咽喉が潤って、声が出だした気がする。のに。
「今日、やたらと薬局がマイク使ってたの、本間先生?」
「はい?」
「いや、本間先生の声って、結構よく通るから。リハビリ室の入り口辺りまでは聞こえるんだよね」
そう言って、味噌汁に口をつける桐生先生。相変わらず、キレイな仕草。
「カウンターに居る姿を見かけたのに、声がしないなって思ったら。ひどい声だね」
「朝よりは、マシになったんだけど」
「薬飲んだよね?」
って尋ねながら、彼は定食のフライを箸でつまんでいる。私は、一度箸をおいて、お茶を手に取る。
「薬箱の中で仕事してるんだから、飲み放題でしょ?」
「飲み放題って、ねぇ。ちゃんと処方箋出してもらってますー」
そう言い返すと、フライを銜えたままで肩で笑っている。
「昼までって、何時?」
「これ食べたら、帰る」
その前に、もう一回分薬飲んでおこう。
全部食べ切れていないけど、もうおなかいっぱいな気がしてきた。箸を置いて手を合わせ、口の中でご馳走様を言っていると、にゅっと視界に手が伸びてきた。
ひんやりした掌が、額に当てられる。
「かなり、熱出てない?」
するっと手が滑って、首筋に回る。
あ、冷たくって気持ちいい……。
けど、どうなの? 職場でこの体勢って。
「桐生先生、セクハラ」
「ああ、ごめん」
自分で『セクハラ』って言ったくせに、離れていく手に寂しくなる。熱のせいで、どこかおかしくなっているみたい。部屋に帰っても一人だという、人恋しさか。
「俺もこれ食べたら、上がりだから。送っていくよ」
「いいって」
「病人が遠慮しない。どっかで倒れてそうで怖いから、送らせて?」
そう言うと、桐生先生はキレイな箸使いで食事を再開した。
「じゃぁ着替えて、薬局に居るから」
よろしくーって言いながら、立ち上がる。おっと危ない。ふらついた。
んー。自分では自覚ないけど、やっぱり熱あるのかな。咳止めだけじゃなくって、感冒剤も飲んでおこう。
「本間さん? 桐生先生がタイムカードのところに居るって」
ノックとともに聞こえた酒井さんの声に、返事を返す。やっぱり熱が出てきているのか、だるくってロッカーの横、事務スペースの椅子に座って、ボーっとしていた。
「なに? そんな声でデート?」
「ち・が・い・ま・す! 帰り道で倒れてそうだって送ってくれるだけです」
「はいはい。本間さん、彼氏居るんだもんね」
ヒラヒラ手を振りながら倉庫の棚の間に入っていく酒井さんに、
「お先に失礼します」
と、挨拶をして裏口から出る。
タイムカードの前で壁にもたれていた桐生先生がこっちに気づいて片手を上げて、体を起こす。反動をつけない動きにまた、目を奪われる。
ラックを指でたどって自分のタイムカードを探す。
山崎、森本、酒井、堀田、本間、小西、池田、桐生、大森、三沢……
あれ?
もう一度上から
山崎、森本、酒井、堀田、本間、小西、池田、桐生、大森、……
「何、やってんの?」
後ろから、すっと手が伸びて一枚のカードが抜かれる。
「おんなじところを何度もなぞって」
打刻をしてラックに戻される、”本間”のカード。あ、ここだったんだ。
「かなり、重症だな」
駅までゆっくり歩きながら、桐生先生が言う。
重症っていうよりも、眠い。
あ、そっか。感冒剤って、抗ヒスタミン配合だ。
薬の眠気がこんなにつらいとは思ってなかった。歩きながら、話をしながらでも眠ってしまいそう。
「タクシー使う?」
黙って、うなずく。歩くのがつらい。
駅前の乗り場で、タクシーを拾う。運転手さんに住所を言って、車が動き出す。隣に座った桐生先生が
「着いたら起こすから」
と言ってくれた言葉に甘えて、目をつぶる。と、頭に抱き寄せられるような力が加わり、肩にもたれかかる姿勢になってしまった。
「遠慮しない」
目を開けると、そう言ってにっこり笑う。
「じゃぁ、おやすみ」
そして、掌で目を塞がれた。
「本間先生、ついたよ」
その声に、目が覚めた。まだ眠いし、ふわふわしている。
「抱っこしようか?」
「大丈夫。降ります」
ゆっくりと降りる私に、先に下りた桐生先生が手を貸してくれる。あ、支払い。
「支払いは、済ませたから。とにかく、降りて」
「何から何まで、ありがとう」
「いいえ。どういたしまして」
バタン、とドアが閉まりタクシーが走り去る。
丁度、アパートの前に降ろしてもらえたんだ。
一歩を踏み出そうとして、ふらついた。
抱きかかえられる肩。
肩を支える、大きな手。
「家、どっち?」
「そこの階段上がって、三軒目」
ゆっくりとした歩調で歩き始める。支え方が上手なのか、ふらつかずに楽に歩ける。
「そりゃ。俺、これで飯食ってんだし」
ああ、なるほど。リハビリの技術なんだ。
かばんから鍵をだして、ドアのロックを開ける。手ごたえが……ない?
朝、鍵かけたっけ?
風邪でボンヤリして、かけ忘れてた?
これ、ドアを開けても大丈夫?
「どうした?」
桐生先生の声に反応したように、ドアが開いた。
「沙織、こいつ誰?」
肩を支えるように回された手を睨みながら尋ねる雄二さん。
「同じ病院の桐生先生です。雄二さん、来てたんですね。連絡くれたらよかったのに」
「連絡してたら、男を連れ込まなかったのにってか?」
何? いったい何の話?
頭が働かない。
男? 連れこむ?
「何で、その目で見る。俺が責められることじゃないだろうが」
あ、また見てたんだ。
そっと視線を足元に落とす。
「彼氏さんが居るなら、ちょうどいい。看病してもらえるね」
肩を支えていた桐生先生の手が背中に回って、押し出すように軽い力が加わる。たたらを踏むように玄関に入った私は、何とか姿勢を立て直す。雄二さんは腕組みをしたまま、そんな私を睨んでいる。
その目に、世界がグラグラする。
体から力が抜けて、狭い玄関の土間にひざを突く。
そうか。雄二さんが嫌う私の目って、あんな風に見えているのかも。
「看病?」
頭の上から降ってくる雄二さんの声に、顔を上げて答える。頭を動かすと、視界がグルグルする。あー、気持ち悪い。
「風邪をひいたみたいで」
「それで、その声か」
「はい」
私の声がおかしいことに気づいた雄二さんは、顔をしかめると背中を向けて奥から荷物を取ってきた。私を押しのけるようにして靴を履く。
「冗談じゃない。俺は月曜からの出張のついでに来ただけだ。風邪なんか伝染されてたまるか」
冷たい。
私は押しのけられたまま、狭い玄関の壁にもたれて彼の言葉を聞いた。
今日、患者さんたちと交わした会話とは次元が異なるほどの冷たい言葉に、熱でのぼせた頭の芯がキーンと痛くなる。
「あんた、桐生先生って言ったっけな。医者なら、看病くらいお手のもんだろ? プロが居るのに素人の俺が看る必要はないんじゃないか?」
そう言いながら雄二さんは、外開きのドアを背中で押さえるようにしている桐生先生の胸倉を握った。
「ただし。”お医者さんごっこ”しやがったら、ただじゃおかないからな」
恫喝するように、雄二さんが下から覗き込む。
桐生先生のほうが、背が高いんだ。
壁にもたれたまま、よそ事を考えている私をちらっと見た桐生先生が、軽く返事を返した。
「わかりました」
と。
「ただね、彼氏さん。ひとつだけ。俺たちのケアは対価が発生するわけですから、プロの技術が要りますけどね。家族や恋人同士のケアに必要なのは、技術よりも思いやりですよ」
そう言うと、桐生先生は鮮やかに体を滑らし、握られた手を解いた。握っていたはずの雄二さん自身が信じられないものを見たような顔をするほどのさりげなさで。
フン、と鼻を鳴らして雄二さんが出て行った。
「本間先生、何か要るものあったら買ってくるよ」
何事もなかったかのように、しゃがみこんだ桐生先生が尋ねてくる。
「レトルトで食べるものとか、何かある?」
冷蔵庫の中を思い浮かべて、イオン飲料と液状の栄養補助食品をお願いする。
「氷枕とかは?」
「あー、持ってないけど。ま、何とかなるんじゃないかと」
「わかった。じゃ、買い物に行ってくる間にお布団入っておくこと」
鍵、借してって言いながら伸ばされた掌に、握ったままだったキーホルダーを置く。
「鍵もかけておくから、おとなしく寝ておくんだよ」
って、留守番の子供に言い聞かせるような言葉を残してドアが閉まった。
ひんやりした物がおでこに触れて、目を覚ました。
「あ、起きた」
「ごめんね、桐生先生」
「病人が、遠慮しないのって」
切れ長の目を細めるように笑いながら言う桐生先生。
額に乗せられたものに指で触れる。タオルが巻いてあって……蓄冷剤にしては硬くない。
「何、これ?」
「スポーツでアイシングに使う冷却材。前もって冷やしていなくっても、一瞬で冷えるんだ。これが」
なるほど。そんなものがあるのか。さすが専門家。
「いや、仕事より先に、部活で知ってたんだけど」
「桐生先生、武道してたでしょ?」
「わかる?」
「体捌きが只者じゃないし、さっきの襟をつかまれたときの抜き方とか」
「うん。中学の途中まで合気道をね。祖父が師範をしてたから。部活は中学高校とバレーをしてたんだ」
のど、渇いてない? なんて言葉を挟みながら、話が続く。
「本間先生も何か……多分、打撃系の武道やってたんじゃない?」
「何で?」
にっこり笑った桐生先生が言ったのは
「じゃんけんしよっか? ほら、最初は、ぐー」
つい、反射で布団から手を出して拳を握ってしまった。その手をつかまれて、目の前に出された。
「見て。握り方が、拳だよ」
やめてから、五年以上たっているのに。私の握り拳は、拳法を習っていたときの形を忠実に守っていた。
「あー。本当だ」
「それに普通の人は、『たいさばき』とか、ここを『襟』とは言わない」
ここに襟があるのは、着物だよって。胸元を指差す。
同じ”言葉”を話す人が居る。こんな近くに。
冷たい雄二さんの言葉に冷え切った頭の芯に、少しぬくもりが戻った気がした。
うとうとしては目を覚ます。
桐生先生は、ずっとベッドにもたれるようにして分厚い文庫本を読んでいた。
窓の外が暗くなりかけたころに、買ってきてもらった栄養補助食品と薬を飲んだ。
次に眼を覚ましたときには、部屋の電気もついていた。いま、何時だろう。
お手洗いに行って。
熱っぽい感じはあるけど、帰ってきたときよりは体が楽な気がする。
「桐生先生、もう大丈夫だと思うから。帰ってもらっても」
「うん。帰ってもいいんだけど。一人で倒れてないか心配」
うーん。って伸びをして笑う。
ベッドに腰掛けて、その顔を眺めていて。
ふっと目が合った。
魔 が差した。
どちらからともなく、顔が近づいて。
唇が触れた。
強烈な餓えを実感した。渇きを覚えた。
私は、
この男性が
ほ し い
吸血鬼が血を欲する心持ちを
理解してしまった。