独り立ち
今週と来週は、各病棟の詰め所に置いてある緊急用の薬の在庫チェックが行われる。
使用期限や、置いてあるはずの定数をチェックして、来年の交換時期まで安心して使ってもらえるように交換や補充をする、年に一度の作業。
「来年は、本間さんも担当を決めて行ってもらうからね。今年は全病棟についていって、お勉強ね」
そう薬局長に言われて、担当の先輩にくっついて各病棟を回る。
今日は、私より三年先輩の酒井さんのお供をして、昼から外科病棟で作業をしていた。
「じゃ、本間さん。これだけ薬局に戻して。新しく持ってくる数がこっちの表にあるから、準備しておいて」
使用期限の近い薬品を入れたカゴを示されて、手に持つ。点滴のボトルがずっしり来る。五百ミリリットル入りが、にーしー、ろく? ってことは三キロちょっと。
酒井さんは消えかけた棚の字を修正してから戻ってくるとかで。
抱えたカゴを手に階段をヨチヨチ下りて、一足先に一階の薬局へ戻る。
って……あれ?
ここ、どこ?
外科病棟の詰め所から一番近い階段を下りた私は、自分のいる場所が判らなかった。
一階にはついた、よね?
振り仰いだ階段の踊り場の壁には、二階と一階の間である表示が見える。うん、間違ってない。
階段の両側に薄暗く人気のない廊下が続く。院内にこんな廊下、あったっけ?
重いカゴを手に、どっちへ行けばいいのか迷っていると、階段から声がした。
「あれ? 本間先生? どうしたの? こんなところで」
「桐生先生ー。薬局ってどっち?」
切れ長の目を限界まで見開いた桐生先生は、おなかを抱えて笑い出した。
「そうか、薬局ってあんまり病棟行かないんだ」
「リハビリは、よく病棟行く?」
「入院中の患者さんの送り迎えとか、指示箋を書いてもらいにドクターを捜し求めてとかね」
こっちこっちと、案内してもらって着いたのは薬局の裏口。なんだ。こんなところに裏口が隠れていたんだ。職員専用の廊下は部屋を示すプレートが出てないし、裏口って柱の陰になっていて階段から見えてなかった。
裏口に立って、今来た廊下を振り返る。ここから見たら、見慣れた風景なのに。パニックって恐ろしい。
じゃあ、お疲れ様ーとか言いながら、リハビリ室に戻っていく桐生先生の歩く姿になんだか、既視感を覚えた。
何で? どこで?
六月を迎えて、試用期間が終わり私も独り立ちした。
ローテーションに組み込まれて、窓口で投薬もして。在庫管理の当番も回ってくる。
「佐藤様、佐藤ハツ様」
出来上がった薬を手にカウンターから名前を呼ぶ。まずは声で。待合室に患者さんがいないようだったら、マイクで。
反応がないから……と、マイクに手を伸ばしかけたところでオープンカウンターの隣の席に座っていた医事課の久住さんが
「本間ちゃん、今立ち上がった人」
と、教えてくれた。
顔を上げると、腰の曲がったおばあちゃんが『よっこいしょ』って風情で立ち上がるのが見えた。
佐藤様を待つ間、カウンター内の整理をして間を持たせて。そろそろかなって顔を上げたら、薬局カウンターの正面の角から桐生先生が曲がってくるのが見えた。外来に向かう患者さん、カルテを持って小走りで検査室へと向かう看護婦さん。その間をスルスルっと水が流れるようにすり抜けてこっちにくる。
途中で佐藤様に声をかけて、ニコッと笑いかけて。
「清算、お願いします」
手にしたカルテを医事のカウンターに乗せた桐生先生は、
「本間先生。また、クセが」
そう言うと、またスルスルっとリハビリ室へ戻っていった。
クセ、じゃなかった気がする。今のは。
意識して、見ていた。私。桐生先生の歩く姿を。
「ごめんねぇ。時間がかかって。佐藤です」
佐藤様の声で我に返った私は、仕事に戻った。
それから、何度となく桐生先生の歩く姿を見ていて、思い出した。
あれは……就職が決まったかどうかってころ。お蕎麦屋さんで見かけた食べる仕草のきれいな人。食べ終わって、店から出て行く後姿が桐生先生と似ていた気がする。
そんなことを覚えていた自分に驚くのと共に、食堂に行くと桐生先生の食べる姿を探してしまうようになった。
桐生先生も、食べる仕草がきれいな人だった。
ローテーションに組み込まれたことで始まった新たな仕事に、定期薬の調剤監査があった。
外来、入院に関わらず、薬を出す前に間違いがないかチェックをする。それが監査。普通の調剤なら、調剤した人とは別の、手が空いている人がするのだけれど。
慢性疾患などで入院中もずっと飲み続けられる薬。ここの病院では、そんな薬は”定期薬”と呼んで、処方漏れがないように病棟ごとに曜日を決めて処方せんが書かれ、薬局も曜日を決めて調剤と払い出しをする。
そして、その監査はローテーションで当番が回ってくる。独り立ちした週から、私もそこに組み込まれた。
実際にやってみると。これが、なかなかの曲者で。
飲み間違いがないように包装から出して一回分ずつパックしてある薬。錠剤やカプセルに刻まれた数字やマークを読み取ることで薬剤名を判断して処方せんと照らし合わせる。そして内容の過不足をパックごとに確認。
数字やマークをまだ覚えられていない私は、一種類ずつカンニングペーパーと照らし合わせながらの作業で時間のかかること。調剤は監査当番以外の全員が手分けして行っているので、監査は誰も手伝えない。ひたすら孤独に錠剤のパックを睨みながら作業を続ける。
「明日のお昼までに病棟に上げれるようにしてね」
薬局長はそんなリミットを告げて帰ってしまった。先輩たちも、がんばれーって。
診察時間が終わって明かりの消えた待合室の暗さがカウンターから見えて、自分がすごく一人ぼっちな気がする。
お腹すいたなぁ、あと三分の一、うーん四分の一かな。終わるまで。
そんなことを考えながら凝り固まった肩をまわして、伸びをする。
「本間先生」
声が聞こえた方を伸びをした姿勢のままで眺めると、カウンターから覗く桐生先生がいた。
「あ、お疲れ様です」
「残業? 一人で?」
「そうでーす」
返事をすると、カウンターから覗いていた顔が引っ込んだ。そして待合室につながるドアから桐生先生が入ってきた。
「リハビリがこの時間までって珍しくない?」
そう尋ねる私のほうに、スルスルっと近づいてきた。
「今日は、リハビリの器械の定期点検があって。本間先生は?」
「これ、全部チェックするまで帰れないの」
目の前の仕事の山を指差して、ため息をつく
「これ? 全部? 他の先生は?」
「作った人とは違う人がチェックするから。今週は私がチェック当番」
「じゃ、まだまだ帰れそうにないんだ」
人に言われると、余計に疲れた気がする。
ヘチョっと机にへばりつくと、頭に手がのった。
「本間先生、お腹すいてない?」
「すいてる」
顔の向きを変えることで、桐生先生の顔を見上げる。頭に乗っていた手が、ポケットに入って。出てきたときにはキャンディーがひとつ乗っていた。
「はい、とりあえずの虫押さえ。これ食べてガンバレ」
そう言って、机の上にキャンディーを置くと
「じゃ、お先に。お疲れ様」
と言って、また流れるようにドアから出て行った。
貰ったパイン味のキャンディーを口に入れる。
もう一がんばり。ファイト!
雄二さんから夏休みについて電話があったのが、七月の半ばだった。
〔沙織のお盆休みっていつから?〕
〔お盆休み、ないんです。病院だから〕
〔え? でも有給休暇ってあるよな?〕
在るには在るけど。一年目の新人は月に一日ずつしか消化できない。土曜出勤の代休を絡めても……三日ほど休める、かな?
〔じゃぁ、旅行とかってしんどいか〕
〔うーん。ボーナスもシビアでしたから。一度大阪に行くことくらいはできそうですが〕
初任給と同じく、ボーナスもきっちり日割り計算がされていた。この業界、よりよい待遇を求めて渡り鳥のように勤め先を変える人たちもいるそうで、不公平にならないようにってことだと薬局長が言っていたけど。
〔なぁ、本当にお前の職場ありえないだろうが。その労働条件って〕
呆れたような雄二さんの声がする。
その労働条件で働く人がいるから、二十四時間年中無休で医療が受けれるんだけど。
そんなことを内心考えて、返事が滞った。それを雄二さんはどう捕らえたのか、話を戻した。
〔それならお盆に俺が一度そっちにもどるから。その前くらいにお前、こっちに来るか?〕
そう言って、私の八月の土曜日の勤務の予定を確認して電話が切れた。
お盆真っ只中に丁度私も土曜日の休みがあたった。一週間前からお盆休みに入っていた雄二さんはその前日の夕方から私の部屋に来ていた。その二週間前には私も大阪へ初めて行ったから、彼に会うのが二週間ぶり。学生のころに少し戻った気分。あの頃は、バイトと実習の合間にデートしてたのにな。
そして土曜日には、一緒に花火大会に行った。
結構な人出で、人の流れに逆らわないように歩いているはずなのに、手をつないだ雄二さんに振り回されるように他の人とぶつかる。
桐生先生だったら。きっと流れるようにすり抜けていくんだろうな
そう、思ってしまった自分に驚いた。
今、私はいったい何を……?
二人で迎えた翌日の日曜日の朝。遅い朝食を食べ終えたところで電話が鳴った。
病院の外来からだった。
〔お疲れ様です〕
〔お疲れ様です。お休みのところすみません。麻薬の処方が出たのですが〕
薬局が当直制をとっていないうちの病院では、通常の薬は”医師の指示”によって看護婦さんが出してくれている。けれど、麻薬は薬剤師が行かないといけない。今日みたいな休日には、勤続年数順に病院から電話がかかって来ることになる。
私にかかってくるってことは。こんな時間から、先輩たちみんなお出かけですか。
頭の中で、手順をさらって。よし、大丈夫。
〔今からでしたら、二。三十分ほどかかりますが〕
〔はい、大丈夫です。すみませんが、お願いします〕
電話を切ると、雄二さんの不機嫌そうな声がした。
「なに?」
「ちょっと、病院に行って来ます」
「新人なのに?」
「他に誰も捕まらなかったみたいです」
出かける準備をしながら話を続ける。軽く、化粧をして。洗濯は……仕方ない帰ってから干そう
広くはない部屋を、あっちへこっちへと動き回っている私を、テーブルの前で眺める雄二さん。
ガン、と大きな音がたつ。
マグカップがテーブルに当たった? 割れてないといいけど。
「分かってる? 俺、昼前にはここ出て帰るんだけど。俺と名前も知らないどっかの誰かと、どっちが大事なわけ?」
耳から入ったはずの雄二さんのその言葉は、同じ音を使った違う言語のように感じられた。それぐらい、私には理解できない言葉だった。
体温の感じられない、冷たい言葉。
”血の通わない”って、言葉が理解できた気がした。
「だから。その目で見んなよ。責められているみたいで、感じ悪いって言ってるだろ。俺、何か間違った事、言ったか?」
また、クセが出ていたみたい。
けれど、それを反省するよりも前に。
桐生先生なら、きっとそんな冷たい事を言ったりしない。
そんなことを思ってしまった私が居た。
雄二さんと桐生先生を比べるようなことをしてしまった自分の心をごまかすように、話をつなぐ。
「これが、私の仕事ですから。雄二さん、今日はここの合鍵持って来てますか?」
ゴールデンウィークにこっちに来てくれた時。お菓子をねだる子供のような彼にほだされて渡した、合鍵。
「持って来てないって言ったら?」
「仕方ないですね」
「ここにいてくれるのか?」
「いいえ。いきますよ。だから、持ってきていないなら、私が出るときに一緒に部屋を出てください。時間までに戻れるとは思いますけど、何かの具合で遅くなったら新幹線に間に合わないかもしれませんし」
今度は意識的に、雄二さんの顔を見る。
一秒。二秒。三秒。
「わかった。持ってきているから。時間になったら鍵かけて帰る」
ため息と一緒に答えた雄二さんに、
「では、お願いしますね。行ってきます」
と告げて、私は病院へ向かった。
病院について、仕事をこなして。
ついでに……と頼まれた処方箋も二つ三つ。
薬局の鍵を閉めて時間外受付に戻してから、待合室の電話で部屋にかけた。
まだ、部屋に居るはずの雄二さんに『今から、帰ります』って言うつもりで。
電話は繋がらなかった。
まっすぐに戻った部屋には誰も居なかった。雄二さんが出る予定の時間までまだ、三十分ほどあった。
テーブルの上には朝食の皿が残り、ベッドも起きたときに軽く直したそのままだった。
私は。雄二さんと結婚してやっていけるのだろうか。
マリッジブルーなのかな。
ノロノロと、目玉焼きの黄身がこびりついたお皿をかさねてシンクに運ぶ。
ため息しか、出なかった。